製造販売でも、差別化を図るといったような言葉があって、一歩前に出るといいますか、演奏ではそういうのは難しいということで考える方はおられると思います。演奏においては商業的、芸術的、それぞれ成功の基準が違うと思いますが、いや、一緒だと言う人もいるようですが、ともかくここでは固有の何かについて話すことにします。
関西に「目立ってなんぼ」という言葉があります。関東ではこういうのは眉をしかめる上品な方が多いようですが、ともかく発想が違うということは言えるのでしょうね。人を押しのけるようなイメージがあるので、あまり好ましく捉えられないかもしれませんが、関西では問題ないし、そういう意味でもありません。関西芸人の仲間思い、気前の良さはよく知られていますが、その延長で、目立ってなんぼ、どちらかというと自分がというより、サービスなのです。発言自体がサービス、ジョークも言わない、理解しないは無礼、アホな自分という演出で人々に楽しんでもらえるかという基準なのです。目立つということで、周囲の皆さんにどれぐらい喜んでいただけるかというロジックなのです。おもしろかったら万事良しです。当地は喋る関係の芸術が発達していますが、昔から職業プロが成立していてというところで、こういうことも言われたりしているわけですから、素人の傲慢な訳のわからない人が言っているようなことではないのです。プロ発言ですから。このあたりの考え方は演奏にも共通していて、目立つ目立たないというよりは、どれぐらい人々を満たすことができるかということに尽きます。本題は自分の個性をどう発揮して差別化するのかなのですが、そんなのはどうでも良い、究極的には人々が満足するという結果さえあれば良し、ということなのです。その結果を得るために1つのやり方としては目立ちますということに過ぎないのです。このあたりの概念は、江戸時代よりプロ的に成功してきた考え方なので参考となる要素です。
演奏は、作品があってそれを演奏です。一流の巨匠は、深い作品愛の発露のため、自分の存在を消してすべてを捧げます。自分や周囲、ここでは聴衆ですが、これらは二の次、作品を如何に描き出すかが全てです。ですがこれは簡単でしょうか? こんなので儲かりますか? 聴衆も含めての全体の水準が一定以上でないと難しいことです。なにせ、自分は消している、聴衆はチケットを買っていただいているのです。これも関係なし。なんで? 聴衆も作品愛に満ちているからそれで良いのです。素晴らしい作品の素晴らしい演奏を聴きたい、だから良しなのです。しっかり頼むぞというところで、演奏者が出てくると煩わしい、不要なのです。しかし作品愛ゆえのいろんなものは歓迎されます。そこで、本来とは関係ない、つまり人間というのは自分が一番かわいいです。自分愛、これが出てくると三流とランクされます。下衆だから。だけど、目立たなくてどうやって儲かるのですか? どうなんでしょうね。儲けるという観点からは厳しい道のりなのでしょうね。ともかく、こういう世界があるということですね。
この人たちは無理解に囲まれます。有名になった時には70,80歳とか、そんなこともあります。この道は、相当な情熱や教養、信念がないと無理ではないかと思います。しかし参考にはなるかなとは思います。
自分を消している、だけど実際のところ、一流の人たちは個性はかなりあります。それはそうでしょう。普通の人には踏み入れられない生き方を選ぶ時点でインパクトがありますから。美しいと信じる愛があるのですよ。近所にもいないな、というタイプですよ。極めてナチュラルに、やっているつもりなのは本人だけで、人間だから癖があるのです。それが愛されるのです。それで良いと。安心感があるのです。もっともっとレベルが上がったらナチュラルになりますでしょうか? これがならないのです。ますます深まるのです。ちょっと聞いただけで誰の演奏かわかります、というぐらいにです。
どうしたらこうなっていくのでしょうか。やっぱり、作品に対する理解がすべてでしょう。それしかないでしょう。しかし、どうやって理解するのでしょうか。もちろん、研究考証はあるのですが、非常に詳しい研究員が優れた演奏を行うわけでもなく、なのでそんな単純なものではないということはわかります。人間というのは夫婦ですら相互理解が困難、理解というもの自体が相当に高スキルを要求するものであることは明白です。音楽作品は人間の感情の綾を描き出す複雑なものなので、まず人間性、これがないとどうしようもないというのは前提にある筈です。作品ではなく人間理解ですか。そうなんですよね。人間というのは単純なものではないので決して簡単ではありません。自分も理解しているかわからない、一番難しいものの1つでしょうね。かなりの人生経験は糧となりますが、それがなければただ上手いだけになってしまいます。とりあえず素早く個性、となると、無理やり変なことをして如何にも持ってきました感が出て格好が悪い、これが美しいという信念だけが必要です。そこで自分はこれが美しいと、ここで自分が出ると途端に価値が下がります。旋律を聴いて美しい、しかし人生経験があるとその美は万華鏡のように広がります。作品の隅々、すべてにおいて深い愛を求める、そこには作品と美と愛しかない、愚直にやっているのになぜかここで個性が発露します。人間というのは不思議なものです。
普通のことを普通にやるというのは難しい、特にコンプレックスがある人はできません。凡庸で無価値な普通の自分に向きあうのが怖いからです。やらない、選択しないというのではなく、できないのです。ですが、演奏家は凡庸というより中庸、普通というより普遍を追求せねばならないので、精神が健康でなければ無理です。ロックなどの分野では、コンプレックスを武器にしているような人もいると思いますし、演出ではない、自殺したりしますからね、かなり本気なのですが、これは同類が傷を舐めあっているだけ、不健全なものは避けなければなりません。苦労はあるにしても、そういう苦難は必要ないでしょう。同類が多いので武道館も埋まるのでしょうが、不幸になっていくのは違うのでは?と思います。健全にやっておれば武道館は埋まらない? そこを突っ込まれると苦しいでしょうね。社会が病んでいるのではないですか。いずれにしましても、人間性、これが理解に大きくバイアスを掛けますね。良くも悪くも。
最近、テイラー・スウィフトの世界ツアーで各国に経済効果をもたらしており、航空券からホテルの予約の上昇、様々な利益が報道されていました。これまで聴いたことがなかったのでYouTubeで2つぐらい確認しました。何がこんなに売れるのかと思ってのことです。内容は恋愛関係の抒情詩でした。複雑な感情なのですが、誰もが親近感を感じる現象を表現しています。そのために全ての音がある、という感じでした。表現したいもの、目的に全ての音が追従しており、全てが自然に収まっています。特にインパクトのようなものは狙っておらず、静かな傾向です。だから何度も聴けるのかもしれません。しかし何度聴いても飽きないというものは制作が非常に難しいです。歴史に残る演奏の必須条件です。
どうするのかという明確な回答はないので、参考の話ばかりになりましたが、個性の発露に向けての近道は結局は普遍の追求に他なりません。普通のことが普通にできるかが重要です。自分にも普通に向きあうから、普通にまっすぐな自分が自然に表出します。非常に個性が強い芸術家は、本人は自分が世界で一番普通と思っています。彼、或いは彼女の考える、これは絶対だという信念に満たされています。ものすごく多くの理由に裏付けられていて独りよがりなものではない、だから本人は普通だと、他がおかしいのだと、こう考えます。そして実際、ものすごく普通であって、非常に筋が通っているので説得力があるのです。それを背景の根拠が彩ります。異論を寄せ付けない完全な仕事、これで圧倒し、ノックアウトされたい、しびれた、やられたと言いたい人々が評価します。ノックアウトされる方に回る体験はかなり糧になります。