一流の演奏家は少し聞くだけで彼とわかる独自の音を持っているものですし、自分でもそういうものが欲しいという人はいます。それは作られるものとも言えるし、自然に生じるものとも言えます。ただ1つ言えるのは、音は探すものではないということです。
世の中にはないと思われる音を探し、または作り出すというものではありません。そこに何も意味はないからです。近現代のポピュラー音楽の大家たちはギターを使いますが、ある意味特別なものを使っているわけではありません。フェンダーやギブソンなどよく知られたメーカーのものを使っています。独自性というよりは単に良いものを求めているだけなのでしょう。自分にとって、これ、という音があってそこにフィットする楽器を探しています。その自分の感覚は伝統に基づいているので選択もよく知られたメーカーのものに自然となっていくのでしょう。それだけであれば独自性は希薄です。しかし人はそれぞれ骨格が違うので、その時点で独自色が出やすいし、蓄積してきたものも違うのでどうしても変わってきます。独自性は自然に生まれるものです。録音の独自性も同じ道理と思います。
演奏会は演奏する場所が変わるので、響きも都度変わります。これは自然なことなので問題にならないと思いますが、録音で音を常に決めてしまいたい場合は、毎回同じ場所での収録になって移動できません。家だったら引っ越すと音が変わるので、ルームチューニングにこだわることでどこに行っても再現できるようにする人はいるし、同じスタジオを使い続ける人もいます。
録音やPAにおいて、二胡は専門家の手によって音響を通すと最終的に全く違うものが作られてきて、それが世間一般の二胡の音に対する概念とマッチしているということもありますから、かなり複雑なものです。分業することが必ずしも有害ということはないですが、音響専門家に余りにも全てを任せてしまうと、哲学も何もない、そこにあるのは化粧された音だけという罠に陥りやすいのが二胡という楽器で、これはとても難しいところです。
曖昧な音程が取れるところ、それを善用していくのも二胡の特徴なので、正しい音程にすぐに入らず、ためらいを残しつつ入っていくことや、微妙な出し入れがありますが、今時はすごいソフトがあって、狂った音程をコンピューターで解析して直してしまったりもできます。エンジニアにこの伝家の宝刀を抜かれ、まるっきり違うものができてしまうこともあります。平均律に正しく?修正されてしまったりもします。この辺りはわからない人に幾ら言っても無駄なので、分業は大変なことです。
同じ弦楽器でも西洋と東洋ではかなり異なるので、音響の観点で二胡をバイオリンと同じように扱うことはできません。この両者は存在意義が異なります。一口にソロと言っても東西でその概念が違い、二胡のソロとバイオリンのそれではかなり意味合いが違います。そのため、二胡は単独で演奏可能で伴奏を必ずしも必要としませんが、バイオリンで無伴奏は稀です。この特徴の違いは音響にかなり影響を与えます。バイオリンはアンサンブルの一部になる楽器であり音はより明快でシンプル、ソロでも伴奏は要りますが、二胡はより複雑な響きを出すので単独で容易に成立します。バイオリンはサウンドホール付近で集音すれば良いというやり方もありますが、これは考え方にもよるのですが、二胡は花窓付近で集音すればそれだけで良いかというとそうもいきません。そうするとそれだけでバイオリンよりは複雑になってくるし、世間の機材が西洋中心ということも気になってくるようであれば、事態はさらに混迷を深めます。
モダンジャズ黎明期の録音はほとんど、ヴァン・ゲルダーというエンジニアが手がけたことで有名ですが、それと同時に彼が請け負うレコードレーベルによって音が違うということも知られています。同じ人が同じ場所で同じ機材で録音して、同じような人たちが演奏しているのに、レコード会社が違うだけで音が変わるという、不思議な現象ですが、それはおそらくゲルダーがレコード会社の要望を聞いて合わせていたからであろうと推測されます。使う人によって多少変わってくるというのは確かにあると思うのですが、そのことが根本の哲学の違いを感じさせ、それが全く違ったサウンドに感じさせてもしまう、このことは十分に意識していなければならないことです。これは音響機材に対してだけではなく、他の要素に対しても言えることですが、全てにおいて自分の意思が介在されてしまうということです。