自分には深遠な中国曲を演奏する資格がありません - 二胡弦堂

 


 ああそうですか。それは誰かからあなたの演奏は中身がないと言われたからですか。そして彼はあなたの進歩のためにすぐさま iTunesを起動してアービンの演奏を流しては、演奏の素晴らしさをほめちぎったのですか・・。

 もしかするとこのようにしてあなたと会話している人物は実はあなた自身かもしれない、誰かからこのようなことを言われるよりもその方が確実に多いでしょう。物事で成功することは大変難しいことで、プロのバッターが3割も打てば天才と言われますが、同じく人が何かにチャレンジして3割も成功していたらそれは明らかに天才であって、世間で非常に成功した人であっても、3割も成功することはあり得ないとそのように言うことでしょう。100回チャレンジして1回成功したら全体としてその挑戦は大成功と見做される分野もあります。ところがもし、それが0回で、これまでの人生でそれなりの業績を上げたこともない、いつもそこそこの成績だったという状態でこれまで来ていれば、自分が何かに成功するイメージさえ抱けず、ましてや音楽のような結果が見えにくい分野において幾許かの確信に似たものさえも得ることはかなり難しいことです。

 人は年齢を重ねたりいろんな経験を積むことで作品を生み出したり、他者の作品をより深く理解できるようになります(逆の事例もあろうかと思いますが、ここではそれについては考えません)。人は上手に歳を重ねることができる、歳を重ねてもより本質的に美しくなれるという前提にたつと、若いうちには演奏すべきでない作品があるかもしれないという意見が出てくることがあります。

 ハプスブルグ帝国が滅びた後、1920年からウィーンの宮廷歌劇場は改組され国立歌劇場 Wiener Staatsoperとして活動していました。30年代に入る頃になるとコンチェルトマイスター(楽団首席奏者)4名の内、3名に18~19歳の若い奏者を使うようになりました。低迷してきたので若い演奏家の発掘に乗り出したのでしょうか。とんでもありません! ウィーンは19世紀末より鬼才グスタフ・マーラー Gustav Mahlerを起用して欧州全土に衝撃をもたらし、20世紀以降もブルーノ・ワルター Bruno Walter、フェリックス・ワインガルトナー Felix Weingartner、リヒャルト・シュトラウス Richard Straussといった巨人たちを総監督や楽長に据え、圧倒的な質と権威で眩い程の輝きを誇っていたのです。余裕の圧勝で若い人を使うゆとり教育が可能だったのでしょうか。いやいや、それどころかウィーンの30年代は今でも"黄金時代"とみなされ、記録されている眩いサウンドは天国の響きとさえ言われているのです。間違っても「ゆとり時代」ではなかったのは確実です。演奏する作品には難解なものも多いわけですから、ただテクニックがあるだけの若い人に首席を委ねるのは質を損なうことにならないでしょうか。ところが結果は逆なのです。どうしてでしょうか。2つの要因が挙げられます。1つは誰が若い人を首席に任命したかということと関係があります。監督や楽長の采配も決定に影響がありますが何といっても楽団員の後押しがないと誰かが首席に就くのは困難です。経験のあるベテラン団員たちが席を譲ったのでなければ若い人が担当するのは難しいことです。しかも3席も若い人に当てています。これだけでこの楽団がどんな職場だったのかわかるような気がします。当時の映像を見ると確かに子供が一番前に座っている様子がわかります。大人たちに見守られながら成長を期待されていた様子が伺えます。18,19歳だと未成年ですが子供ではありません。それでもバックの風格と威圧感が半端ないので青年だと子供に見えるのです。達人ばかりの楽団だったからこういうことが可能だったのでしょう。そしてこの楽団は以降、30年代の輝かしい水準に戻ることはありませんでした。ナチスによるユダヤ人迫害で多くの団員が追われたからでした。2つ目の要素は、彼らの指揮台には名だたる巨匠たちが招かれていたということです。楽団は彼らの指導を受けますので、首席奏者は常に欧州最高の音楽家を手が届くような範囲に置いて仕事をすることになります。首席奏者は若くて人生経験がありませんが、老人たちは彼らに多くのことを教えることができました。老人らはより質の高い仕事を求めるために首席の交代を求めることはなかったのでしょうか。それでは最初の一文をもう一回確認して下さい。一流の演奏家でこういうことを言う人はいません。彼らは若い奏者からも最良の演奏を引き出すことができました。より哲学的な内容の作品でも大丈夫だったのでしょうか。そうです。「知っている」ということはまさにこういうことなのです。「あなたにはまだ早い」「あなたには無理」といったようなことが言われることはありませんでした。彼ら若い奏者たちはこの頃に多くを学んだに違いありません。彼らは後に偉大なバイオリニストに成長しました。

 もし今の皆さんがやる前から「無理」「若過ぎる」などと言われるのであれば、それはあなたの周囲のレベルがその程度ということを示しているのであって、あなたの水準は関係ありません。しかしあなた自身が自分自身にこのようなことを言うのであれば、あなた自身に問題があります。音大のマスタークラスはどういう人が受講しますか。20歳前後の若い人です。誰から受講しますか。その時の有名な演奏家が教授になったり特別講師になったりします。若い学生には身の丈に合った作品をあてがうため、年齢を重ねないと理解できないと思われる作品は避けますか。そんな話は聞いたことがないですね。そもそもそういう概念自体がありません。低い環境に身を置いていれば「無理」と言われるリスクが高まります。それはしょうがないです。教えられる優秀な教師が簡単に獲得できるなら世の音大は高額のギャラで有名人を招きませんから。老師から「あなたには無理」と言われたら当面どうしようもないですね。弦堂店主は二胡を始めた時にはすでに北京に住んでいましたので、そもそもこういう問題があるということ自体全く知らず、大陸では自分で「ちょっとこれは難しいかな」ということはあるにしても老師も含めて他人から「あなたは無理」と何かを手がける前に事前に宣告されることはないです。すべての老師が有名とか優秀ということはないですが、それでも本稿の問題自体が発生することはないです。どんな曲でも演奏されています。あなたがもし真面目に本稿を読まねばならなくてここにいるのであれば、あなたはとてもかわいそうな人です。ご自身やご自分の周囲の環境は簡単に変えられないかもしれませんが、一応把握しておけば、変化できるチャンスがあれば掴む機会を逃すことはないと思います。

 改めて最初の質問に戻りますが「自分には深遠な中国曲を演奏する資格がありません」この資格を満たすにはどうしたらいいのでしょうか。"深遠な曲"を演奏するためには"深遠な教授"を賜る必要があるということになるので、学習環境が悪かったらあなたは演奏する資格がないという穴にハマっているという仮定は一理あります。自力で何とかできないとか気力もそこまでないし、という場合はそうなのかもしれません。穴にハマっているからといって、別にそこから抜け出さなくても人生困らないし、それなりに幸福に生きていけるわけだから今のままでいいんじゃないかと思うのだったら、何で自分に資格があるのかどうかという難しいことを一々考えるのかということになってきてどうでもよくなります。穴から出たいから、そういうことを考えるのですから、這い出さないとおかしいでしょうね。努力もしないのにできないことを言うのはただの気難しい文句タレになってしまいます。だけど、上が見えている、ということ自体が才能だと言われます。人間は実際より自分が立派に見える愚かな生き物だから、すごく楽に満足に至ろうとします。だから自分に欠けたもっと上が明確に見えているということはすごく簡単なようで難しいことです。簡単に見えること程、難しいものはありません。元来、他人の欠点は簡単に見えるのに自分のは見えにくいので老師を必要とするわけですから。老師に言われないのに上が見えていたら天才性があるということになるのです。そしてその"上"というのは結局、上ではなくて低いところに行くことにほかならないということが分かる時があります。自分で上に行こうとすると行かないのですから。哲学みたいですね。深遠ですね。深遠な中国曲? それほど思った程は難しくないのかもしれません。歳を取っても駄目な人間は駄目だし、若くても立派な人はいます。では、しっかり頑張って下さい。


 次に老師の立場の方に関してですが、生徒の人たちから「中国曲は嫌いなのであまりやりたくありません」と言われることがあります。これは困ったもので、二胡は中国曲を演奏するのが基本なのですが、それをやりたくないのに二胡をやっているという奇妙な一群と対峙していることになるからです。中国曲をやりたくなかったらバイオリンとか他のものをやればいいのに、なぜか止めずに二胡をやっています。非常に多い事例です。最悪の状況でしょうね。もしこの状況が一時見ただけのものであれば、単に奇妙な問題ということで片付けられるでしょう。しかし頻発するのであれば、それは奇妙なのではなく普遍的なものとなります。生徒は本当に中国曲をやりたくなくてそう言っているのでしょうか? 違うでしょうね。日本人であれば、そこはわかるし、よくわかるだけに黙って聞きますけど、外人はどうでしょうか。仮に説明したところでわかるとも思えないですね。皆さんや、周囲の人で「田舎が好きだ」とはっきり言う人は少なくないかもしれません。とても多いのですが、一方でとても過疎化も進んでいるのです。田舎が大好きな多くの人があまりにも東京に押し寄せるので人口の比重が偏ってきているのです。先日、都内の地下鉄構内で「東京23区 成長する街ランキング」なるフリーペーパーの存在を確認しましたが、首都圏に住んでなおさらに23区進出を目指し、一体どこが今後発展するのか、まだ発展していないところは価格が安いであろうという下心もあるわけですが、発展した都市に対する愛までも感じさせるこうした記事まで堂々と出されるぐらい、本当は人々は都会が好きなのです。田舎暮らしの理想について語れば、東京は砂漠だと言い、行動は真逆だという、こういう屈折した人間性というものが日本人なのです。思ってもいないことを大きな理想として掲げて大いに語れるという、そういったことを一滴の酒も飲まずに行えるのが日本人という類稀な人種なのです。「東京が大好きです。憧れです」と発言して故郷を後にした人を見られたことはございますか。そんな人がいたら驚きますでしょうね。ほとんどの人がキャリアの後退という雰囲気を醸し出しつつ都会に向かいます。人間関係というものをじっくり考えるに、非常に巧みで賢い方法なんでしょうね。

 こういった考え方であれば、実際のところ、中国曲をよく理解していると思われる中国人老師の人気が出ても不思議はありませんが実際には必ずしもそうではありません。中国人老師はお断りとしている運営会社もあります。しかもその中には中国人の運営というところもあります。日本人老師はまた欠けたところもあるのでしょうけれども、まだましだと見做されています。しかし一律に中国人がダメとなっているのではなく、成功している老師もいます。これは弦堂の観察と多くの顧客の方から訊いて総合的に把握した点ですが、地方のような割と二胡人口の大きくないところにおいては生徒の動向が一定する、つまり多くの生徒が特定の教室に集中してしまい、他のところでは生徒が少ないという一人勝ちの現象が見られ、それは中国人の場合もあるし日本人老師であることもあります。そこに住んでいない弦堂としては「なんでそうなるの? その先生は何が良いの?」といったような質問を必ずするわけです。「みんな、なんでそこに行くの?」と聞くと口ごもる方が多いのですが「では、あなたはなぜそこへわざわざ行くのですか?」と聞くとその答えはほとんど決まっていて「中国音楽が学べるから」と返ってきます。しかし中国音楽はやっていない教室はないでしょう。どこもある程度はやっています。「そこは中国音楽だけしかしないのですか?」と一応聞くと当然ですが「いいえ」と返されます。どういうことなのか? 生徒の立場の方であれば、こんなことは簡単なことでその理由はすぐにわかるでしょう。弦堂は分析マニアなので、生徒だった時に黙って老師の教えを聞いているだけということはなく、核心に突っ込みを入れたりするわけですが、そうするとある種の老師は「それはやり方がいくつもある」「感覚で決めるものだ」「経験で把握していくものだ」などと言って肝心のことは教えません。だったら習う必要はないのでは?と容赦無く突っ込むのですが、それで即契約解除に至ります。弦堂は何か精神的な面とか哲学的なことを質問した訳ではないのです。技術面だけしか突っ込んでいないのです。奏法を聞いているだけに過ぎない、何も難しいことは聞いていないのに、それを教えないというそういう老師が多いのです。いい加減なのです。それが「中国音楽は嫌いだ」発言に発展しているのではないですか? 生徒からそう言われるので、日本の曲を中心に据えるとか、流行の曲だけに割り切れば、年配の生徒しか残らなくなるでしょうね。

 もう結論は明白だと思うので、この辺でやめますが、元来、習い事というのは簡単に教えないものなので、これで普通といえば確かにそうなのかもしれませんが、あまりにも進歩しないと継続は難しくなるでしょうね。