表現豊かな演奏 - 二胡弦堂


壁に書いてある漢字  音楽は音の集合体です。音には長さや強弱があります。数拍伸ばす音1つ取っても、楽譜に伸ばすように書いてあるからといって、やみくもに伸ばせばいいわけではありません。楽譜には書いていないけれど大切なことはたくさんあります。それは一見しただけではわかりません。それでとりあえず鳴らしてみた風の型にハマり過ぎた演奏というとパソコンの電子音とか、8bit風のそういうものを思い起こしますが(8bitでも良い物はあるでしょう)自分の演奏もそんな風に「表現が死んでいないか?」と思うことがしばしばあります。そういう感じのものをまず最初に見てみたいと思います。

 皆さんは中国音楽の愛好家かプロです。或いはその両方です。そこで北京を舞台にしたイタリア歌劇の傑作「トゥーランドット」から取材します。著作権が切れている古い演奏ですが、まず説明の前にこれをお聞きいただきます(音源は無圧縮なのでダウンロードは時間がかかります。入力が求められたら両方「cyada.org」です)。

Puccini_Turandot - Act 1_ Popolo Di Pekino!

 これを聞いてどう思われますか。耳障りの悪い鋭い音を連発した上、男性の棒読み調の味気ない主張を聞いて、揚げ句の果てに集団の叫びまで聞かされます。酷い音楽でしょうか。これは冒頭のシーンで開幕直後の音楽です。これが一体何を表すシーンなのか以下で確認しましたら、もう一回聴いてみて下さい。

 中国の王女トゥーランドットは絶世の美女で聡明な知性も備えているゆえ求婚者が後を絶ちません。求婚者はトゥーランドットより賢いことを示すため王女が提示する3つ質問に答えなければなりません。そこでペルシャの王子が名乗り出、挑戦しますが失敗して捕らわれます。幕が開くのはここからです。参観謝絶冒頭から偃月刀の残忍な輝きを思わせる金管楽器の鋭いスタッカートが無残に響き渡ります。木管楽器と打楽器のオリエンタルな響きが中国の役人を示し、北京城民にペルシャ王子の死刑を布告します。処刑を待ちわびてざわめく北京城民はローマ国立歌劇場合唱団の皆さんが演じています。

 この説明があった後に演奏を聴いたら、なるほど見事に表現されていると感じられる筈です。注目したいポイントは役人の布告です。これは感情や抑揚があまりあってはいけないので、音楽もそのように作られています。伴奏のサポートもほとんどなく空虚で冷淡、緊張感が高まってくる後半には冥界から響くような音色が付帯し(1'35")最後の宣告を下します。彼の語りは無情で権威的でなければなりません。そのために伸ばす音はなるべく平たく潰されています。力強いが伸ばすだけを意識しています。音程もあまり動かしていません。表現が潰されて死んでいますが、死刑宣告なのでこの表現でぴったりです。背景を知らずに聴くと味気ないように感じられますが、意味がわかると非常に含蓄が隠っているように思えます。役人は感情がないように振る舞っていますが実際はそうではありません。この心理を表現するために作曲者は音程を上下させています。不気味な冥界からのような響きが死刑執行を告げる月の出を予感させて明るく輝き、血に飢えた群衆の叫びを導いています。すべての音に理由があります。無駄な音は全く鳴らしていません。1つでも省くとどこかがおかしくなってしまいます。さすが職人の国イタリアの仕事です。

 1つ1つの音の鳴らし方が理由づけされていて、楽譜に書いてあるとおり正確であれば良いという程度のものではないことがわかります。表現力豊かな演奏、それは音の存在理由を探すというところにあります。

 話が続きまして、亡国の王子カラフが3つの謎に答え勝利しますが、それでも結婚を拒否するトゥーランドットに逆に1つの謎を提示し、もしあなたが答えられれば自分が死んでも良いと提案します。それはカラフの名を尋ねるものだったため、知る者がいないか北京全域で捜索がなされ、カラフの盲目の父で亡国の王・ティムールと国を追われて以降ティムールに付き添い続ける奴隷女リューが捕らわれます。リューは「私だけが彼の名を知っています」というので、人々は拷問にかけて白状させようとします。それでも口を閉ざしているリューに信念の理由を尋ねるトゥーランドットへ回答します。

Puccini_ Turandot - Act 3_ Tu, Che Di Gel Sei Cinta

トゥーランドットCD  リューは、王子への愛のために彼の成功を願いながらそれを見ることがないように死ぬでしょう、と言って悲しみの内に自害します(2'19")。異変に気付いた盲目のティムールは「リュー、さあ行こう。静かなところに行って幸せに暮らそう」と呼びかけますが(3'03")、役人から「彼女は死んだ」と告げられます(3'50")。そしてティムールも深い悲しみの内に死んでいきます(4'12")。この葬送行進曲は作曲者プッチーニの絶筆となり、彼自身に対する"レクイエム"ともなりました。未完の傑作となった全編は弟子によって加筆完成されましたが、ミラノ・スカラ座での初演は作曲者の遺言に従って、未完成のまま幕が下ろされました。リューは「トゥーランドット」原作にはなかった登場人物でした。作曲者が書き加えた"モナ・リザ"でした。

 この最後のアリアには、乙女の胸いっぱいにふくらんだ恋心と内に抱える苦しみ、そして幸せな気持ちが描かれています。だけど希望を叶えるのは死以外にありません。祈りのように何かに訴えます。木管楽器と弦楽器がやさしく寄り添います。そして蝋燭の炎のように揺れ動いては最後に大きく燃えそして消えていきます。リューの発音するすべての音のディテールに注目して下さい。相反する大きな幸せと苦しみがどのように同時に表現されているか確認してみて下さい。ここにも信念を以て力強く引き伸ばされる音があります。同じく潰された伸ばす音ですが、表現しているものが全く違います。共通しているのは、それがただ死を意味しているという、それだけです。(参考録音は1962年ローマ国立歌劇場によるモリナーリ=プラデッリ盤です。写真参照)


 音の持つ意味が表現に込められる、その"意味"が全体の中であるべき位置に保たれるためには、相対的な強弱のバランスが不可欠です。1つの曲の中で最も重要な部分の音量を大きくすればそれで良いという単純なものではありません。一番大事なことが小さな声で話される方が重要さを増す場合もあります。前後の文脈上の素材をどのように提示するかも要点を明確するために大切なことです。つまり1つ1つのフレーズの強弱を管理して全体を構築するすることが求められるということです。そうでないと、ありがちなのは曲のあらゆる部分をしっかり研究したから、一生懸命頑張ったから聴いてくれる人に全部しっかり聴いて貰いたいということで全部を押し付けるようになってしまうことで、これでは結局何が言いたいのかよくわからないということになります。重要なものを相応しく提示するための強弱に対する洞察は、音楽の表現にとって欠かすことのできないものです。フォルテとかピアノとかいったものは、これは参考値であって、実際にはもっと奥が深いものです。これを難しくしている1つの要因は、音楽は高まりとか高揚感を伴うので、小さな音から大きな音へスライドさせていくのは分かりやすいのですが、ある程度長いものになると、いつまでもどこまでも高まっていくわけにはいかないということがあります。上昇気流は海の波のようであるのが理想で、それは上から下に降下することも必要ということを意味しています。落ちる幅とか、次の波の規模などを計算しないと上昇しているつもりが気がついたらなぜか降下中だったりとか、上で詰まるということもあります。無理をすると、聴く聴衆の選択権限を犯すことになりますので、音の主張し過ぎは不快感を与えることになります。この理由で巨匠たちは楽器を鳴らしきったところでも80%の力しか出さないと言われています。自分の持てる器の中で控えた美を表現するためです。もしこのバランスを100人以上の人数で演奏して完美に保てたらそれは見事ですが、たいへん難しいことだということは容易にわかります。真に美しいものは多くはありません。次の録音を一回目は何も考えずに聴いて全体の印象を把握し、二回目は細かく音を分解して聴いてみて下さい。

Wagner_ Parsifal - Act 1_ Wein Und Brot Des Letzten Mahles

パルジファルCD  同じ1962年の録音ですが、場所を変えてドイツのバイロイト祝祭劇場のライブ録音 舞台神聖祝典劇「パルジファル」第一幕の贖罪の儀式の場面です(右の写真はお聴きいただいた録音のCDで、写真はまさにその場面です)。注目点は、ベースラインの行進風の音形が全体を支え続け、様々な楽器や合唱隊が目まぐるしく、或いは大きく入れ替わるというところです。浮き沈みのコントロールをベースライン或いはベースラインの援護を受けた伴奏セクションが管理していることにも注目して下さい。単純な短い音の連なりですが、この浮き沈みが心の内に秘められた感情の動きを表現しています。メロディラインが上昇したら付いていく場面もありますが、逆に沈滞したり遅れて追従したりと様々な動きがあります。この絶妙さで次に入ってくる楽器やコーラスに対して何らかの表現上の示唆を与えています。そしてベースラインも楽器セクション間での受け渡しがあります。まさに至芸というしかありません。しかもこれがライブ録音なのです。これだけ完美なものを作ろうと思ったら、参加しているすべての人が単に持ち場を守るだけでは不十分で、仕事が完璧でなければいけません。まるで緻密な彫刻が至るところに施された巨大な大聖堂のようで、小さな小さな献身的な作業の繰り返しで大きなものを作り上げていることがわかります。バイロイト祝祭楽団は夏のバカンスシーズンにだけ集まる寄せ集め集団で、普段から一緒に仕事をやっていません。だから余計に凄いと思えます。ここに見られるドイツ人は驚く程に一枚岩です。本物の玄人芸です。

 この印象的な場面は「贖罪の儀式」です。キリストはギリシャ語で「救世主」を意味し、全世界の罪を贖う(対価を提出して罪を消し去る)ために地上に来ました。この教理はキリスト教の根幹を成すものですが、時代を経るに従って異教の教えが取り入れられ本来のものとは違ったものになっていったり、聖書を読むことも禁じられるなどの中世の閉鎖的な環境から謎めいたものになっていました。作曲者のリヒャルト・ワーグナーはこの「贖罪」の教理が生涯頭から離れなかったようで、真理を求め続けましたが彼自身の意見によると結局見つからなかったようです(やがて「インドにあるかも?」と言い始めるぐらい悩んでいたようです)。それで彼自身の独自の空想の中で作り上げた世界(当初は認めようとせず、他の書籍で学んだと主張していましたが、他人からおかしい点について追求されると自作と認めたようです)を「パルジファル」で表現するために40年を費やしました。この第一幕の贖罪の儀式の場面を聴くと彼が「贖罪」に対して何を求めていたのかがわかる気がします。彼は自分の魂が汚れているという意識が強かったようです。それを無償で清めてくれるものに対する関心が人一倍強かったようです。彼はパルジファルの弦楽セクションに、心と魂が洗われるような清らかな響きを書き込みました。そしてそれに優しさと憐れみも求めていました。救いをもたらすものに対する絶対的な確信も必要としていました。ベースラインの細かい音形の繰り返しと浮き沈みは、汚れた俗人のつまらない1歩1歩の歩みが少しづつ許されて浄化されていく様を表現しています。祝福された中で聖杯騎士団が捧げる祈りはすでに確信と勝利に満ちて天に昇ります(1'54"~)。命をもたらす水のように清らかに流れる弦楽セクションに絡みつく金管楽器の鋭い聖なる剣から放たれたような閃光は邪悪なあらゆるものを破壊する力強さに満ちています(3'37")。これほどの傑作を作ろうと思ったら、こんなにも悩まないといけないのでしょうか。40年もかかったという・・・。気が遠くなる話です。この音楽は海の波のような浮沈による昇華が求められます。バトンの受け渡しがあるので、全体で同じ意識で作り上げないといけません。そして単に盛り上がれば良いわけではありません。いろんな哲学が込められています。含蓄のこもった表現と精妙な高揚感を体験して下さい。


 表現と表現技法は違うものです。技法は同じでも表現は全く異なることがあります。その音が「何の為にあるのか」その理由を得なければ、その音をどのように表現するのか、回答を見いだすことはできないかもしれません。

 音楽は傑作程、幾通りにも解釈できます。だからといって何でも許されるわけではありません。北大路魯山人の著作で「持ち味を生かす」という短編があります(アマゾンでフリーでダウンロードできるので日本国内在住者であれば誰でも読めます)。この冒頭にこうあります。「生かすことは殺さないことである。生かされているか殺されているかを見分ける力が料理人の力であらねばならぬ。」料理を生かすことは、音楽を活かすことに共通します。音楽を活かすためには素材をどのように扱うか、どのように調味料を加えるかが重要です。勘違いした例として、砂糖をやたら加えた料理が増えている、味の素でごまかしている、そのため現代人の舌はぼけているといった指摘がなされています。せっかく料理を生かそうとしてやったことなのに、実際には殺していないかという問題提起がなされています。同じく「生かされているか殺されているかを見分ける力が音楽家の力であらねばならぬ」のです。砂糖をどれぐらい使うかは、料理人の素養が表れます。ビブラートをどれぐらい使うかも音楽家の素養が表れます。音楽家には京都の料理人のような基本的素養がどうしても欲しいものです。

 魯山人で「道は次第に狭し」というものもあります。その中で「人飲食せざるは莫し、能く味を知るもの鮮きなり」などと孔子が言っている通り、人と生まれて食わぬ者は一人もないが、真に味を解し、心の楽しみとする者は少ない。」とあります。そして世間の料理評論家の批判を一通りこなした後「およそ、ものを食べて味が分ると言うことも、絵を観賞してその美を礼賛することも、根本は同じことである。相手以上に自分に味の自信がなければ、美味く食べさせられないのは事実である。絵画の場合も同じだ。すべて自分が尺度である。自分に五の力があれば、五だけの味は表現できるものである。」と言っています。音楽を聞いてそれを理解できたら、その理解した範囲でしか表現できないし、他者の演奏もその範囲でしか捉えられないということになります。「味を身につけるには、客からのご馳走でなく、板前からの宛てがい扶持でなく、身銭を切って食ってみること。本気でそれを繰り返してこそ、始めて味が身につき、おのずと分って、真から得心がいくのである。」とあります。このことについて続いて「夏場の刺身として、例えばすずきやかれいの洗いがある。私は長いこと、ああいうものについて考えていた。ふつうの料理屋のものは、肉が紙のように薄い。ああ薄く切ってこともなげに洗うから、まるで刺身の命抜きになって、食っても一向に美味くない。これは薄くないと、涼し気にちりちりと行かぬからであるが、あれではエキス抜きで美味くない。」他人の奢りで食っても同じように思うかもしれませんが、大金を出していたら、それは確かに長いこと考えてしまうと思います。それで彼は少し厚めに切って味をもっと引き出す方法で調理していたようです。長い間、この料理法をやってきましたが、別の考えが起ってきて「それはどういうことかというと、近ごろ薄い作りでやってみると、必ずしも悪くない。なるほど薄いのは中身が足らず物足りない。味がないと言えば味がない。けれども酷暑の刺身として、チビリチビリ酒でも飲む者には、いかにもさらっとして涼味がある。極薄な味のないところが、却ってよいのではないか。中から味が出るとか出ないとか言うには及ばない。ただ、さらっとした涼味だけでよいのではないか。そういう考えが起って来ている。」もし他人の奢りだったらすぐにこの結論に達していたと思います。自分の金ではないし、さらっと涼しげであればOKだと。だけどそうではないので、ここまで考えたのです。結論は同じかもしれませんが、味がなくても構わないとする得られた理由が違います。これは音楽をやった時にも違いとして出るでしょうかね。同じように演奏しているのに、コピーしているのに何かが違うという場合はこういうところが違うかもしれませんね。どうして味を捨ててまでして、涼しげにチリチリやるのか? 奥が深いですが、理解しているのとそうでないのでは含蓄が違うでしょうね。優れた音楽家は「無を聴かせる」と言われます。全休止の音が鳴っていないところが違うという。優れた絵画は空白の使い方が違うという。そして自分が理解していなければ、空白を見ても、涼しげでチリチリもわからないという。皆さんもしっかり金を払って勉強してください。