聴衆の質 - 二胡弦堂


 普通、家で音楽を聴く場合は再生装置が機械だけに遠慮が全く要りませんので聴衆は好き放題に振る舞います。しゃべる、食べる、寝る、トイレに立つ、本を読む、料理する、掃除するなどです。そうかと思えば、自分の気が進めば真面目に座って聴いたりもします。聴衆というのはこれぐらい好き放題なのであって、かつては演奏会場に行っても同様でした。日本でも、中国でも、欧州でも同様です。演奏が始まっている、幕が開いたとかそういう状況にも関わらず、騒めいているのが普通でした。椅子にしっかり着席して静聴させていただくといったような概念自体がありませんでした。日本の場合であれば、相撲とか野球とかそういったものではビールを飲んで気分よく、何かあると騒いだり座布団飛ばしたりとやりますが、歌舞伎でも似たような振る舞いで、かつてはこういった姿勢がスタンダードな鑑賞態度だったということです。

 19世紀末、ハプスブルグ帝国は自国の首都にあるウィーン宮廷歌劇場の大胆な改革に乗り出す必要を感じ、そのために優秀な楽長を獲得、その指導の元で水準を飛躍的に高めようということで人選を行い、ハンガリー出身のグスタフ・マーラーを指名しました。彼による改革は多岐に亘り、いずれもこれまでのやり方を変える内容だったことで評判が最悪、各方面からの苦情が殺到し、それにも関わらず皇帝と文化大臣は頑として首を縦に振らず、マーラーを擁護し続けました。それと同じ時期に、ミラノ・スカラ座はアルトゥーロ・トスカニーニを監督に据え、こちらもやはり攻撃を受けつつ改革を続行中でした。興味深いのはこの2人の改革の内容がほとんど同じだったことです。その中に「聴衆は静かに静聴すべし。従わない者は場外へ強制退去させるべし」というものがありました。クラシックのコンサートやオペラ公演が現代のような振る舞いになっているのは、この頃以降なんですね。それまでは割と好き放題だったのでしょう。

 しかし現代でも残っている50年代ぐらいのオペラ録音を聴くと、もう開演前から結構ざわついています。30年代となると音質も悪いのでわかりにくいですが、やはり騒いでいます。明らかに「静かに聴いている」状態ではありません。だけど彼らは一応、オペラを見にきているのだし、少なくとも本人らはそれがメインの目的と思っているので、何かあると突然静かになったりもします。贔屓の歌手が出てきたら一斉に応援、アリアの間は静かですが歌い終わると、ゴルファーがボールをカップに沈めた瞬間に一斉に「良し!」という感じのあの騒めきに似た、ああいった雰囲気で掛け声が飛び交います。アリアを歌い終わった直後というのはまだオーケストラは演奏中ですので、掛け声と演奏が混じった異様な雰囲気になります。歌舞伎であれば「日本一!」と叫びますが、オペラでは「ブラーヴォ」などと言います。アリアを歌う時にはオーケストラは普通、声を潰さないように音量を控えますが、締めは関係ないので一気に出る、そこへ聴衆も出るから祭りのようになります。曲自体がそれを想定して作ってあります。これはまだまだ触りに過ぎず、この繰り返しで盛り上がってゆき、やがて興奮と騒めきが収まらなくなります。そういうわけで主要なアリアというのは最初の方にあることが多いのです。これをまず静かに前菜でつまんで、それでようやくエンジンがかかってきて、いよいよそこから本番なんですね。序曲が前菜ではないのです。序曲はまだ幕が開いていないし、会話はすぐにはやめられないので序曲が終わる頃には落ち着くようにある程度の長さがあるのです。20世紀に入ると改革の効果のため序曲が不要になったのか、プッチーニの作品には序曲がありません。オペラの全体の構成というのは、かつての劇場の騒ぎを知らないとわからない、エンターテイメント的に盛り上げる目的で組まれているのです。盛り上がらない客だとぜんぜん駄目なのです。静聴が義務として課せられている現代の聴衆は今一つオペラの良さがわからなかったりします。参加することに意義があるので、マーラーやトスカニーニが悪者になるのは当然なのです。チケットを購入して劇場行ったら「静かに座れ」で下手したら追い出されるわけですからね。そりゃ、怒って皇帝にでも苦情の1つぐらいは言いますよ。

 マーラー・トスカニーニ以降でも騒ぎがなかなか収まらなかったのであれば、以前はもっと凄かったのでしょうか。おそらくあまり変わらないと思います。人間というものが基本的に変わっていないので、現代でも良い劇場はどうしても騒々しくなる傾向はあるし、そうじゃなかったらその上演は失敗だろうと思います。だけど演奏家の主観では、この騒ぎというのが嫌な人も結構いて、細部にまで拘ってせっかく組んでいるのに、聴衆が一斉砲火する、残念も通り越して頭に来るという人もいます。オットー・クレンペラーはアリアが終わる度に狂喜して騒ぐ聴衆の方を向いて「厚かましい!」と怒鳴りつけていたと言われています。聴衆は讃えているつもりですが、受け取り手はそういう風に受取らないというすれ違いがあるのです。90年代にスカラ座の監督になったリッカルド・ムーティが開演前に会話していた老夫人をオーケストラピットの中から指さして警備員に「つまみ出せ!」と叫んでいるのがテレビに写りました。これは当時欧州で社会問題になりました。こういう演奏家と聴衆の戦いという歴史があって今に至っています。

 結論としては聴衆には自由意思を認めた方が良い、彼らを変えるのは演奏の質以外には無いということがある面では言えると思います。例えば子供とか空気を読まない客はどこも歓迎しないし、そうする方が無難ですが、しかし彼らはディズニー上演では入場を許され、しっかり静聴します。子供は演奏に対しても大人よりも強い嗅覚で本物を見分けるので、子供が騒げば演奏が悪いということになります。しかし高い質は簡単には得られないので、やはり子供は締め出すのが無難ですが、ところが以前に、主催者の方針で子供にも入場を許可した戯劇公演を中国で見たことがあります。その公演は無料だったので、親が駄目元で子供を連れてきて入り口で「この子は今、お歌を習っているのでどうしても見せてやりたいのですが。必ず静かにさせますので」と交渉します。子供は正装させられて緊張して起立しています。係員は「当公演には年齢制限は御座いません」と言いすべて通します。上演は国家評劇院、中国最高の戯劇団の1つです。テレビで見るような高水準の上演を無料で真近に見ることができます。しかしこの上演は一般の全く何にも携わっていない人には知らされていないので、不特定多数が押し寄せているわけではありません。入場して一番後ろから様子を伺いますと、まだ始まっていないうちから凄い緊張感です。その後の展開は、まさか中国に来て、あの50年代の過ぎ去りしオペラ・ライブ録音の雰囲気を生で見れるとは思わなかったと言えば十分でしょう。確かに子供は大人しくさせていた、しかし大人たちはというとそうではなかった、やっぱり親が好きだから子供も習ったりするんでしょうね。子供というのは親がエキサイトすると静かになるようですね。やはりここでも「あんたが一番!」みたいなことを叫ぶので、こういうのは世界共通のようですね。この騒ぎを体験しておかないと梅蘭芳を聴いてもわからないのではないかと思います。騒ぎの質は驚く程世界共通です。不思議なものです。

 しかし人間社会というのは必ずしも平和ではないので、特に嫉みが問題になることがあります。トスカニーニが英国に始めて招かれた時にブラームスの管弦楽作品全曲演奏を行い、これはすべて録音され発売されていますが、これも彼の成功を何とか阻止したい派閥による妨害工作が激しく、演奏録音の中に数度の爆発音が聴こえます。これはホールの屋根に爆竹を仕掛け、演奏中に発破したものとされています。このことについてトスカニーニに聞くと彼は「大きな音が鳴ったのは知らない」と答えたと言われています。マーラー亡き後、監督を引き継いだ弟子のブルーノ・ワルターは、ナチスのオーストリア進駐以降、立場が危険になったユダヤ人である自分の置かれた状況にも関わらず、やはりユダヤ人であった師のマーラー交響曲第九番をウィーン・フィルの演奏会に採り上げることにしました。ナチスの将校で埋まった楽友協会大ホールは異様な雰囲気で、前列の将校らは足を踏みならして妨害したと言われています。この演奏は現代でも傑作とされ発売もされていますので、今でも聴くことができます。しかしこちらは足音を録音では確認できません。この時もワルターは「足を踏みならしていたというのはわからなかった」と言っていたようです。仕事に集中していたからわからなかったのか、それとも何か事情があるのかわかりませんが(或いは騒ぎに慣れているのか?)、いずれにしても演奏家は聴衆を選べない、良い時も悪い時もあるので、やるべきことに集中することが重要です。

 マーラーとトスカニーニは音楽界に計り知れない功績を残しましたが、こと"静聴"に関しては賛成できない部分はあるし、こういうことをやるから演劇がわからない現代人が増えたように思います。確かに大部分の聴衆はレベルが低いのでしょうけれど、それでもプロがそういうことを言ってはいけないと思います。この結果、現代のウィーン宮廷歌劇場、改名され国立歌劇場になっていますが、それとスカラ座、どういう状況になっているのか、動画サイトで多数見れると思うので、幕が開く前、または閉じたところを観察してみて下さい。監督は演奏が始まる前か終わった時に必ず一番上を見上げます。しかもそこにしか挨拶しません(写真例はウィーン国立歌劇場のピットに入った開演前のカルロス・クライバーです)。ウィーン国立歌劇場は平土間という一番下のホールが1万円ぐらい、スターが来ると3万円、そこから上に行くに従って安くなり、てっぺんは天井桟敷と言って、立ち見で100~300円です。つまり天井桟敷にしか挨拶しないということは金持ち以下は無視、貧乏人にだけ挨拶していることになります。しかもそれだけではなく天井桟敷族の顔色まで伺っています。各メディアも幕が下りるとすぐに平土間から真上を見上げ、桟敷族の反応を伺います。彼らがブーイングしていたら翌日の新聞に「公演は失敗」と書きます。天井桟敷は芸術家や楽団OBが席を占めています。これはウィーンだけではありません。欧州全域でこのような状況です。したり顔で高いチケットを買って座っているのはよくわかっていない人たちだったりします。エンターテイメントの原則を無視せず、聴衆に自由にやらせておれば、こういうことにはなってなかった筈です。劇場は自分も参加、そして体感が命なのに、怒られて大人しくさせられてしまって、何だかよくわからないになってしまっているのです。だから、ドイツの地方歌劇場はガラガラで国の援助がないとやっていけないとか、そういうことになってしまっているのです。勘違いのないように申し上げますと、何も行って騒げと言っているわけではありません。劇場はインテリを装う所ではないということですね。感動を共有する場所なのです。

 ライブ録音は聴衆の熱気というサポートが得られます。スタジオ録音よりライブ録音の方が良いことがあります。聴衆の質は当り外れがあるので、常に収録しておかないと傑作を逃すかもしれません。収録の仕方も重要で、聴衆側にもマイクを立てないといけません。最初に設置されたのは1994年 EAGLESによるHotel Californiaライブと言われています。それ以降、ライブ収録では常識になっています。

 では、また話を戻しますが、静かな聴衆は認識が欠けているのでしょうか。静けさを求める演奏者もどうでしょうか。先日、国立能楽堂に行きました。YouTubeでは良さがわからないのですが、直に見るとなるほどこういうものなのか、わかりやすい説明をすると、考えずに環境音を聴くものです。舞台音楽鑑賞という能動的なものというよりは、受動的で何もしない、呆然としているだけで良い、緩いトランス状態を体感するものです。そのため舞台上では動きを最低限に制限しています。あまり動くと気が散ります。舞はなくても良いでしょうか。音だけなら視覚がないことで音に集中してしまいます。そういう音楽ではないので、緩やかな動きに、表情が変わらない面、それとは対照的に煌びやかな衣装が視界に入ることで注意が分散し、理想的な「無」が得られます。こういう芸能は世界的に珍しいでしょうか。わかりませんが、能楽はそもそも神事で、神に捧げるものでした。そのため聴衆からのプレゼンスは期待されておらず、存在はいないのと同じでした。しかし神事の参加者ではあるので、聴衆の方に向いて上演するようになりました。ですが第一義的には、神に対するものなので、神を象徴する松に向かって舞わねばならず、それが鏡のように背景に写っていることを示すために、舞台の正面には松が描かれています。しかし神事だった時代の田楽は消滅し、現代の能は神事ではなくなっています。それでも神に捧げる芸能が非常に美しいのは世界共通で、能はその美意識を残して現代に至っています。そういう意味で世界的に珍しいものです。歌舞伎はエンターテイメントなので聴衆と盛り上がる必要がありますが、能は異なります。聴衆にシンパシーを感じません。

 これが究極的に美しいのであれば、過去の巨匠たちが聴衆に静粛を求めたのは、突き詰めると最高の美を求めていたということになります。ですが、その前提としてどのような作品を演奏上演するかということになり、歌舞伎に能の聴衆を求めたりその逆もミスマッチです。しかし、なにもない、無において美しければ、それがどのようなものであれ、理想です。