王文学 蘭亭序 - 二胡弦堂

王文学 蘭亭序

 ¥52,000

 蘭亭序

【作者】王義之 【朝代】東晋

永和九年歳在癸丑暮春之初會于會稽山陰之蘭亭修禊事也。羣賢畢至少長咸集。此地有崇山峻嶺茂林修竹又有淸流激湍映帶左右引以爲流觴曲水列坐其次。雖無絲竹管絃之盛一觴一詠亦足以暢敍幽情。是日也天朗氣淸惠風和暢。仰觀宇宙之大俯察品類之盛所以遊目騁懷足以極視聽之娯信可樂也
夫人之相與俯仰一世或取諸懷抱悟言一室之内或因寄所託放浪形骸之外。雖趣舍萬殊靜躁不同當其欣於所遇暫得於己快然自足不知老之將至
及其所之既倦情随事遷感慨係之矣。向之所欣俛仰之閒已爲陳跡猶不能不以之興懷。況修短随化終期於盡。古人云、死生亦大矣、豈不痛哉。毎覽昔人興感之由、若合一契、未嘗不臨文嗟悼、不能喩之於懷。固知一死生爲虚誕、齊彭殤爲妄作。後之視今、亦猶今之視昔、悲夫。故列敍時人、録其所述、雖世殊事異、所以興懷、其致一也。後之覽者、亦將有感於斯文


永和九年癸丑、暮春に入り、会稽山陰の蘭亭に禊のため会する。賢者がことごとく老いも若きも集まる。この地には崇高な山と峻厳な嶺、深い竹林、また清流や急流、両岸に帯の如き風景が映る。盃を流して吟じ、順に着座する。管弦の響きはなくとも、酒一杯唄一首、以て微かな情感を紡ぐに足る。本日、空は晴れやか空気は清く、おだやかな風に恵まれる。仰ぎ観れば宇宙の大きさ、俯瞰すれば自然の豊かさ。見渡して心に抱く所以、視て聴いて娯楽足りては、楽しみを信じる。
人はみな等しい一生、或いは抱く諸々を一室にて悟り語らい、或いは思う処を託して世俗を離れ放浪する人もある。趣くは万の珠のよう、動静同じからず、巡り合いを喜び、暫し己に得、快く満ち足り、老いが将に至らんとするのを忘れる。
その往く所既に疲れるに及び、情も随時移ろい、嘆きに係る感慨がある。かつての喜びは人生を経て思い出となり、思いが迫るのを止めることはできない。時短く自然に還り最期は死す。古人曰く「死生もまた大きな悲しみ」、痛みを感じないことがあろうか。いつも昔人の興感に接するたびに思いが一致して、未だ文に臨んで悲哀を抱かずにいられず、心を諭すことができない。死と生を一つとするは偽りであることは真実、長寿と短命を等しくするのは妄りである。後世が今を視るは、今から昔を視るのと同じであるのは悲しいことである。故に時の人々を列べ、その述べるを記録、世が代わり事物が異なっても、感慨の所以は一致する。後の鑑賞者もまた共感するであろう。


 王学文さんは現在、中国書法学会会員、中原詩書画研究院理事、長城書画院副院長、北京翰墨書院特聘書法家を務めておられます。

 本作は、ガラス、アクリル板などで保護されていません。美術館などで展示するような感じになっております。