弓法 - 二胡弦堂


 中国音楽における弓法とは、西洋ではボウイングのことです。弓法に関して、世界共通の原則と言えるものがあるとすればそれは「音楽は言葉である」ということです。言葉は奇跡です。この上もなく素晴らしいものであるが故に、その模倣である音楽もまた不朽の価値があります。この理解は決定的に重要です。そうでなければ弓法を定める基本原則が得られないからです。弓子を使い、言葉を語るのなら、弓を擦る方向は非常に重要です。

 弓の方向によって意図が変質することもあるため、あらかじめ弓法を指定している作曲家は多数います。譜に書き込まれているのなら、その通りにすれば良いことなので悩むことはありません。しかし奏者が作曲者の意図まで把握しているかどうかは別問題です。弓法が記載されていなければ、演奏する前によく考える必要があります。非常に重要なので悩ましいこともあるし、しばらくして変更することもあります。何を「語るか」によって決定がなされるものです。

 ルーマニアの巨匠セルジュ・チェリビダッケ Sergiu Celibidache (1912.7.11 - 96.8.14)のリハーサル映像で、プロコフィエフ 交響曲第一番「古典」が残っています。

映像
楽譜

 冒頭で「この作品には良い演奏がない」というようなことを言っていますが、世間の評価も同様で決定盤に欠けるとされ、結局こういう古典とか、絶対音楽としての純度が高そうなものが最も難しいように思います。上手に演奏は可能であっても哲学がない、価値がどこにあるのか見えずらいものが多くあります。歌の伴奏のようなものであるとか表題がある場合は、音楽に前提となる場面設定があるので音の意味が掴みやすいのですが、音の構築だけで成り立っている絶対音楽に意味を求めるのは困難です。意味がないように作ってあるものだから、演奏もそうなりがちなのです。そこを不滅の演奏、この意味はいつまでも飽きることがないということも含んでいるのですが、永遠に深いものを感じさせるというのは容易ならぬことです。

 映像でちょうど9:00のところが111小節目、15番のところですが、そこでチェロとバスの弓使いが間違っている「だめだ」と大声で指摘しています。しかし9:00以降のように演奏しているものは世の中にかなりあります。慣例通りに奏したものと思います。これが違うと言って実演して見せ、オリジナルに戻すように要求しています。確かに9:00以降は作曲者の決めた弓法とは違います。オリジナルは拉弓から、素早く戻してまた拉弓です。そんなめんどうなことをしなくても弓の方向は帳尻が合います。バイオリンだと弓を立てているから比較的容易と思うのですが、チェロやバスの弓では重いし、水平に維持しているので結構大変です。それで引いては戻しと簡単にやっていたら、その弓法が「年金を欲しがっている人向けだな」。「弓を長く使って、素早く戻す」と言っています。そして同じことをバイオリンの方にも指導して「必ず守って」と言っています。「でないと音楽が死んでしまう」。そして修正されたのは、これもちょうど11:00のところです。しかし11:38「どうも君たちは楽をしようとしているね」。「素早く弓を返して長く使う」。修正すると、12:12「全弓を使ってはだめだ」「弓を強くとばして」。

 譜上には弓の方向が記入されているだけで、ここまでは書かれていません。この作品はロシア語話者が作曲しています。ロシア人だから、こういう作品を書いたのでしょう。ロシア人奏者なら作曲者指定の弓法は当然と理解したに違いありません。ですがそれは、ドイツの感覚ではありません。ゲルマンの作曲家がこういう音型は書きません。似たものを書いても、このような弓法を適用することはありません。なぜなら、語る内容が違うからです。言語が違えば、言葉の選び方、文章の構成も違います。我々の多くは京都人のように話すことはできず、彼らのようなことを口にする発想自体を持ち合わせていません。脳の構造から違うからです。言語が同じ近距離でも全然違う。ましてや外国語となると、その国の人々を理解したと安易に考えることはできません。言葉ほど深淵なものはありません。言葉は人間性を形作ることさえします。

 他国作品の弓法をゲルマン的に捉えるのは間違いでしょうか? それは成立する場合とそうでない場合がありそうです。この場合はチェリによると「音楽が死んでしまう」。本作はこの旋律が主題であり生命です。これがあるから成立している作品です。バイキングと東方遊牧民の文化が混淆したものがロシアです。この旋律が多少なりとも抒情的であれば、根本的に語っている内容が異なることになります。ここで表現しているものは、冒険と戦いであり、それを古典風?とすることで、古い時代を懐古しているのです。19世紀末の人々はこの後、欧州が大戦になるとは想像していなかったし、ロシア人もロマノフ朝が滅びるとは思っていなかったのです。過去の歴史的積み重ねがあって今の平和があることを表現しているのです。ゲルマンの古典様式を雰囲気だけ借りた実際にはロマン派の、フィギュア化されたロシア騎馬隊なのです。そう考えると、他の箇所も全て整合性があります。しかし建前は絶対音楽です。それが100%そうならないのは、バレエの国だからでしょう。

 次はゲルマンの本物の古典派から、似たような音形で、モーツァルト晩年の傑作 アダージョとフーガ ハ短調 K. 546から、後半のフーガです。4:26からです。

映像
楽譜

 こちらは先ほどのロシア作品と違い、拉弓の次は推弓で、また拉弓の後、推弓でこれは連弓です。この連弓の最後で、最初と同じ音形の第一音も擦っています。そのため、同じ音形ですが弓が逆となるし、一回目は5度下降に対し2回目は7度下降です。先ほどのロシア作品は8度下降だったので、同じ音であり、山彦のように呼応しているだけでした。語るというよりは行進に近い印象でした。

 5度下降、しかも属音から主音への降下なので、非常に強い終止感があります。最初の3つの音で終了しても良いような強い提示感があります。しかし短音で切ることで終止感を相殺しています。音を伸ばすと本当に終わってしまう感がありますが、短いことで不気味にその先を暗示しています。それからやはり不気味な7度下降、経過音を経て同じ音形をビオラに受け渡しています。ビオラは4度、7度です。この4度は、主音から属音です。主音からなので力強い引き継ぎを感じさせるし、4度とすることで不気味感も壊していません。

 音に意味があるわけではありませんし、おそらくですが本作は何の目的で作ったのかもわかりません。パトロンがバッハ的な作品を求めたという、果たしてその可能性はあったでしょうか? 背景からして謎なのです。だけどこれは何かを話しているように聞こえます。それは単に譜をなぞるだけでは、そのようにはなりません。言葉を語れなければ不滅の演奏にはなり得ません。それでこのオットー・クレンペラーの演奏以外に推薦できるものは今のところは持っていません。それぐらい難しいことです。

 同じ主題が終始繰り返されていますが、弓は反転したり戻ったりと旋律に絡んでいます。バロック・古典派で常見される技法で珍しいものではありません。だから先ほどのロシア作品で、古典派のように捉えて弓法を調整する人もいたのだと思います(しかしチェリも指摘しているようにこの作品は間違いなく古典ではない)。ロシア作品のトリルは馬の足に付けた鈴のようでしたが、モーツァルトのそれは全く違うもので、無が泣いているのか笑っているような難しい表現です。あまりにも表情が豊富な無であるが故に、これを多感な子供に聞かせて良いのか躊躇われるほどです。これほど多くの音が鳴っているのに、根底に無があります。誰が誰に何を話しているのかわからないが、言葉は確かにあります。何かを訴えているようにも聞こえます。チェリの名言で「音楽は『無』であって言葉で語ることはできない。ただ『体験』のみだ」というのがあります。演奏者の体験の積み重ねが、無言の何かとして表出した時に、それは言葉のような、啓示のような何かとなるのでしょう。

 モーツァルトの作品も弓法は既に決まっています。それは心理の奥底を照らし、見えたものと現実を仲介するものなのでしょう。ですから、弓法を本質的に理解するというのは難しいことです。それでも、こういうものであるということを理解しておくことは大事なことです。