二胡の蛇皮は張り替えるべきでしょうか? - 二胡弦堂

 


悪い二胡の蛇皮の例  張り替えを検討される場合はいろんな状況があるかもしれません。右の写真の二胡のようにそもそも蛇皮を張っていない、トカゲ皮をあてがっているとか(蛇皮の端の本来捨てるところとか)、ここまででなくても蛇皮の質が悪いということで、せめて蛇皮ぐらいは変えたいという場合があり得ます。あまり鳴りがよくないということでも蛇皮を張り替える検討理由になると思います。

 しかしその前に、蛇皮が悪ければ木材も悪いということはあります。参照写真の二胡のように紅木を使っていない二胡は貼り替えない方が良いとショップから言われるかもしれません。蛇皮の質が悪くて材は良いということは少ないと思います。

 公の場で二胡を演奏する場合は、本来二胡を鳴らすのに相応しい環境で鳴らすことができないということがあります。西洋化されたホールなどの環境で演奏が要求されます。戯劇用の楽器としては弦楽器なら京胡や板胡、他には唢呐、笛を使い、二胡は低いパートを扱う程度というのが多いと思います。そういう位置づけの二胡という楽器をメインで使う場合はマイクを通す、録音して販売するなど、このようなことが一般的に行われています。このような用途の場合は、蛇皮を3年ほどで張り替えるのが良いと考える人もいます。しかしプロでも張り替えない人もおられ、何十年も同じという人もいます。このあたりは個人の考えによるだろうと思います。長年同じ二胡を使っているという人たちには、市井の老人愛好家らも含まれます。彼らは若い時に二胡を買い、それ以降ずっと同じ物を使っています。二胡は年月と共に変化していきますから、その二胡を取り巻く周辺部材も変化が必要です。季節毎に駒を変えると言う人もいますが、そこまで頻繁でなくても変化に対応した材や形状の二胡駒の選定というものがあるようです。私は弓毛を白から黒に変えた老人を見たときは驚きました。あまりに美しく鳴るので話を聞くと、彼もよくわからないということでした。私は帰って真似をしましたが駄目でした。それから、古い蛇皮は黒毛という選択も有効だということに気がつくのにしばらく時間がかかりました。それ以降、自分の好みとか一時的な良し悪しで、身の回りに置く物を決めるのは良くないと思うようになりました。今は合わないものも一応置いておき、今後の検討から外さないという方法が考えられます。

 古い蛇皮は換えがききません。一般的には、できれば交換を避ける方が良いような気がします。あまりに古い二胡を入手して破れているとか硬化している場合はどうしても貼替えが必要ですが、その時に気になるのは、制作という観点から見た一貫性の問題です。つまり、二胡は一人の人が作っているものであれ、工場生産のものであっても統一した哲学に基づいており、八方美人的に何かある方法が良いとなったら闇雲に取り入れたりするような行き当たりばったりのものにはなっていません。理想の音があってそれを実現するために細部が決定されています。とても優れている方法論が1つあっても、それがすべての工房で採用されているというわけではありません。美容整形の研究で、女性の顔を理想的な美人に仕上げるために細部の推敲を行い、すべてのパーツを100点満点で構成してもトータルでは80点ぐらいにしかならない、それでもっと選択肢を柔軟にして構成によって全体の点を押し上げる方法を探りますが簡単には上がらない、30点ぐらいのパーツも選択肢にして織り込んだ方が100点に近づくなどと言われたりします。二胡を作る場合も同じことで、あらゆる可能性を排除していない、全く駄目と思える方法はある組み合わせによって輝くかもしれないということでそういった繊細なバランスで成り立っていたりします。そうした長年の研究で完成されたものがブランド化されていたりしています。そこを突然我々が古いものを入手して何もわかっていないのに蛇皮を貼替えるという、だけどそうしないとどうしようもないという、もちろん依頼された職人はいろいろなことがわかっているので作られたものをじっくり観察してどのように扱うかを決めますが、だけどそこには統一された理念や哲学は望み得ません。それで古い二胡を見てどこに貼替えや修理を依頼するのが適切かを見極める鑑識眼と依頼された職人の腕の両方が満たされてその二胡は新たに活かされます。それでも継ぎはぎになることには変わりないし、すでに響きが乗っている材に新しい蛇皮をあてがうという難しいことをやるわけですから、何か予想外のものが産まれたりしないかという恐怖があります。ところがそれでもその弱点が利点になることがあります。すべてのステータスで100点を狙うと良くないというお話をしたばかりですが、古いものに新しいものを継ぐ妙技がこれもまた美しい、理想的だった理念が崩壊する時に見られる残光のような耀きといったものを見たら、もう統一された何かなんてどこがおもしろいのかわからなくなる、もちろん名工によって完成された芸術も当然素晴らしいのですが、点数化できないもの、そういう計器を度外視してしまうような魅力のあるものもまた究極の姿なのではないかと思えることがあります。かなり古い二胡を入手して貼替というのは想像を超えた魅力があるということでそういうものばかりを愛好している人もいます。