日本は民謡の宝庫です。
しかし胡弓が使われる民謡は少なく、多くは忘れられております。現代まで残されているものの中に、富山の「越中おわら節」があります。
越中・八尾(やつお)に伝わるこの民謡は、毎年9月1~3日に「おわら風の盆」にて演奏されています。「風の盆」は近代に始まったもので、名称もキャッチコピー、台風やお盆とは関係がありません(発祥は3月)。唄や踊りも明治から昭和初期に考案されたものです。音楽のみ古くから伝わったものでした。この音楽を如何に伝承していくかを考え、徐々に現代のような形に整備されていきました。
このような変化の背景には、明治後期以降の民俗学の高まりと交通の発達がありました。柳田國男が民俗学の発祥とされる「後狩詞記」(のちのかりことばのき)を刊行したのは、明治42年(1909)3月15日でした。鉄道国有法が制定されたのは明治39年(1906)、交通の発達によって観光誘致が可能になり、地元の良いものを愛される形で継承するという概念が生まれました。
「越中おわら節」と同じ旋律は、青森「津軽あいや」、鹿児島「はんや節」まで全国に流布、「佐渡おけさ」など似たものが多数あるとされています。はっきりしていることは、この節が広く伝播し、どこでもその土地の民衆に受け容れられたということです。
江戸幕府の外交政策では、朝鮮は琉球王国と並んで正式な国交のある「通信国」とされていました。朝鮮からは日本国王使に対する返礼として「朝鮮通信使」と呼ばれる外交使節団が派遣されました。「通信使」は事実上、朝貢国からの使節でした。中国諸王朝、欧州の国々は「貿商国」と定義、通商のみ行い、正式な外交関係はありませんでしたので、琉球、朝鮮からの通信使は江戸幕府の威信を示す重要な機会でした。室町時代より続いていたものでしたが、江戸時代に編成が大規模に完成し、文化的にも大きな影響を与えました。
通信使の編成は正使、副使、書状官に、医師、通訳、軍官、旗手、銃手、料理人、馬術師、贈物係、旅行用品係、画家、水夫などが記録され470人から500人程の規模でした。これに対馬藩の随行や警護1500人程が加わっていました。対馬から船で大坂まで45日、大坂で休憩後、幕府の用意した船に乗り換えて淀川を遡航6日、伏見からは陸路で江戸まで18日、全行程は8~10ヶ月でした。
この編成の中に楽隊も含まれており、チャルメラ、銅鑼などの楽器で演奏しながら進んだと言われています。その旋律は現代のラーメン屋台が鳴らす音楽に残っています。

朝鮮通信使の楽隊はラッパだけの編成ではなかったと思われ、少なくとも打楽器は含まれていますが、当時の人々の受け止め方次第で各種の民謡に溶け込み、またラーメンが大陸由来のものであることを示すチャルメラにもなったのではないかと想定されます。下の譜はおわら節です。

朝鮮通信使が通行したのは対馬から江戸まででしたが、鎖国下の日本での外国文化は珍しかったため、列島の北から南まであまねく影響を与えることとなり、唐人服を着た行列などが各地の祭りに残されています。そしてこの朝鮮の旋律も民謡として全国に定着したと考えられます。おわらの由来が朝鮮通信使であるという明確な根拠はありません。特定の人々の意思で伝播したものではなく、すべては自然に伝わったもので記録も残されていないからです。しかし仮説を設定して成立させるだけの材料はあるように見えます。また日本の古い音楽の多くは大陸由来です。
諸説ありますが、わかっているのは唄のみが伝承で伝えられてきたということです。
『越中婦負郡志』[富山縣婦負郡役所編 1909]によると、おわら節の起源は、元禄15年3月(1702)、町の開祖である米屋少兵衛の子孫が所有していた加賀藩による勅許状「町建御墨付」(町の創建に関わる重要文書)が失われ、それを八尾の町衆が取り戻した祝いとして、三日三晩無礼講の賑わいで街を歌と踊りで練り歩いたのが始まりとされています。この伝承が事実であったとしても、祭りが行われたのは一度だけだったようです。伝承されている唄と祭りとの関連性もわからず、器楽伴奏はありませんでした。また踊りは伝承されていません。
おわら節に胡弓が使われるようになったのは明治の終わり頃と言われています。
松本勘玄という輪島出身の漆職人が、大阪で浄瑠璃、長唄、小唄、三味線などを習得し、旅芸人の一座に加わって全国を回っていたところ八尾で結婚、当地で越後瞽女(ごぜ:盲目の女性)の佐藤千代が奏でていた胡弓を見て、おわらに加えたとされています。おそらくこの時に三味線も加えたものと思われます。
舞踊は明治44年(1911)、松永由太郎が八尾町内・鏡町の芸者たちに振り付けて踊らせたのが最初だとされています。
大正2年(1913)、北陸線直江津開通記念富山県主催による祝賀会では、江尻せき(生没年不詳)によって1911年版を改良した「豊年踊り」が披露されました。
八尾生まれ、八尾で医院を開業した川崎順次(1898~1971:後に富山県医師会会長、富山県教育委員会委員長)は、芸術文化を語り合う「甚六会」を主宰、
大正8年(1919)より、おわらの研究を始め、
大正13年(1924)に「民謡おわら研究会」を結成しました。
昭和3年(1928)には、それまでの卑猥な表現が含まれていたおわらの歌詞を変えるため、日光出身の画家・小杉放庵に依頼し「八尾四季」を制作しました。
昭和4年(1929)東京日本橋・三越の富山物産展での披露をうけて「越中八尾民謡おわら保存会」とし、歌詞も「新作おわら」を制作、舞踊家・若柳吉三郎(1891-1940)に振付を依頼して作られたのが「新踊り」で、「男踊り」と「女踊り」の2種があります。これらに「豊年踊り」を加えた3つが主に伝承されるようになりました。
川崎は芸者の踊りとされていたおわらを自分の娘たちに踊らせることによって、町の娘たちも参加出来るようにしました。川崎は昭和46年11月11日に73歳で死去しました。
現在の越中おわらは、松本勘玄と川崎順次によって作られたものと言えます。
八尾にあります保存会は、町会別で11の支部に別れています。
福島 天満町 下新町 今町 西町 東町
鏡町 上新町 諏訪町 西新町 東新町
井田川より北部一帯の福島以外はかなり狭い範囲で支部毎に組織、11の楽舞隊があります。町民以外は入隊できず、女性の舞踊は原則25歳以下です。
富山県出身のバイオリニスト・高階哲夫が昭和4年に初めておわら節を採譜したと言われ、現在八尾おわら資料館にオリジナルが展示されています。整理した譜のPDF
バイオリニストが採譜したものであるため、胡弓の奏法が適切に記譜されておらず、このままでは正確に演奏することができません。しかしこの譜の存在によって音楽が現代までほぼ変化なく伝承されていることがわかります。また同時代の古いSPも残されており、往年の名手たちの演奏を今も聴くことができます。

黎明期の松本勘玄の時代は、まだ録音がかなり特別なものだったため音声記録は残されていません。NHKラジオ放送の開始が大正14年(1925)、トーキー映画に録音が合わせられるようになったのも1920年代後半でした。
1930年頃になるとSP録音が活発になり、松本勘玄と同様に浄瑠璃出身の江尻豊治が唄うおわらがスタンダードになり、現代まで引き継がれています。
録音への入域は、どちらも「cyada.org」です。楽譜PDF
| 歌:江尻豊治 三味線:向健市郎、堀江節子 胡弓:金井彌一 太鼓:中村治一 |
おわら節 1935年頃 | 3.0M |

日本胡弓の演奏技法は中国由来と思われますので、中国音楽が理解できれば難しいものではありません。
日本胡弓は弦が3本あります。4度で調弦されており、外弦の空弦が1、その弦上に旋律が乗っています。他2弦は「おわら」においてはほぼ空弦だけの使用です。低い2弦を二胡の両弦に割り当てます。4度調弦独特の内向的な響きになります。
比較的特殊と思われるのは「打音」日本では「打ち手」と呼び、伸ばす音の途中で高い音を打つ、中国音楽ではほとんど2度音程ですが、蒙古では3度、おわらは3度や4度があります。中国と同様、二度打つ箇所もあります。
以下は小節を指定しての解説です。
1: 括弧は三味線のみで鳴らすところ。独奏で追加する場合、日本胡弓で弓が第二弦にも当たってしまうところを二胡でも再現した方が良い。
3: 打ち手から次の4小節目で4度下降している。この技法を「ツトン」と言う。
38: 高音への跳躍がある。滑音「スリ」で入り、行き過ぎて戻している。「ユリ」と言う。この音は弦を強く押さえておらず掠れている。尺八の「ムライキ」のような音で、弦では京劇でも同様の技法がある。弦を触れるように押さえて明瞭に鳴らさない。
39: 2から1に移って2を2回打ち、1が基調音になって2を打ち、また2が基調となって1に移って2を打つ。
44: スリで1に向かうが達しているように聞こえない。意図的に不明瞭。躊躇いを表現している。
47: 短音で切った後、弦に圧を掛けて響きを押さえ込む。止める。