中国のポピュラー音楽、ここで指しているのは毛沢東時代の革命歌以降の近代歌曲から現代のポピュラー音楽のことですが、中国独特の雰囲気を帯びたこれらはどのように発祥したのでしょうか。
一部は伝統曲を共産党歌に被せたことが知られています。このようなものは伝統的なテイストを残しています。伝統を党歌にしてしまう反省もありながら、しかし伝統の舞台芸術は不道徳な内容が多く、元に戻すこともできずそのままになっている経緯があります。
ですが実際のところ、伝統音楽系は僅かで、それとは全く異なる肌あいの作品が大多数です。外国の影響を受けながら発展してきたこれらの作品のルーツを明確にすることは困難ですが、大きな流れであれば辿ることができる筈です。それはおそらくキリスト教音楽です。
中国のキリスト教音楽というと、清朝の庇護にあった北京の4つの教会で発展してきたものが有名です。しかしこの音楽が中国ポピュラー音楽に影響を与えたとは思えません。欧州の宣教者が発展させた音楽、欧州の古楽と中国伝統音楽が混じったものです。例として現代に復刻されたマニフィカト(歌詞はルカ福音書1:46~55)があります。使われている弦楽器は二胡ですか? 二胡が入っているように聞こえるので視聴できるように致しました。宮廷音楽に近い印象もあります。(入力が求められたらどちらも「cyada.org」です)。
北京のキリスト教音楽とは異なるものが、江南地方の無錫にあり、有志が集まった昆曲の団体が教会音楽を制作し演奏していました。それを楊蔭瀏(阿炳の「二泉映月」を録音したことで有名)が採譜したものが残っています。「天韵社曲譜」です。天韵社は記録によると、明末天啓,祟禎年間(1621-1644)には既に存在し、民国期の1920年に「天韵社」と命名されたとされています。社は50年代に閉鎖されましたが、作品の方は現代まで演奏されており、400年ほどの歴史があります。残された譜は歌詞と主旋律のみですので現在、動画サイトで見つかるものは現代風の伴奏が追加されています。伴奏を省けばどういう音楽が残されていたのかがわかります。検索してトップに出たのがこれでした。他にも結構たくさんあります。これは現代の中国ポピュラー音楽と大差ありません。元の昆曲はこちらです。全く違います。
おそらく南方では、北京のように宮廷の保護下で外国の宣教師の伝道を受けるということはできず、上海から流入してきた外国の音楽を参考に民間で作り上げられてこのようになっていったものと思われます。そのため中国風の癖も残りつつ、表面的には西洋化されたこのようなものが出来上がった、これが土台となって現在の中国ポピュラー音楽独特の様式が出来上がったものと想定されます。
欧州からの宗教音楽と上海租界に入ったポピュラー音楽では影響が異なりますので、それが成り立ちに大きな違いを生む要因になったと考えられます。中国ポピュラー音楽に対して親和性が高いのは、やはり外国の方でもポピュラー音楽なので、そちらが残ったということだと思います。
中国歌謡音楽にあまり影響を与えることのなかった北京の宗教音楽ですが、重要性はこちらの方が高く、海外でも研究されています。中国に影響を与えた西洋の音楽の方も宗教音楽でした。これらはキリスト教を理解していなければ成立過程がわかりません。そこで理解の為に、最低限必要な事、ネット上ではよくわからないようなことを以下にご説明します。
聖書の創世記によると、神が天地を創りました(創1:1)。地には人を住まわせました(創1:27)。最初の人間アダムとエバは永遠に生きることになっていました(創3:22)。ですが神に反逆し、やがて死にゆく存在になった時、神は史上最初の予言を行い、人類を救う手立てを示されました(創3:15)。このテーマが西洋宗教音楽では非常に大きな部分になります。救世主・メシア・キリスト、いずれも同じ意味ですが、この題材こそが最も重要なものです。ほぼこれだけで、ほとんどの西洋宗教音楽がわかります。
最初の人間の子孫は増えてゆき、彼らも神に反逆するようになりました(創6:5)。反逆した人類は戦争するようになり(創10:8,9)、当時の文明世界を征服したニムロデは、バベルの塔を建設しました(創11:4)。高い塔を建てて天に向かい神に復讐するためでした。地に増え広がるようにという神の命令に背き、塔に全ての人を居住させました。そこで神は言語を分けて人々を混乱させ、70の民族が世界に散りました(創11:9)。ニムロデは暗殺されたので、神の代わりに推戴するものを失った人々は、奇跡的に授かったとされるニムロデの息子タンムズを神格化しました。これが宗教の始まりです。タンムズの頭文字Tをシンボルとし、十字架を持った神々が古代世界のレリーフに刻まれるようになりました。そしてニムロデ、その妻、タンムズの三者が同一格の神、三位一体とされ、姿形を様々に変えたそれらは古代宗教の特徴となりました。
宗教が全地を惑わす中で、神に従っていた人々もいました(この表現はわかりにくい。占いで霊と交信するのは宗教ではないと言えば少しわかりやすいでしょう)。神はアブラハムに指定された地域に移住するように求めました(創12:1)。与えられる土地の範囲も示され(創15:18)、この約束は息子イサクに引き継がれ(創26:3)、またその子ヤコブが継承しました(創28:13)。ヤコブは先を急ぐ天使から祝福を得ようと格闘して引き止めたので「神と戦う者」を意味するイスラエルという名を与えられました(創32:28)。その12人の息子のうち11人からイスラエル12部族が出、もう1人のレビは祭司の部族として分けられ12部族には数えられない聖別された部族となりました(ヨシュア記13:33)。救世主はユダ族から現れることになっていました(創49:10の「シロ」とは救世主のこと)。王族はダビデ(サムエル記第二2:4)、ソロモンと続き(列王記第一2:12)、以降ユダ族の血統が保たれ、王統の末裔ヨセフの子がイエスであることが福音書に示されています(マタイ1章)。母マリアは父がユダ族(ルカ3章の系図)、母はレビ族の最初の大祭司アロンの末裔でした(ルカ1:5,36)。宗教音楽の中で「レビの末裔」「ダビデの子」という言葉があった場合、それはイエスを指しています。「レビの末裔」はより高位の大祭司として人類と神を仲介することを示唆しており、「ダビデの子」は正当な王位継承者であることを示す場合に使われる表現です。
イスラエルは「祭司の王国」(出エジプト記19:6)となることが示されていました。神権王国とも言え、世界のあらゆる帝国、王国、政府を代表して崇拝を司る上位の権威として神に指定されていました。ダビデはエルサレム市内の小高い土地、シオンの山を征服して王宮を建て(サムエル記第二5:7)、その子ソロモンがシオンの北に隣接するモリヤ山に神殿を建立しました(歴代誌第二3:1)。後にモリヤもシオンの一部と見做されるようになりました。宗教音楽で「シオンの娘らよ」などの表現が多用されますが、これは神の指定した王権と祭司権に従う人々、比喩的に神に従う人々を示しています。神殿では、人々の罪を贖うため犠牲が日々捧げられていました。しかし救世主が一度亡くなられたことで人類の罪が救済されたので、モーセの律法と神殿は廃されました(ガラテア3:24,25)。神殿に代わったより偉大なイエス、より価値の高い神殿という意味でシオンは究極的にはイエスを指します。そのため、シオンという単語は宗教音楽において頻出します。人類の希望というニュアンスがあります。
救世主は何をするのか、いつどこに現れるのかという数多くの条件が、過去の預言者たちによって示され聖書に記されていたので(数百あると言われますが究極には全巻が救世主を示している)、1世紀当時の人々は預言書の記述に基づき、メシアが間もなく現れると期待(ルカ3:15)、迫害者ですら把握していました(マタイ2:4,16)。そしてメシアは現れ亡くなりました。大きな出来事だったので、もっと詳細を知りたいと望んだユダヤ人や異国の人たち(ルカ1:3)のために福音書が書かれました。
最初の人間アダム以降、人類は罪にあり、神に反逆してきました(ローマ5:12)。しかしそうでない人々もいました。その人々はシオンを中心とする神への崇拝の中で自分の罪を贖うために動物の犠牲を捧げました(レビ記全体)。犠牲はどうして必要だったのでしょうか。神は全く公平でなければならないからです。そういう意味でアダムが犯した罪の代償が求められていました。ですが、アダムより後代の人々がなぜ先祖から受け継いだ罪のために犠牲を払うのでしょうか。犠牲の動物は祭司のもとに持ち込まれ、祭司によって解体処理されます。そしてその肉を祭司たちと持ち込んだ人、時に周囲の貧しい人々にも振る舞われました。裕福な人は牛や羊、貧しければ雀でも構いませんでした。モーセの律法で雀は2羽と規定されていたので、おそらくこれも食肉だった、祭司か神殿で働く人と捧げた人がそれぞれ食したと思われます。
食べることのできない血と脂の部位は焼かれてそれが神への犠牲となりました(レビ記4:31,17:11)。神は人間から何かをしてもらう必要はありません。神なのだから。しかし人間の寛大さは高く評価されました。人類が罪にあるので贖う必要がある、そのことを思い起こさせるための制度でした。それでも人は死んでゆく、この問題を解決するため罪が贖われる必要がありました。
そして神は、人類の問題の解決を人間に課しませんでした。神は地に最初の人間を置いたように、天にも最初の天使を創造されました。神はこの天使と共にすべてを最初の人間も含めて創造したと聖書にあります(ヨハネ1:2,3)。それで最初の人間アダムが犯した罪は最初の天使によって贖う(ローマ5:12)、この天使が人間となり代価として死ぬことで人類の罪を消し去る救世主として地に来ることになっていました(マタイ20:28,ローマ5:17)。そして神が最初に予定された人類のあり方に戻す(黙示録21:3,4)、聖書はこのことを伝えるために書かれています。それだけのため、要約するとこれのみです。キリスト教とはこういう宗教です。これを把握していればほとんどの西洋宗教音楽は理解できる筈です。
福音書に続いて使徒らの布教の歴史、彼らが書き送った手紙が聖書に所収されていますが、すでに1世紀の段階で背教の萌芽が見られるとあります(テモテ第一4:1,2,ヨハネ第三9)。使徒たちを継いだ人々を「使徒後教父」さらに後代の指導者は「教会教父」と言いますが、1世紀より現れた彼らは人々を徐々に背教に導きました。4世紀にはバビロンが衰退したので当地の神官団が身売りを検討し、いくつかの候補の中から最も高い値を付けたローマ教会に売却しました。当時はまだバビロン市内にバベルの塔が残っていたことが当時の旅行記で明らかになっています。十字架の神学的意味、三位一体、白い僧服、ミサ、司祭などの位階、これらの概念は1世紀より徐々に浸透していましたが、それを権威づけたのはバビロン神官団買収以降でローマ・バチカンが世界宗教の総本山となってからでした。
キリスト教会はあまりにも腐敗していたのでローマ皇帝コンスタンティヌスが真の崇拝を希求するため、ヴィザンチンに遷都し、ここをコンスタンティノープルと改めましたが、これも最初から腐敗していました。東方正教会です。反感を抱く人々の群れは拡大し、マホメットがイスラム教を創始したのは6世紀でした。コーランは長らくアラビア語から翻訳禁止となっていましたが、それはユダヤ教とキリスト教を批判する文面で埋められているからでしょう。同じ表現が何度も繰り返されています。世界宗教の総本山の地位を失ったオリエントの人々のトラウマを受け止めたものだったのではないかと推察されますが、はっきりわかっていません。預言者はメシアを指し示していたのでイスラムはこれを否定、なぜならキリスト教が嫌なのだから。ユダヤの歴史と預言者を否定、モーセ五書(創世記も含む)のみを受け容れていますが、しかしモーセ五書の方が重要な預言が多い上、神はアラブ人の始祖でアブラハムの息子イシュマエル(イスラム)ではなく(創16:15)、もう1人の息子イサクを祝福し(創17:21)、その子イスラエルが神の選民になったことが示されている(創35:11,12)など、イスラムにとって都合の悪い記述が含められています。しかもモーセはユダヤの土台を据えた人物です。その人物が書いたものは聖典であるとするのは、道理がないのです。同じくユダヤ教も自分たちの預言者を事実上否定しメシアを拒否していますが正当な理由がない、これも道理に欠けています。道理ではなく雰囲気なのではないかと。考えない、ポジショントーク、これは宗教の大きな一面です。こういう道理のないものに世界の何十億人が従っているのです。これも宗教音楽を理解する上で重要なことで、作曲した人たちはこの無知と戦っていたからです。
中世になるとキリスト教会内部から宗教改革が起こり、その最も大きな批判は「聖書が読めない」ということでした。読ませると諸教会の偽善が明白となるので、ラテン語より翻訳してはならない、人々に理解できない言語で封印されていました。しかしグーテンベルグの活版印刷の発明で流れが変わり、ルターやティンダルらが命がけで現代語に翻訳出版しました。この人たちは教会と敵対、破門されていましたが聖書は翻訳しました。神のご意思を伝えねばならないという使命からでした。やがてプロテスタント諸教会もカトリックと変わらないことが明らかになっていきましたが、しかし聖書を読んで地下活動する人々は増えていきました。別項の「トーマス・カントル就任300周年記念マタイ受難曲弦楽四部版」にもありますが、多くの有力な作曲家たちがライプツィヒでのラテン語講義を拒否したとされています。加えて教理問答も拒否しています。この頃ですでにルター・ドイツ語訳が出て200年近く経過しているのにラテン語、偽善に満ちた教理を教えることはできないということでした。はっきり言うと殺されるので、無理という理由で断るのですが、有力者が軒並み相次いで拒否しています。無理なわけがありません、ラテン語と教理がわからないと宗教音楽は作れないからです。バッハは受け容れましたが、まもなく上演しているマタイ受難曲にはルター訳を使っており、その他教会の伝統に反することも行っています。地下組織の規模は結構大きかったと言われていますが、その中で音楽家は多かったようです。これは宗教音楽に接する時に重要な点で、多くの作曲家が慣例を破る作品を作り、ブラームスは母へのレクイエムで典礼文を拒否、自分で選んだ聖句を抜き出して使いました。無神論かも?と言いながら聖書の引用ですから行動がよくわからない。レクイエムにも関わらず教会で演奏せず、ウィーン楽友協会で上演しています。どうしてこういうことをするのかという背景に腐敗の歴史がありますので、よく知ると昔の楽聖たちの”奇行”が理解できます。変わった人なのではなく、嘘が嫌なのです。
中世の宗教改革、教理面の議論が徐々に始まってきた頃がルネサンス期、定着してきたのがバロック期、現在残されている作品の多くは主にバロック以降、そのためキリスト教音楽とされながら、何かが違うような、そういうものが結構あるのは、このような背景があるということです。そのため、そういう意味ではルネサンス以前の作品の方がすっきりしておおらかです。深刻さがない、落ち着きがある印象、明るく、真理の追究といったような使命感のようなものはあまり感じられません。それでも、この頃から、典礼を離れた作品が出現し始めました。そこからバロック以降になると熱を帯びてきて内容が重たくなり、それ故かもしれませんが、傑作も多く作られています。各作曲家の最高傑作が宗教作品という例も多くあります。モーツァルトとフォーレはレクイエム、ベートーヴェンは荘厳ミサ曲、ドヴォルザークはスターバト・マーテル、これらが代表的です。モーツァルトに関してはK.339のヴェスプレが最高傑作だと言う人もいますが、これも宗教作品です。
昔の人がほとんど教育されていないのに、これら宗教作品の意味が理解できたのは、祈祷書などを教会で使っていたからです。今でも使っているかというのはわかりません。典礼文自体もそれほど複雑なものではありません。キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイと決まった形式と内容です。教会に通っていない我々には難しいものですが、本稿の予備知識が有れば大体大丈夫でしょう。これぐらい骨格がわかれば、後はネットの検索などでわかるでしょう。