弦楽器は今のアラブあたりが発祥だとされていて、そこから東西に伝わったようです。古代オリエント世界では、弦はユダヤが最高とされ、"世界"の範囲が変わった今でもその評価に変化はありません。第二次大戦中にウィーン国立歌劇場の多くのユダヤ人が解任され、その頃ここへ客演したナチス党員のヘルベルト・フォン・カラヤンが弦楽器の音を聴いた後、こう呟いたと言われています。「やっぱり、ユダヤ人がいないとだめだな」。
こういう楽団の仕事はどうなっていたのか、どのように国家からサポートされているのか、欧州独特と思いますのでそれも含めて説明します。参考資料はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による公式発表に基づいています。この団員はウィーン楽友協会員とされ、ウィーン国立歌劇場管弦楽団に3年以上在籍した団員を正会員としていました。メンバーはほとんど同じです。まず1つの立場は国立歌劇場団員でこれは公務員、歌劇場で伴奏するのが仕事です。副業でコンサートを開くこともあります。これはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と看板を変えます。学友協会員というのも仕事です。歌劇場団員は法律で義務付けられている副業がもう1つ、ウィーン音楽院教授や講師があります。3つの公職を兼務しています。優秀な学生を本番で使い、自分の横に座らせることが多々ありますので、正式な公務員、学友協会員でなくても演奏する人はかなりいます。会員は100名超しかいないのに、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は世界で同時に4つ存在できると言われるのはそのためです。歌劇場は毎日公演しているのに、フィル・ハーモニーは欧州演奏旅行をしていて、しかも日本公演もやっている、さらにウィーンで定期演奏会、定期は昼間だから歌劇場と兼務できますが、レコーディングもあるので忙しい、分身は最大で4までが限界とされています。正月には毎年、ニューイヤーコンサートをやるのに、同時に歌劇場では「こうもり」を上演すると決まっています。演奏家は教授職、若い人を教えるクリエイティブでない仕事を嫌いますので、法律で拘束しているのはそのためです。
彼らユダヤ人は芸能だけでなく商業にも秀でていて、シルクロードを支配していたのはユダヤであったと言われています。それゆえ古代長安の都にはすでにユダヤ人地区があったとされています。老北京語にはたくさんのヘブライ語が混じっているとされ、あまりにも多すぎて一冊の本になるとさえ言われています。ここでは以下に、维基(Wiki)解密に掲載された「老北京話里的希伯来語(古北京語中のヘブライ語)」の小店による翻訳を掲載します。
学者石旭昊の研究は驚くべきもので、北京を含む大河北地区,含まれるのは河北、北京、天津、山西、陕西,重慶北東部に及びますが、古代羯胡人が長期にこれら中国北方一带で活動し、また羯胡人の祖先が古ヘブライ人、それが北京語の中に大量のヘブライ語の言葉がある理由だということです。
例えば“得吧”,北京語の“说话(話す)”と同義,古ヘブライ語では同音同義,発音はDabar。もう一つ,北京人がしばしば食べる“烧麦(シューマイ)”,羯胡人が中国北方に達した時に発明した食品でこれも古ヘブライ語では同音同義,発音はShemesh。北京人が村と言う時に使う単語“屯厄”(語尾にR化を伴う),旧約聖書中のヘブライ語で村の発音はDuwr。北京語にR化音が多い原因は外国語と関係があります。
このような類似は非常に多くあります。
“俺”,北京人と北方人が“我(私)”、“我的(私の)”の意味で使い,古ヘブライ語では同音同義,発音はAnとAmmi。
“丫头”,“鸭蛋儿”,北京人と北方人が女の子を指すのに使う言葉で、古ヘブライ語では同音同義,発音はYaldah。
“别介”,北京人が否定する時に使う言葉,英语のNoと同義,古ヘブライ語では同音同義,発音はBil-tsi。
“甭”,これも北京人が否定の意味で使う,旧約聖書中の古ヘブライ語でも同音同義,発音はBal。
“胡同”,北京旧市街の通り,多くの人はモンゴル語だと思っているが間違っており,実際にはヘブライ語で,発音はHoot。
“捻儿”,北京語における灯芯の意味,ヘブライ語でも同じ意味で,また照亮、照明、光明と関係あるものを指す。ヘブライ語の発音はRyn,Niyr。
“坷垃”,硬土の塊とか石などの意味。古ヘブライ語では同音同義,発音はKela。
“疙瘩”,北京、河北一带では団塊の意味,ヘブライ語で発音はQaneh。
“窟”、“窟窿”,中国北方では洞眼、洞穴、山洞の意,古ヘブライ語では同音同義,発音はChowr。
“戏(戯)”,ゲーム、遊ぶの意,ヘブライ語の発音はShiyr,意味は唱、演唱。
日本の神道はユダヤ教の背教したものであるとされ、その多数の証拠の1つは三種の神器に関するもので(ご神体ではない。ユダヤ教は偶像礼拝を禁じている)伊勢神宮にある八咫鏡の裏面には、意味不明の文字の羅列のようなものが見られ、ヘブライ語なら読むことができます。それは「エホバ(ユダヤ教の神の名)は光」と読めます。天皇家も含め神職の家系の人々はユダヤ系の血を引いていると言われています。アインシュタイン(ユダヤ人)は来日した時に神道を見て「神は真の崇拝を現代まで保たれた」と言って感謝の祈りを捧げたと言われています。ユダヤ人にとって東の果ての島国は楽園だったのかもしれません。彼らユダヤ商人は見知らぬ土地を幾つも訪れるので、現地人との交流のため弦楽器を使ったと言われています。
ユダヤを中心に東西の弦楽器文化を形成、二胡の原型は古くはシルクロードの商人が持ち込んだものだとされています。しかし人間は自然界から多くを学ぶので、土地の風情から感性を育てていきます。そのため東西の弦楽器は異なる発展をしたのかもしれません。しかし技術的な交流が絶えることはありませんでした。西洋擦弦はバロック以降は無伴奏の楽器としては難しいですが、東洋は無伴奏の方がむしろ普通です。しかし和音と転調を可能にした平均律は中国人の発明でした。歌は本当に優れていればソロでも十分に美しく聴けます。東洋音楽はそこをかなり研究し尽くしていく傾向があり、単音の楽器を聴かせるための様々で多彩なテクニックの方法論を確立しています。西洋音楽はアンサンブルに重きを置いているゆえ、1つの楽器に対して東洋音楽のような自由度は与えません。西洋音楽は音程やテンポの一致に厳しいですが、そうでないと他の楽器と合いにくいからです。東洋では1つの旋律を歌手と弦楽器で斉奏する場合、ずれると音が濁ったり前後にタイミングがずれたりしますが、それを巧みに動かすことが表現手法になっています。西洋は音程重視なので、バイオリン属のモダン楽器は弦を4つ揃え、指板をつけて確実性を高めています。二胡は2弦です。弦は宙に浮いており不安定です。安定させると表現の自由度が縮小されますし、音楽は常に流動していなければなりませんから、どのように流れていくかを重視すれば、弦を安定させる必要が感じられないのだろうと思います。このことが、バイオリンに優る表現力を二胡に与えています。弦に加える力を多彩に変化させて、音を自由にたゆたわせることができ、長い弦を利用して多くの奏法を可能なものにしています。
中国音楽は場合によっては楽譜の指定の音とは違う音を出します。楽譜に書かれていない音を出す場合もあります。法則性はあります。こういう傾向は東洋音楽全般にあります。それゆえ二胡はバイオリンにはない高度な部分があります。それは地方によっても違うので非常に多彩です。
独自の魅力を保ってきた中国音楽ですが、五四運動、そして文化大革命によって、伝統文化が「旧時代の産物」として否定される過酷な歴史を歩んできました。あらゆる古典音楽の演奏が禁じられる厳しい時代もあり、一方で西洋文明など外国のものを取り入れることが奨励され、二胡はバイオリン同様の統一した規格化がなされました。そして音楽も大きく変化して伴奏を必要とする作品が増えました。しかし後の世界的な伝統音楽の衰退を見ると、中国音楽のこの変化は保護という観点からは必要でした。伝統に殊更拘らず、現代化を厭わなかったことで敷居が下がりましたが、これがなければ日本など諸外国でこれほど広がっていなかったと思われます。しかし伝統の観点からは、他国の伝統音楽と同様に苦しんでおり、政府主導で教育の強化、テレビで盛んに取り上げるなどしても、現代社会の中で居場所を見つけるのに苦労しています。これは難しい問題です。現代に溢れている音楽より伝統が魅力がないということは決してない、むしろ逆なのですが、しかしどの国のものにしても、携わっている人たちは開放的であっても音楽自体は閉鎖的で、そこが奥ゆかしくて良いのですが、ちょっとわかりにくい、自分から入っていかないとわからない敷居の高さがあるので、また身につけるのに数年を要したりしますので、もっと簡単なギターのような楽器もあるところ、なかなか難しいのです。中国は成功している方だと思います。
現代には「著作権」というものがあります。しかし貴族や王室がパトロンだった時代には、こういう概念自体がなかったと思われます。それでもいわゆる現代で言われる"パクリ"のみで音楽活動をやっていくのは困難で、作曲ができないようではパトロンへの売り込みが苦しくなります。それでも演奏家としては、他人の作品を演奏しても問題ないので、自由に使っていくことはあったようです。非常に古い作品は作曲者の名前がクレジットされていないものが結構あり、誰が作ったのかよくわからない作品も多数存在します。しかし出版というものが出てきてから、著作権に近い考えがでてきたのかもしれませんが、まだこの頃は権利を主張する意味がほとんどなかったようです。それでも他者からアイデアを使われるのを嫌う向きもあったようで、新作が初演される時には、練習一切なしぶっつけ本番で、演奏直前に楽譜を配り演奏が終わったら即回収して他人に演奏されないようにするということはあったと言われています。作曲の権利は考えていなかった一方で、その作曲作品を使って興行して稼ぐ件については神経質な人もいたということのようです。他人の作曲作品を持ってきて勝手に自分の作曲に利用するということもかつては普通のことであり、バッハの作品ですら多数の過去の作品からの引用が見られます。中国では、基本的なメロディを「曲牌(qu-pai)」と言い、他人が作ったものでありながら、これを引用して作曲するのは当たり前でした。清代乾隆年間に「九宫大成」という曲集が宮廷で編纂され、これはジャズで言うところのリアルブックのような内容でした。中国全土からメロディを集め、南方曲1513曲,北方曲581曲,共2094曲。さらに変奏曲2372,計4466曲収録されていました。牌子は自分で作るか、過去の既製のものを使うにしろ、とにかく牌子を組み合わせたりアレンジしたりして曲を作るのが一般的な作曲というものだったのです。どの牌子を使ったのかは聴衆がわかるので(分からなくても?)一々誰が作ったものかという権利関係のアナウンスをわざわざするようなことはなかったようです。このような自由な雰囲気にあったので、優れた作品が多数出てきたとされています。その豊かに素材が利用できる中で、優秀な作曲家が新しいものを作っていったようです。ブラームスが交響曲第4番の最終楽章を作曲するときに、ベースにする旋律についてどうするかという内容の友人に書き送った手紙が残っており、ここでブラームスは1つの旋律を書いて「これはバッハの作曲したものだから、しっかりしていて使える」という考えを述べ、この旋律を使って変奏曲に仕上げるつもりだと書いています。仕上がったものは、この旋律を36の種類に様々に調理したパッサカリアとなり、この結果に至る経緯は今でもよく知られていますが、誰も「バッハのコピー」だとは批判しません。ジャズに至っては、"パクリ"なしには存在し得なかった音楽だとされており、欧州、アフリカ、南米から多数の音楽を抜いてきて発展させてきました。ちょっと話が逸れますけれども、現代中国は楽譜に著作権がないので、他人の作品をネットでばらまいても問題ないですが、そういう人気作品を作ると国家が生活を保障するので今でもパトロン制にあるということになり、一般の人がどこかに許可を取らないと演奏すらさせて貰えないということもないので、そういう意味ではすごく恵まれた環境です。支払い等は中国政府が行っている形なので、優れた作品は国の所有という雰囲気になり、人民だけでなく世界中だれでも演奏できますが、かといって作曲者の名前が消されることもなく名誉も高められたままという状態で、この体制は古代から基本があまり変わっていないと言えます。欧州は、いわゆる「牌子式」のようなものやパトロン制を廃してきたので、どんどん変化してきたと言えるのかもしれません。変化前の欧州と中国は似ているという風に見ることもできます。
著作権の是非について活発な論議をする人もいますが、ここでは扱いません。著作権は文化の停滞を招くとして反対する人がいるので議論になっているようです。中国式は非常に良いですが、デメリットとしてはクリエイター(ではなく搾取する事務所だという人もいます)が巨万の富を築けない点にあります。米国のマイケル・ジャクソンが自宅にネバーランドという個人遊園地を作ったという有名な話や、そこまで派手でなくても近いような話はいわゆる資本主義体制内では普通のことですが、中国式ではその100分の1ぐらいも真似できません。これをデメリットと見なすかどうかについても、いろいろ意見はありそうです。そんな中、デジタル化という新しいものが出てきて、現代のパトロンであるはずの民衆が不法ダウンロードを行うので、人気絶頂にあるユニットすら採算が取れず、解散しなければならなくなるような影響が出てきていると言われています。このまま行くと、著作権構造自体が維持困難となり、中国式しか選択肢がなくなる可能性があります。いろいろ個人で好みや意見はあるかもしれませんが、だれがどのように何を論じようとも、結局は昔の方法に回帰する流れになるのかもしれません。不法ダウンロードがその内、不法でなくなるような流れすらあります。すでに一部のレコード会社は、mp3を無料でばらまく"不法"行為はむしろ好ましいとして、現行体制では法的に問題有りとしても著作権者としての権利を行使せず公に容認する方針を発表していますが、これは今のところ進んだ考え方と見なされている段階なので、こういうのを見るとまだまだ過渡期であるといえるかもしれません。
新しいものを創造したり、古い物に回帰したりと、右往左往する・・・これが文化というものなのかもしれません。
牌子についても少し加えておきます。清代に避暑のために皇帝が訪れていた熱河という都市があって、現在は承徳という名前に変わって観光地になっていますが、ここで演奏されていたという避暑山荘宮廷音楽というものの楽譜集を入手しました。これはどのようにして現代に宮廷音楽の譜が残されたのか、経緯が書いてあったりしておもしろいのですが、楽譜の方は牌子、西洋風に言うと主題が書いてあるだけという感じの物で単純な旋律集であり、これにいろいろ肉付けを加えて、編成も自由に組みながら、時にアドリブで演奏していたものと考えられています。これを現代に復刻演奏した録音を中国のネット上で見つけましたので以下に貼り付けておきます。この録音は1つの例程度のものであって、同じ牌子でも食事の時や睡眠時など用途に合わせて変化させていたのかもしれません。
ウィンドウが出たら、どちらも「cyada.org」を入力して下さい。
宮門大開 歌舞升平 春到御花園 烛影摇紅 飲宴曲 宮怨 天子慶寿 紫雲青峰 浪淘沙 鳥江渡 天心順 姑嫂拝月 冬来 水龍吟