「古典音楽」とは古い音楽を指すのでしょうか。古いというよりは原点という意味の方が強いように思われます。西洋の音楽であれば、古典派があります。ハイドン、モーツァルトからベートーベンの初期ぐらいまでです。しかし古いというところに注意を向けると、それ以前にはバロック時代があり、またさらに遡ってルネサンス期の音楽、もっと古いものもあります。古いから全部古典音楽なのですが、古典派より新しいロマン派の音楽も古典であり、今や12音音楽にも古典があります。今年作られた古典音楽もあるのでしょうね。そう考えると、その中で「古典派」というものが明確に定義されているのは特別なことです。これはおそらくそれより以前は模索期で、土台が確立された時代という評価が大きく関係しています。しかし真に土台となったのはバロック期のバッハだという人は多いです。古典が原点を意味するのであれば、それはバッハです。だけど昔の人が、古典派はここからここまでと決めたのでしょうがない、実際のところ、より正しいのはバッハ時代が古典派で、モーツァルトは前ロマン派でしょう。今更変えるのも混乱するので、従来のまま行くしかありませんが、認識としてはこの方が正しい筈です。
音楽は時代によって前進しているので、バッハがバロック期に生きて作品を制作したのは、あの時代だったからできたという見方もできます。しかし、同様の質のものが現代に生まれたらどうでしょうか。それも古典と見做されるに違いありません。どうしてなのでしょうか。様式でしょうか。違うでしょう。このことを理解するのは非常に重要です。
古典音楽は古い因習に縛られ、現代の音楽とは全く異なるものという考え方が一般的です。しかしよく考えると、現代の音楽で完全に新しいものはありません。そういう意味で、ほとんど全ての音楽は伝統音楽です。新しい斬新なものは一般の人が理解できません。現代ではヒット曲をAIに分析させ、成功法則を導いて作品を作ったりしますので、コード進行やその扱いは似通ってきています。
硬直しているのは古典だけではありません。
であれば、新しければそれで良いのでしょうか。新しさ、新鮮さは必要だと言われます。では何が新しければ良いのでしょうか。音楽ですか、アイデアですか、素材ですか? よく考えてみますと、現代人は古典を知りません。だから非常に新鮮です。ある意味、とても新しいものです。そもそも聴衆観点では、新旧はどうでもいい、音楽が古いか新しいかはどうでもいいのです。そのようなところに価値を置いていません。同様に、古典音楽が実際にはどの時代のものかは全く重要ではありません。古楽の専門家は、ある作品が別の作品より古いから価値があるとは考えません。作品の内容が全てです。タイムラインが重要だという概念は幻想です。
それでは、どうして古典は貴重なもの、擁護する価値があるという見解が存在するのでしょうか。
今、皆様にご覧いただいておりますこのページですが、携帯だとわからないと思うのですが、両側の余白に書があります。王羲之の楷書です。正直なところ、昔の王大先生より上手な人は世界に幾らでもいます。もっと美しい完璧な文字を書く人は無数にいます。なのに、どうしてまだこういう古いものを評価しているのでしょうか。世間にはたくさんの美しい文字があります。しかし王羲之をコピーした時に感じる感動は他の書では得られません。どんなに美しくても、それが感動を保証するものではないことがわかります。真の美を示すことができるのであれば、時代背景は関係ない、それこそがあらゆる創造の源泉なのです。それを人々は「古典」と呼んでいます。古典ほど新しいものはありません。何が新しいのか、それは創造性です。その作品そのもののみならず、更なる示唆を与えるもの、それこそが価値があるものです。
もし古典を失ったなら、偉大な創造の源泉を失います。しかし多くの古典は因習に囚われて硬直しているのではないでしょうか。それは古典そのものが硬直しているのではない筈です。優れたものをコピーすることは重要です。しかしそれが目的になり、保存に重きが置かれていれば魂を失います。創造する精神が新しくなければ、全ては陳腐化します。精神が新しくとも、更なる創造を生まないなら、それは本当の意味で古典的価値はありません。
古典を軽視することは、人生の幅を狭めるとも言えます。狭い人物から広いものは生まれません。人間である以上、必修ではないかと思います。