歴史的に巨匠と呼ばれている弦楽器奏者は多数います。録音も多く残っており、それらのほとんどはクレモナかその近郊で作られた名器で演奏されています。
これらの名器についてよく言われるのは、コンサートホール用であるというものです。つまり比較的狭い部屋で鳴らすには適していない、そのような環境では美しくは鳴らない、音に雑味が多くて決して良くはないというものです。遠くで聴いた時に美しい響きになるのだと。
そうしますと、演奏者自身にとってはどうなのでしょうか。常に美しくはない音で演奏しているということになります。それで満足なのでしょうか。それで表現できるのでしょうか。
この点に関して意見した巨匠がいたという話は聞いたことがありません。大抵はこの話題は避けられ「私はこの楽器でいいのです」といった消極的とも思える回答以上の何かを話そうとしません。ですが、満足はしている筈です。気に入らない楽器と共に生涯を過ごそうと考える人はいません。つまり、音は良い、と考えている筈です。
二胡に使われる皮には天然と人工があります。その最大の違いは、雑味があるかどうか、であるとされます。人工皮は音が綺麗過ぎて良くないと言われます。しかし現代では様々な状況があり、気候とか環境によってコンディションが左右されやすい天然皮よりも安定したものが望まれるとか、練習用には人工の方が扱いやすい、練習生には雑味はまだ難しいという面があるので、適材適所で使用されています。
雑味、これはノイズとも言いますが、このようなものをどうして必要とする概念があるのでしょうか。森にはノイズがあります。胎内にもノイズがあると言われます。それら人間を快適にするノイズには特徴があるので、シーメンスの補聴器には同種のノイズがあると言われます。一方、完全な無音の空間は非常な不快感があります。
同様に、ノイズのない楽器の音というのは、チープで飽きやすい。ある意味、綺麗な音なのだから不満があるとすれば不思議なことではありますが、内に籠ったようなサウンドになりがちだし、適度で快適な雑味がある方が音に広がりがあります。
雑味は理解するというよりも感覚的なものなので、自分自身が楽器演奏者になって、共に過ごすことで感じられるようになるものだと思います。