音楽理論は難しい学科で、音大でも最も不人気な科目だと言われます。理性と感性の境目がない思考法が求められるからです。それゆえに、音楽を抜きにしても人間として重要な教養です。世の中でよく言われるのは、年寄りは頭が硬いというのがあります。しかし生物学的には逆で、中年女性が口うるさいのは脳が明晰になるからだそうです。周囲が何で無能なのかわからない、何でこれぐらいのことがわからないのかと、うるさくなるらしいのです。男性はまだ落ち着いていると言われます。人は老化して衰えますが、脳にはそれがない、しかし努力しなければ衰えていきます。年配者で痴呆症になる人がいます。ですが刑務所に入ると回復はしないとは言え、進行が止まるそうです。人間関係があるからではないかとされています。他人というのは自分の思い通りにはなりません。刑務所の規則も自分の好むものではないかもしれません。ですが塀の外にいれば、家に籠っていれば自分の自由です。社会や人間関係というのは理性と感性が求められます。偏っていてはうまくいきません。年配者は長く生きており、長期間生き方や考え方に問題があればそれが蓄積するのでしょう。年齢を理由にできないとすれば、痴呆というのは恥ずかしいものです。音楽理論を学ぶような人が痴呆になることはほぼないので、本稿を通読しておられる皆様には心配ありません。
脳には右脳と左脳がありますが、20代までは生物学的に繋がっていないとされています。30代に達してようやく脳が一体化する、しかしこの時に過去の蓄積がなければ、繋がるための素材がありません。そのため、20代までは知識を多く吸収せねばなりません。早くから音楽理論をやるのはどうなのでしょうか。むしろ子供の時から訓練するのが有益です。そして30代になった時に、理論と感性の境目がなくなります。より強固になります。
古代ギリシャでは重要な学問は数学とされていました。西暦前6世紀にピタゴラスが「万物は数なり」という言葉を残し、数学を4科に分けました。音楽、算術、幾何学、天文学です。プラトンも「国家」第七巻で、理想の国家で行われる教育として同じ4科を提示しています。ユークリッド「原論」 第一巻の注釈でも同様です。この枠組みはピタゴラスから1000年以上経っても変わらず、5世紀末に「最後のローマ人」と言われたボエティウスが再定義しました。数学的四科 - Quadriviumとし、このように説明しています。本質とは2つから成り、それは多数性(隔てられた量)と大きさ(連続する量)である。それ自身で存在する数は算術で示され、対比される数は音楽の調和と諸関係性が説明し、動かない大きさは幾何学、動く大きさは天文学。幾何学は測量の必要からエジプトで生まれたものです。図形や空間の性質を研究するものです。天文学は物理、科学です。それらと並んで、柔軟な思考のバランスを身に付けるために音楽は重要であるという常識がありました。
過去の巨匠たちで、現代で社会問題になっているような自閉症、対人障害などの問題で小学に行けていない人が割といます。彼らの場合、音楽理論は家庭教師か親から学んでいます。それ以外に対位法ぐらい、後はピアノ、それも結局きちんと弾けずに大きくなったり、後は国語数学、それぐらいしか教育は受けていません。彼らの教育の履歴はほとんどないのですが必ず書かれるのは「音楽理論は誰々から学んだ」これだけは必ず記載があります。ラッパは吹けるだけだったマイルス・デイビスがニューヨークに来て、セロニアス・モンクに音楽理論を学びました。他もいろいろ学んだとは思うのですが、それは重要ではないので言わないという、それぐらいなのです。一方、対位法に関しては現代の先生方にも必須ではないという方が少なくありません。音楽理論がわからないのは音楽家とは言えない、それぐらい重要な基礎です。
音楽は感性からでなければ導き出せない結論もあります。もちろん感性だけでも創作はできるのでしょうけれども、その一方で理論からでなければ導き得ない結論もあります。理論だけでも創作はできるでしょう。理論と感性とは随分違うものです。人間には得手不得手があります。右脳と左脳は役割が違うので、どちらもかなり強いというのは難しいとされます。どちらか片方に寄った方が簡単だからです。だけど片方のみしか発達していなければそれはバランスの取れた人間とは言えません。周囲に、感情でしか行動できない、或いは頭の硬い、理論でしか物事を把握できない人が図らずも身近にという経験をされたことのある方は少なくないと思いますが、そこまで極端でなくても人間というのは何がしらバランスが欠けているものです。非常に平衡が取れているというのは、一見水のように普通に見えますが、それは大変なことです。それを学問的観点で要求するというのが音楽理論なのです。本欄は中国音楽の学習のために設置されています。その過程で頻繁に理論と感性が同時に一定水準要求されるということがあります。どうしてもこれを最初にやらねばならないと考えています。
本稿は中国拉弦楽器のためのものですから、音楽理論を扱うにしても中国の理論だけ扱えばそれで良いとも思えます。しかし、元々中国にはこの種の理論は存在せず、解明されていない、メソッドもない状態で近代に至り、民国期に林謙三という日本人が西洋との比較で中国音楽理論を説明しました。中国音楽理論、中国の和声学はことごとく西洋和声理論との比較になります。東洋の和声学は学ぶ必要があるとは思えません。西洋理論は7声ですが、そこを東洋の5声に適用するのは無理があり、これは実践というよりは説明に過ぎないものと思います。実践まで至ると、中国の民族交響楽のようなものになり、こういうものを聴いて違和感を抱かれた方もおられるでしょう。ですから和声学は西洋の方だけ扱うことにします。一方、東洋はその後に5音階の楽典に触れます。
和声学の場合、大抵早い段階で、禁則というものが提示されます。音符の並べ方でやってはいけない禁じ手なのですが、実際のところ、作曲においてやってはいけないことはありません。自分の作品なので全て自己責任です。和声学において禁止されている事柄で実際の作曲で使われているものはあるし、もちろん問題はありません。しかし何でも許せば学習にならないので古典的な響きを求める拘束条件をあらかじめ決めています。実際の作曲では意図があれば濁った音でも使いますが、和声学ではとにかく美しい響きを追求します。かなりがんじがらめですが、学習においては自由があり過ぎるより明確なものが多い方がわかりやすいものです。美しいハーモニーにおいて許されないとされている禁則がどうして存在するのかをよくわかった上で、次に向かいます。全ては仮定として柔らかく受け止める必要があります。しかしそれでも美しい響きは常に必要なので禁則の多い条件は実際の作品でも多用されます。
西洋の和声は属七の和音まで扱います。和声学に取り組む感覚としては、数学、と思ってしまった方が良いかもしれません。音楽だから感性かな?と思われるかもしれませんが、理論なのだという先入観のようなものを持ってからの方がわかりやすいでしょう。そこからどのように感性に繋がるのか、禁則が多いと自由がないので選択肢も限定的なのですが、わかってしまうと一歩出るのも可能となり、その時に響きが美しいという意味で正解が複数あったら、そこで何を選ぶかはもうそれは個人の感性でしょうね。