中国音楽にはいろいろな音階がありますが、その中には5音階(ペンタトニック)や7音階があり、特に5音階が重視されています。そこでここからは中国の5音階の説明に入ります。その最初として、楊蔭瀏の論文「如何对待五声音阶与七声音阶同时存在的历史传统」(5声音階と7声音階が伝統的に同時に存在していることをどう観るか)というものがありますので、この翻訳をご覧いただきます。中国国内の専門家向けの内容なので、わかりにくいところでは注釈を加えます。
前文では、現代のように交通が発達していない時代には各地域の交流は限定的だった、しかし全く隔絶されていたわけでもなかったという状況で、時に戦争や政治的動乱による大移動でかなり大きな文化的接触が発生したこともあった、そうした中で全体的に一定の共通項も見られる、音階もまさにその1つである、とあります。5音階だけしか存在しない地域、あるいは7音階だけの地域というのは極めて見出し難い、どの地域にも両方が使われているのはどういうことなのか、5音階と7音階の作品が同時に同じ地域で同じ民族の中で流行するという現象が見られます。先に5音階が発生し、後に7音階が発展したと考えるのは道理に適っているし、7音階が出現して以降も尚、5音階を顧みるのも理由があってのことで、歴史的にそういう状況を見出すことができるとあります。全編はいくつかの章に分けられています。以下はその翻訳です。
5音階が歴史的にいつ発生したのかは明確にわかっていません。出土物と伝承から推測できるのは紀元前16~11世紀頃ではないか、紀元前23世紀にはすでに「五声」という言葉も見られます(《书·益稷》:“予欲闻六律、五声、八音”)。実際に発掘されたものを見ると、山西省荊村から出土した新石器時代の3つの塤(xun:卵型の土笛)の中で穴の数が最も多かったのが3孔で、出せる音も3つしかないというものでした(3孔の内、1つが吹口)。
(弦堂注:3つ目の音は矢印がついていますが、これは譜の音より少し高いという意味です。出せる音はこの3つでは手がかりになりません。出土された他の2つは孔が1つづつ減って、1つしか孔がないものは吹口だけです。3つの音の配列を見るにこれは音楽用ではなくて通信連絡用だったのではないかという気がします。参考にはならなかったようで、本文もすぐに次の出土物に移っています。)
5声を備えているという観点からは、河南省輝県琉璃閣区殷墓から出土された塤が6つの孔が開けられていて、少なくとも6音、指使いを組合せれば上記の10音が得られ、5音階ではE調或いはA調となります。紀元前16~11世紀のものです。一部の研究者が殷代の鐃(nao:ベル型の手で持つ金属打楽器)が3つ1組であることを根拠に殷代の音階が3つの音しかないとしているのは必ずしも信じることはできません(弦堂注:殷代の鐃は軍事用途だったのでこれもやはり音楽とは関係ないでしょう)。なぜなら打楽器、つまり音の固定されたものは、当時のすべての音を網羅しているものではない、音階に含まれる全ての音を含んでいるものではないからです。例えば、唐代の羯鼓(jie-gu:日本のつつみとほぼ同じ)は特定の音しか出ませんが、しかし同時代には様々な曲調や幾つもの調性の音階があります。西安鼓楽(古代宮廷音楽)は5音階、7音階共にありますが、しかし3つの雲鑼(yun-luo:銅鑼の小型のものを碁盤の目に幾つも並べたもの)だけを使い、該当する音が無い場合には近い音を叩いたり和声上の音を叩いたりします。殷代の打楽器もこのような用法は可能です。そのため、殷代の音階を研究するのであれば、管楽器と比較する方が信頼できることになります。最初の例で言うと、塤で得られた多くの音は実際のところ、殷代の3音階を否定しています。
伝説の中で7音階が確定されたのは紀元前11世紀周代文王、武王の時代とされます(杜佑《通典》:“自殷以前,但有五音;自周以来,加文武二声,谓之七音”)。その前後の発展の状況を見ると、この伝説は十分に信じるに値します。この時代より前には5音階の塤しか存在しなかったし、以後には紀元前6世紀周朝景王が伶州鶏に「七律とはなんぞや?」と尋ねたと言う記述があります。紀元前6世紀以後、しばしば“七音”,“七声”などの言葉が使われ、多くの場合、五音、六音、七音など並列して提起されていました(《左伝》晏子説:“声亦如味・・・五声,六律,七音,八風,九歌,以相成也”)。私たちが感じられるのは、7音階が使われる比較的早い頃にはまだ6声や5声音階が重視されていたということです。ある人たちは7音や6音が5音階を強調や装飾などによって豊富にしたものであるという意味を明確に論じていました(《左伝》子太叔曰:“为九歌,八風,七音,六律,以奉五声”)。紀元前7世紀頃による管子の三分損益法では、5声までしか扱っていません(《管子・地員篇》)。紀元前4世紀には孟子がやはり5音階について論じています(《孟子》:“不以六律,不能正五音”)。このことから古代のかなり早い時期に既に7音階が出現していたことは間違いないが、それ以降であっても相当長きに亘って5音階が高い地位にあったと見ることができます。
第4,7音が5音階の装飾として使われていた時期はおそらく一定期間に限られたものでした。間も無くこの2音も5音階の他の音と同じ重みを以て見なされるようになりました。紀元前227年、燕国太子荆軻が始皇帝暗殺に向かう送別の酒席で歌われた《易水歌》は現代の長音階で見られる第7音と同様の扱いが確認できます。この頃以降、7音階が必ずしも5音階と並列して語られることはなくなりました。紀元553年頃、崔九龍が祖莹に“声有七声”と語ったという記述(《魏書》109巻)、587年、鄭訳が“七声”に言及したという記述などがあります(《隋書・音楽志》)。記譜の方面からは、宮、商、角、変微、微、羽、変宮の7音の内、4,7音が後の音に変を加えて表記され、常に他の5音に加えて並列されるようになっています。唐代以後の工尺譜では、上、尺、工、凡、六、五、乙の7音になっています。587年以前、万宝常による12音のそれぞれに7つの調を充てた84調も、その基礎は7声音階です。管楽器やフレットを持つ弦楽器は7声で作られており、5声のものはほとんどありません。
重要なのは、存在している作品、流行のものも含めて、それが5声なのか7声なのか確認することです。現代でも両方が混在しており、どちらも好まれ、常々、曲調の好みで旋律が選ばれ、それが5声か7声かは気にされないことが普通です。
私たちがもし民間の普通の音楽愛好家に「あなたは5声が好きか、或いは7声か?」と聞いても彼はおそらく答えられないが、好きな曲を聞けばすぐに答えられるに違いないし、それが5声であったり7声であったりもします。
7声と5声が同時に愛好されてきた伝統の形は疑問の余地なく非常に長期に継続しています。中国に5音階があるのは世界でよく知られていますが、7音階があるのはあまり知られていません。それで5音階の例をここで挙げるのはやめ、以下は7音階の例を取り上げます。12世紀作による《杏花天影》では7音階にさらに1つの外音を足しています。13世紀毛敏仲作による古琴曲《漁歌》はかなり長い曲で主要な部分は5音階ですが、第18段では7音階になっています。前段から5度上に転調して次の段で元の調に戻しています。
容易に見出せる2つの音階を併用する例として昆曲が挙げられます。8~20世紀の長きに亘って作曲され流行した5000もの曲調を吸収、11世紀以降の中国北方及び南方の古代戯曲の伝統を総括し、16世紀に至って一人の歌手(弦堂注:明代魏良輔)がそれらの上に創造性を加え、彼によって創始されたのが昆曲です。この戯曲には5音階と7音階がほぼ半分ずつ含まれています。この種の戯曲について言えば、決して少なくない理論があり、その一部分は元の曲の音階形式を根拠にしているために2つの音階が混在しています。作曲で曲調を運用する上で戯曲の創作者には3つの配置方法が明確にあります。
2つの音階形式は古典戯曲の中で理論上、具体的な運用上において十分に注意を払う価値があることは明白です。このような戯曲の中で2つの7音階の例を挙げます。1つは作者不詳でおそらく17世紀の作品《八義記・観画》中の《村里訝鼓》曲牌、もう一つは16世紀明代の有名な劇作家湯顕祖の作品です。
2つの音階形式は民謡の中でも運用されています。労働者の中で受け継がれてきたこれらの曲はどの音階が使われているかを意識されずに親しまれてきました。ですからある作品が5音階なのか7音階なのかは重要視されず、どれぐらい人民に愛されるかが主要な関心事でした。音楽は群衆に対して向けられたものですから、このことに何ら異議はありません。2つの音階形式があること、そこに何も問題はなく、どちらも民衆から支持されている状況下で、私たちにはどちらが正しいかといった判断を下す権利はありません。民謡の本は多数出版されていますので、ここで例を挙げることはしません。
音階形式に関して、中国と世界において2つの偏見があります。1つは、5音階を選択するべきで、第4,7音は使うべきではないというものです。この偏見は中国古代封建時代の支配階級や保守的な文人の間でかなり力があって、彼らが規定した制度や著作の中で相当に堅持されていました。例えば、清朝宮廷において規定されていた祭祀のための音楽は5音階のみが使われました。1743年宮廷が頒布した楽譜の最初の曲がこれです。
このような人民に背を向けた傾向、人民の生活から離れた、言葉と音楽が織りなす人民の伝統的歌曲から離れたこのようなものが人民の支持を得られるわけがありません。そして保守主義的な文人たちでさえ支持し続けることはありませんでした。1829年にこの楽曲をある人が編曲し、この時に7音階に変更されましたが、それ以降少数の文人の間で解放前まで流布されていました(弦堂注:解放とは1949年毛沢東による建国宣言、つまり民国まで)。編曲されたのはこのようなものでした。
その内容はというと反現実主義、人民の愛好は望み得ません。人民の生活や芸術の伝統を捨て、人間味や現実性が感じられず、5音階、7音階まで捨て、音楽言語上、また音階形式上の大きな変更を施して尚、何ら効果を得ていません。現実から離れて、一方で理論上5音階を堅持しておきながら、民間の創作演奏活動に何の影響も及ぼしていません。一方で広範囲の民間においては2つの音階を同時に運用し、その基礎の下に発展してきました。このことから、5音階保守思想は影響力を持ち得ず、重要視する必要もないことがわかります。この間違った影響について注意を払う価値があると見なすのは、おそらく東西音楽を研究する中国音楽の学者に限られるでしょう。中国音楽にあまり接触したことのない、或いは書籍の上でしか接したことのない中国音楽の国際学者は、より容易に保守思想の影響を受け、実践的なテストもできないし、彼らの不幸な収穫を糾す機会も得られません。現代に至っても西洋の学者の間に「中国音楽の特徴は5音階である」という見方が存在します。これははっきりと間違いであるということができるでしょう(弦堂注:この論文は1959年のものですから、情報の多い現代ではこういう無理解というのはないと思います)。
もう1つの偏見は、7音階を受け入れて5音階を否定、尚且つ理論上からも5音階に反対し曰く「過去のもの」「過ぎ去ったもの」とするものです。西洋に存在する見方です。中国国内においても長期に半封建半植民主義の時代を経験し(弦堂注:アヘン戦争から民国にかけての絶対君主制と欧日列強による大陸侵略が混じり合った時代を指す。民国政府は皇帝を推戴することを目指し、実際に即位した政治家もいた)、その過程で盲目的に西洋文化を崇拝し民族文化を軽視した一部の音楽家の中で同じような見方の名残が感じられます。私たちはこのような見方は有害で無益だと考えます。なぜならそれは民族の伝統を離れ、周囲の民衆からも、普遍的な基準からも離れ、結果としてこのような人は学習や仕事において一定の限界があり、彼らにできることの範囲や効果を減じて、業務上の発展の可能性まで捨てています。しかし音階形式の問題は容易に比較的大きな興味を引き起こし、その作用は作曲に対して比較的大きな作用を齎し、特に専門の作曲家に対してそう言えます。一般に専門の作曲家は西洋和声学が背景の主要な部分で、西洋和声学は7音階を基礎として構築され4度と7度(導音)の処理を常に行う手法です。このような学習背景から7音階をそれほど否定しない傾向があります。反対に、彼らが学んできた4度,7度の処理は5音階では使えないので、容易に無視、軽視、そして否定する方向になりがちです。このような状況下で、作曲家たちが主観的な方向に走るのは自然な傾向で、その上で同時に民衆の要求を満たすことを求めることはできません。最も重要なのは、作曲家にとって彼らの仕事の客観的な提供対象、民衆ですが、彼らがある時期、ある経済状況において表す、また提示する普遍的な愛好や要求が主要なものとなり、このことによって製作の方向性の主要な要素が決定されることです。多くの優れた5音階の伝統作品が存在する状況において、大衆が7音階を好む時、さらに同時に5音階も好まれている現代、私たちが解決しなければならない矛盾の主要な方向は、作曲家たちが容易に5音階を軽視する普遍的で自然な傾向を支持することではなく、5音階の重要な作用を提示し、作曲家たちの相応しい注意を得ることです。そのため、私たちはとにかく5音階を軽視する傾向を的確に正していく必要があります。
異なった地域、異なった民族の生活と言語を繋ぎ合わせることと同じく、7音階、その中の7声の運用方法は、おそらく千差万別で容易に完全には一致しないものです。例えば、西洋作曲法で規定された旋律の進行、比較的多いのは4度から3度への解決、7度(導音)から8度への解決で、3度から4度への進行も常に使われます(弦堂注:本講座ではクラシックの古典的和声だったので、IV→II,Vの進行になっていました。IV→IIIやその逆はポップスのSus4を指していると思われます。一方、7度が8度に進行するのは古典的和声においては絶対です)。
中国の大多数の旋律においては、その4度と7度はそのようには進行しません。
4度と7度から下方への正進行が比較的普通である以外、3度から4度と7度から8度の上行正進行はあまり見られず(無いという意味ではない)、3度或いは7度からの上行正進行が比較的多いパターンは、相互に反進行する1つの正進行と1つの跳躍進行の代替とする場合です。例としては、
4度、7度をこのように運用した7音階曲調に対して一部の西洋学者は、西洋の慣用的な用法とは違い、これは装飾的な4,7音を含んだ5音階とみなすことができると考えますが、それは彼らが相変わらず中国音楽は5音階だと認識しているからです。私たちの観点はこのようなものではありません。まず私たちは民衆と同じ考え方の傾向を持たねばなりません。民衆の見方は一般的に素朴、比較的明確、このゆえに幾らかは論理的です。彼らは7つの音で構成されていれば7音階、5つの音であれば5音階と律儀にみなし、7音階に慣習的に見られる何らかの進行があればそれが7音階という風には考えません。私たちは民衆と同じ見方を採用することで、民衆と共通言語を持つことができ、その共通言語こそが論理的な言語なのです。次に、もし上記のこのような進行の曲調の中で、前後に下降進行する第4,7音を経過音と看做すのであれば、同じような曲調の中で、4,7音が主要な使われ方をしている箇所は見当たらないことになります。第4,7音を重視した例で、山西梆子《断橋》に2つの箇所を認めることができます。1つ目の例では4度の、2つ目では7度が重用され、それにいずれも楽句を結合する地位が与えられています。ゆえに私たちは5音階を中国音楽の特徴と見なすのは無理があると感じます(弦堂注:断橋は白蛇伝の一部で、中国全土の多くの戯劇の演目に含められている傑作です。京劇その他にも同じ演目があります。セリフはどの地域もほとんど同じですが、異なる版本もあります。ここで挙げられている2つの譜例は一般には見聞きすることのないもので、この箇所では一般には「妻本是峨嵋一蛇仙」が入れられこれは断橋の中でも有名な段です。しかしそれらは4度が重視されておらず、楊は使える譜例としてマイナーなものを引っ張り出してきたものと思われます。或いはそこは楊のことであるから、マイナーな版本の方が本来であるなどと言いかねないので、そういう曖昧な感じで捉えておけば間違いはないと思います。かなり古い版本においてはこういう譜例もあるということでここで提示されたのかもしれません。何れにしてもこのような譜例の存在が、中国音楽はすべからく5音階であるという見解を否定するものになっています。譜例は間違いを赤のXで消してあります。最初の譜例の4度で旋律を結合している箇所は青、2番目の譜例の7度は黄で丸を付けています。装飾的に使われているとは言い難い用法を確認して下さい)。

もし7音階を重視する偏向性があれば、5音階に注意を向けた時にそれは不要なものだという結論になり得ます。当然、私たちは17世紀から現代に至るまで発展して高度に高められた西洋七声音階作曲法がこれまで重ねてきた意義や先進性の価値を認めています。・・・(弦堂注:西洋作曲法が如何に優れたもので完全なものかという内容が長々と続きますので割愛します)。それは永久に私たちの学習対象となるでしょう。但しより重要なのは、それが伝統の基礎をさらに一歩進めることを可能にするということです。理論は現実に求められているものとたゆみない努力を結びつけるものである筈です。新しい問題を解決する時と矛盾が発生した時に前進するための力を与えるものです。人民が立ち上がった今日、様々な国々や地域、民族間で過ぎ去った或いは現代の、労働者が手ずから創造した音楽作品は多様で百花繚乱、一日一日、私たちにより多くの異なった輝きが発せられています。作曲家たちがもし懐を開き、伝統的作曲技法が各自の教育背景の中で育んだ限界を飛び出し、自分の努力を今日接触できる幅広い物事に投入することにより豊富な音楽体験を重ねていく中で、これまでとは異なった新しい方法で処理するようになり、さらに豊かな経験に至るまで世界の作曲理論は彼らの新たな経験によって滋養分を得、新たな向上へ向かっているのかもしれません。5音階、様々な調式、西洋の伝統的旋律で進行する7音階、その他の様々を処理することは、作曲理論に新たな滋養分を与え、より多くの幅広い成果を達成することに適しています。この考え方を取り入れる私たちは5音階を捨て去ることはできません。
今日でも中国の作曲家の中で、5音階は不要とする意見を聞くことがありますが、それは個人の決定です。(弦堂注:これ以降は重要な記述はないので割愛します。内容は、優良な伝統を擁護する党の方針故に新しい7音階を取り入れつつ5音階を重視せねばならないことや、中国の過去の作曲家が2つの音階のどちらも重視していたということについて説明して、最後に全体の要約で終わっています。)