個性を求めるという方向性は、商業的な面と深い関係にありそうですが、そうなりますと純粋に演奏だけのファクターでは決まりません。商業面での成功法則は業界との関係など複雑です。非常に優れた芸術で売れていないものは多数あります。それでも、興行収入=価値という考え方は全てではないとしてもこれには一定の道理がありますし必要なものです。価値を生み出すために「差別化」「個性」という言葉が使われることがあります。そういうものがない、過去に似たようなものがあるのでは購入する動機が乏しく、そこで商業的フィルターは厳しいジャッジとなり、完全ではないとしても一定のフェアな淘汰は行います。
ですが、個性がない人というのはいるのでしょうか? 稀にいらっしゃいますが、ここに来られているほとんどの方は芸術関係者と思われますので、個性を感じさせない方というのはほとんどいないのではないかと思います。個性について考えるのは無駄なことだと見做すのが普通で、世の中の多くの人は自分の個性を気にしていない筈です。そこから商業面を考えるとようやく提起されがちな問題です。
では、全く無個性な人というのを考えてみて下さい。何も知らない、考えもない、文化もない。子供や犬猫でも主張はありますので、無個性というのは相当に異常であるということがわかります。幼少期に親から抑圧、成人しても配偶者や勤め先へ隷従、といったような人生を歩んできた人々です。そういう方が楽器をやるということがあります。魅力的な個性が発露しますでしょうか?
この話をさせていただいたのは、演奏家として成功するために徹底的な練習さえすれば良いと考える人が少なくないからです。表現するために技術は必要ですが、技術は技術に過ぎません。道具に過ぎません。当たり前なのですが、他に強みがなければそうするよりありません。そのため、そこで差別化します。だけど上手な人は世界に幾らでもいます。そして当然に、差別化は失敗します。そこで奇抜なことを計画することがあります。博打を打ちます。このような方向性は絶対にやめなければいけないことです。人間の本質的な生き方から外れ、ますます魅力を失います。
やらねばならないことはむしろ逆で、徹頭徹尾、普遍を追求することです。自然(ナチュラル)、単純(シンプル)、標準(スタンダード)を愚直に履行する、こうでなければ良いものは作れません。その純度を如何に高めるかこそが重要です。これを徹底追求した時に最初の段階から見えがちなことは、世の中が間違っている、ということです。世の中が普通でない、自分が普通である、という精神状態です。結構です。個性が出てきた。しかしそれは作品に昇華されていなければ意味がありません。哲学者すらも論文をまとめる必要があります。批判者はより美しい回答を提示する責任があります。黙っていた方が良い。そのため多くの芸術家は論客にはなりません。作品で回答します。
普遍を追求した時のもう一つの現象は、過去に残された傑作群の素晴らしさに打ちのめされることです。普遍を追求しなければ巨匠芸術は理解できません。超越した、普通でないもの、という捉え方では理解できません。作っている人は、自分こそが普通である、こうでなければならないと考えて作っています。そのため我々もその視点から入らないとマッチングしません。しかし、正しいこと、というのは簡単でしょうか。正しさの追求というのは、底の見えない井戸を見るようなものです。深い巨匠芸術は何度接しても飽きない、学ぶことが尽きないのはそのためです。巨匠の演奏は100回聴いても飽きない、新たな発見もあります。なぜなのでしょうか。
人はそれぞれ人生が違います。例えば、ユーラシア大陸を数年かけて横断した人がいたとします。我々が見たこともない風景、会ったこともない人々、各地の文化などの体験をその人は持っています。一方、その同じ数年を使って、ある都市に遊学している人もいるかもしれません。一箇所に腰を落ち着けているので移動ばかりするよりも深く理解できます。どちらが良いということではありません。そういうものがその人の個性になっていきます。親がどんな人だったのかによって子供が体験できるものは大きく変わるので、その後の人生に大きな影響を与えます。大人になってからの体験も重要です。そのような膨大な蓄積で制作されているのが巨匠芸術です。それを我々が作品に接しただけで理解しようとするのは不可能です。それが尽きることのない井戸になります。そのようなものをどれだけたくさん周りに置いているかで成長が決まります。
それはどんな人と接するか、また物質であることもあるし、住んでいる土地もあります。努力というよりは、どういうものを周りに置いたかで決定的になるということです。この視点が極めて重要です。これが常識という前提で著されたのが、北大路魯山人「坐辺師友」です。著作権が切れパブリックになっていますのでここに貼り付けて赤文字で示します。それに注釈を加えて進めます。
益友と交わることの有益を説き聞かせた者は孔子である。誰しも生まれながらに、それを感付いていない者はなかろうが、孔子のような人から明瞭に言われてみると、また感を更たにすると言うもの。しかし、それは生存中の人間のことを指していると決められてはいないだろうか。益を受くる者固より生存者、益を与うる者固より現存者なるかのように世の多くは解釈している。しかし、益友を人間のみに限ることは、あまりにも当然すぎて莫迦正直すぎる。周囲の生きている人との関わりも重要ではあるが、それに限定するものではないということを言っています。
私はかつて銀座のデパートに催された明治以後著名作家として知られた一流文人の家庭に於ける居室、書斎の実景を、遺留品の羅列によって見せられたことを記憶するが、それは驚くべく低調な備品からなる生活であって、書籍を除いては文豪の日常居室には美術系統、美的趣味などと言ったものには、一顧に価いするものも備えられていないというみじめさであった。魯山人は展示されている書斎にあるものだけが文豪の持ち物だと勘違いしています。例えば、川端康成が所有していた文物は現在では博物館が所蔵しており国宝もあります。
彼等は坐辺に声無き益友を持たないと言うことである。否声無き悪友に同席を許していたともなる。チト古い形容かも知れないが、森羅万象なんであろうと、美しき内容を持つ限り、受け方一つで益友たらざるものはない。また、過去の人間、即ち我々が先輩である人々が遺してくれた美術芸術の数々、これらを指して益友と言うが妥当か、師と仰ぐが正しいか、これは自己の見識できめてよいとして、いずれにしても故人遺すところの芸術は手も届かぬ高さに麗しく光るものが多く有り、驚嘆に価いする事業を見る。これに感動するところをもって望めば、育ての親ともなり、幾分なりとも自分を高きに導いてくれる神仏でもある。本当に良いものを身近に置くのは、生涯の師となります。そうでなければ、悪友に同席を許すことになるらしい。
自分は聊かこの点を心に掛けて来た者であるが、主として味覚道楽に浮身をやつし益友の限界を狭くした形であり、後悔せんでもないが、それでも益友を人間とのみ限らなかった点は、大なり小なり至楽の生活を益したかも知れない。彼はおそらく後悔はしていない。
本誌(独歩)に毎号掲載せんとする「坐辺の師友」は、美に関する小品ばかりであり、且つ筍生活、あるいは盗難を免がれた密かに残存する貧困極まるものではあるが、私の作品なり、その他種々の動作に、なんらかを示唆してくれた先生である。種たねのない手品がないように、何人にも種本はあるものである。魯山人調による"貧困極まる"美術品は、彼の芸術に示唆を与えたと言っています。このような影響は必要であるということです。
近来、青年作陶人の活況を耳にするが、希くは精々良き師友と交わり、良き刺激を受け、人なき陶界への進展を期して貰いたい。ロクロばかり廻していたとて、名陶は生まれるものではない。技術だけではどうしようもありません。
重ねて言うが、画家、彫刻家、作陶家等、そんな仕事に従わんとする者は、美術的良師と益友を得ることが先ず大切である。が、生存者中より一人二人を選ぶことは種々の障りがあるもので、また益友といってもなかなかあるものではない。よし、また見つかったとしても、一人二人の経験談では極めて得る所が小さい。昔のように印刷物や書画の複製などない時代には、師匠も必要であったかも知れぬが、今日ではもはやその要はない。このような理由から考えても、良師益友を古人から選ぶことは、最も得策である。今時だとYouTubeがあるので先生は要らないという人が多いと思いますが、昭和27年時点で似たようなことを言っています。本があるから先生は要らないと。そんなことを言って今の若い人は体験貧乏になっていますが、いずれにしても巨匠と接するのはハードルが高いので、彼らの作品を置くことで埋め合わせられるということです。
また、ある者は身近に優れた美術品を置くには、金なくてはと言うだろうが、これは金よりも自分が熱心でないから集まって来ないので、昔から物は好む所に集まるとさえ言われている。眼のある所に玉が寄るという諺もあるではないか。自分のことを例にとっては失礼かも知れぬが、私は二十歳頃より縁日その他で小さいものを少しずつ買い集めた。その後、間もなく東京に来てからは、下宿の二階はなにかしらごたごた散らかり、それがまた使うより見るのが好きで集めたものであるから、行李の底にしまうわけにはいかず、下宿のおばさんが掃除に手古摺ったものである。後年『古染付百品集』をこしらえたが、これもひとりでに集まったもので、当時はまだ陶器などに着目する人は稀で、あちこちにごろごろしていたのである。そして、当時の私の経済状態はと言えば、星岡時代のことなのだが、正月元旦に十円か十五円の小遣いしかなかったほどの貧乏だった。それがだんだん集まったというのも、まさしくこの「好き」の一字であったと思う。魯山人は東京に出る前から成功していたので貧乏というのはおかしい。骨董を買い過ぎて金がなくなったものと思われます。星岡とは、現在の首相官邸の隣の土地にあった要人専用の料亭のことで、魯山人は料理長でした。貧乏なわけがない。魯山人は嘘も多いです。
今後作家たらんとする後進は、努めて身辺を古作の優れた雅品で、満たすべきである。かけらでも、傷物でも、そんなことは頓着することはない。殊に、自然美を身につけるのには、山も川も別に金はかからぬわけだ。山を眺め水を賞し、花を愛すればよいのである。私は以上の如き意味で、坐辺に師友を若干持っている。が、富豪の家に飾るものはかけらすらもない。成金趣味のものは持っていないという意味の魯山人独特の皮肉でしょう。
とにかく子供の時より育った京都でさまざまなものに接していたようで、それが早熟に繋がり、その収入をまた投じるという具合で、さらに富豪の家に居候して学ぶなどしています。富豪を馬鹿にしていますが実際にはかなり世話になっています。こういう難しい人間なので星岡茶寮もダメになったと言われています。星岡での交流もかなり有益だった筈です。朝鮮や中国にも行って長期滞在しているし、当時としては周囲と比較にならないぐらいの体験を持っています。日本人は体験の重要性を理解していますが、それはこのような先人がいたからかもしれません。