拉弦楽器の運弓は力を入れてはならない、脱力せねばなりません。まずこのことを知っておかねばなりません。しかし、これはわかったからと言って容易にできるものではありません。頭ではわかっているが、なかなかできないものというのは不思議と結構ありますが、これもその1つです。
録音で残されている演奏には、スタジオ録音とライブがあります。演奏という観点から見た大きな違いは鮮度です。最初に音を出す瞬間、ライブはそれが録られており、スタジオではおそらく数回やり直し、或いは音の確認、打ち合わせを経て集音しています。ライブでも大抵の場合は前々から合わせてあるでしょう。しかし一旦は帰宅して、改めて集まっています。そうしますと人間の集まりである以上、心理面を中心にコンディションに多少なりとも変化があります。極めて繊細な仕事をする人は私生活まで全て調整せねばなりません。しかし常に思うようにはいきません。それで微妙な変化が演奏に反映されることがもしあるとすれば、再び集まった時にその都度、再構築、再結成が必要です。少し時間がかかります。しばらく進むとエンジンがかかってきます。ライブ録音ならそれがそのまま録られてしまいます。50年代ぐらいまでの欧州の有名楽団の録音でありますが、現代ではほぼないと思います。合奏は他の音をよく聴く必要がありますが、この作業が繊細なものになると出だしは探り合いになってしまいます。そのため音は硬く表現が硬直する傾向があります。運弓が硬い、脱力が足らないということです。加えて楽器も少し保管していたものは最初から伸び伸びとは鳴らず、少し音色が硬かったりします。このタイムラグは楽器によるので間隔は一概に言えませんが、どの楽器にもある程度はあります。楽器も人間もエンジンが掛かってくるまで時間が掛かることがしばしばあるのです。
スムージーな運弓というのはあらかじめ予知された動きが必要です。実際に音が出るよりも腕の返しの方が先行します。そこを音を確認してから出すというのであれば、聞いて確認にしろ、譜を見て確認にしても同じで、何がしかの硬さが伴う筈です。先行せねばならない動きが欠けているからです。そこを初見で未知の譜を見てスムーズに演奏するというのはかなり先読みしていないとできないことです。しかしそれは無難なアーティキュレーションで演奏するならばです。しっかり譜を読み込みながらとか、他者の演奏に波長を合わせるために高い基準があれば、その代償として幾許かの硬さは発生しうるということです。
技術があって、その上で表現の面でそれほど高い基準を設定していないなら発生しない問題です。
仮に、譜に記された音を音程と長さだけの音価でしか測らないなら、その演奏は常に硬いままです。何度演奏しても硬いままです。その奏者がそう捉えたそのままの音が出ているからです。その音の意味を表現する意図がなければ、あらかじめ予知も何もありません。ただ書いてある音をベタっと糊で順番に貼り付けていくように淡々と並べているだけです。最近のmidiは優秀になっていますが、コンピューターが鳴らす"音楽"を想定できます。技術的にも理解の面でも十分という曲を演奏した場合、脱力の問題はその時は無くなっている筈です。なぜなら自分の中に明確なイメージがあってそれは無味無臭ではないからです。多くの場合、硬いのは腕ではない、頭の中なのです。思考が弓を運行させるからです。単に特定の技術を訓練する以外に全く意味のない練習曲では、その作品自体に語るものは何もないので演奏の方も無味無臭となります。それでも脱力できるれば、それは様々な作品を理解して演奏してきた蓄積があるからです。求められているのは真に音楽的な体験の量です。
そのため、脱力の練習は意味がない、作品理解が重要で、こうすることで脱力の問題はなくなるということです。老師の中には、弓の持ち方ぐらいは教えますが、それ以降は何も言わないという人がいます。これは道理があり「脱力せよ」と言ったら余計に進歩が遅くなるからです。それよりも作品そのものに向き合い、誠実である方が問題解決になるということです。
弓は基本、全弓を使わねばなりません。大きな音が鳴ってしまうので自宅では難しいこともあります。馬尾は固定されている両端が硬いので、中央の柔らかい安定した部分との差でメリハリがあります。これを善用せねばならないということです。全弓で弱い音を出すこともできます。弱音であっても弓を速く長く使う、短い音でも全弓、これは音を遠くに飛ばす時に使われ、楽団演奏の奏法です。ソロでは使われない奏法です。