テンポ - 二胡弦堂


 テンポの設定は音楽にとって永遠の課題だと言われます。完全なテンポを確定させることは極めて困難です。完全に見えるものはありますが、それらさえも新しい概念によって歴史的に見直されてきました。

 楽器を学んでいると、その過程で1つの曲をしばらく練習するということがあります。最初はゆっくりでしか演奏できなくても、次第に慣れてきてやがてかなりの速度でも演奏できるようになります。これは純粋に技術的な事柄ですから、作品にとっての正しいテンポとは無関係です。さしあたっての練習に過ぎません。作品にとって相応しいテンポを見出そうとするのは簡単なことではありません。巨匠たちは確立された理論を以てテンポを設定しており、有無を言わせないと感じさせるほどの説得力を感じさせるゆえに巨匠ともされているのですが、そういうものが複数あれば彼らの間で喧嘩もするぐらい、主張が激しいのでそういうことにもなるんだろうと思いますが、それぐらいいろんな観点や考えがあります。テンポだけに限定しても、です。

 もし作品に対して明確な洞察がなければ、練習よりも本番でスピードが速くなったりということがあります。人間は誰しもそれぞれオーラを持っているので、そうであれば一人、或いは少数の演奏者よりも大勢いる聴衆の方がオーラが強いということになります。ライブとは聴衆の力を借りる意味もあるので大いに結構なのですが、生活のテンポがそれぞれ異なる大勢の集まりと対峙したことによって演奏者の時計が狂わされるということがあります。しかし演奏に明確な考えが反映されていれば、そのような影響を受けたりはしません。

 同じ目的を持った人の大群というのはかなりパワーがあります。弦堂所在地の隣の西宮市というところに甲子園球場があります。当地の熱狂的な阪神ファンというのも有名で、関東からは馬鹿にされていたりもしますが、それぐらい特徴があります。これを見にいくと(野球ではなくて阪神ファンを見に行ったので、野球そのものの内容とか結果は全く憶えていないのですが)ファンが一心同体になる様が、わかってはいたのですがまさかあれほどとは思っておらず、感じられる集合パワーが大きく想像を超えていて終始唖然としたものです。一言で言うとこれは宗教、人間というのはこんなにも一致できるものなのかと疑問すら抱くほどでした。強制されていない全体主義という言い方も可能なように感じられます。個々の人にとっては仕事が終わって一杯飲む場所が球場で、だからビールの売り子が回ってきたりもするし、くつろぐ場所でもありますからエンターテイメントには違いないのですが、そういうあたかも軽い感じで来ているような人たちでさえも集まれば、すごい数の人が全体で完全にテンポが合っているという常識ではあり得ないような状況を目の当たりにすることができます。外れた人がいると明らかに違和感があって人々が振り向いたりもするし、敵の攻撃時に暇になったところで該当の人物に「これからも球場に足を運べ」と布教したりもします。おそらくこの雰囲気に魅了されて球場通いしている人が多いのだと思います。これはテレビでは絶対にわかりません。この時は近所の熱狂的なファンのおっちゃんに連れていって貰ったので座った位置も良かったらしく、"教団関係者"に囲まれての観戦となったのも大満足に至った要因だったように思います。外野から眺めるのではよくわからなかったであろうと思います。「コロッセオが滅びればローマが滅ぶ」という有名な言葉がありますが、ローマ式の政治体制を継承している現代の国家では政治的に必要なものです。だから共産圏では熱狂的なファンというのは育ちにくい傾向があります。甲子園に行けばコロッセオの雰囲気を多少なりとも体感できるかもしれない、群集心理というものがどういうものなのか理解することはできます。演奏家はこういうことは知っている必要があるのかもしれません。チケットの購入は投票に似ています。政治は難しいし、不可抗力もあります。全ての人を十分に満足させることは不可能です。「政治とは次善の策を追求する可能性の芸術である」というビスマルクの言葉もありますが、最善策は不可能なことが多いのが政治というものです。不満が溜まりやすいのでコロッセオが必要という、だからコロッセオがなくなったらローマは成り立たないと言われるぐらい影響力があったのです。もちろん、コロッセオ的集団が必ず演奏会の聴衆席に陣取っているという意味ではありませんが、実際にはそういう演奏会もあったりしますから、その意味を把握していることは人々が結局は何を求めているのかに通じるものがあります。

 トルストイによると「芸術とは、一人の人が意識的に何か外に見えるしるしを使って自分の味わった気持ちを他の人に伝えて、他の人がその気持ちに感染して、それを感じるようになるという人間の働き」です。演奏会であれば、演奏者が何かを演奏して、それを受け取る聴衆がいて、そこで同じ感情を共有することです。炭は1本だけであれば消えやすくなりますが、複数あればいつまでも熱を保ちます。本来の表現をより高めるところに演奏会の価値があります。このような相互の伝達において個々の人が同じ力であれば全体で成し遂げた何かになります。しかし演奏会ではそれはおかしいです。演奏者が核となる重要なものを提示する以上のことが必要です。トルストイの続く言葉では「芸術によって、同じ時代の人たちの味わった気持ちも数千年前に他の人たちが通ってきた気持ちも伝わるようになる」。数千年前の芸術は美術館や博物館に来場するあらゆる現代人を古代に誘うものです。世界の有名博物館や人気展覧会で長蛇の列を作って押し寄せる現代人の方がパワーが大きそうですが、古代の傑作はそれをも圧倒します。トルストイの言葉はもう1つ続きます「芸術は、今生きている私たちにあらゆる人の気持ちを味わえるようにする。そこに芸術の務めがある」。共感とも言い換えられますが、もし共感が得られなかった場合、そしてそれらの分子が異なった波長を生み出した場合、目に見えない濁りのようなものを齎します。無料で聴衆を集めた演奏会で名演というものを聞いたことがないのはそのためでしょう。良くも悪くも聴衆はかなりの影響力がありますが、それを超えた演奏者の側が与える影響力を持ちたいものです。テンポも時代を反映する筈です。しかし現代とは異なる感覚でテンポ設定された不滅の演奏は現代でも説得力があります。もし自分自身に明確な結論がなければ聴衆の影響に流されてしまいます。

 テンポが速いのは技術的に困難を増しますが、遅くなると芸術面で多くの要求が生じます。長く伸ばすだけの音をどうしたらいいのか、小澤征爾がカラヤンに質問したこともあるらしい、延びた音の処理、それを聴かせることは容易ではありません。速く演奏しておけばとりあえず体裁はつきます。体裁というと聞こえは悪いですが、作品の要求する表現がそれを求めていると感じられることもあります。ただ単に延ばすだけの音、強弱もない、という音があります。こういう音を出す楽器は紀元前からあります。西洋ではオルガン、東洋では笙です。現代ではコンピューターがこういう音を出します。べったり潰れた、塗り潰したような音を出します。ところが傑作は多いです。これらの特徴は重音ないし和声を出せるということです。単音ではありません。特定の音をしっかり出して守備範囲を守ることで、他の音との関連性でその音自身の務めをしっかり果たします。それゆえに塗り潰したような音でも活かされます。また単純化されることで聴衆が考える要素を減らし、恍惚とした雰囲気を得やすくなります。これを使って、敢えて長過ぎる音を表現することもあります。神聖さを表現するオルガンの教会音楽や宮内庁の古代音楽などです。モンゴルの伝統音楽では低い延ばすだけの音を延々と鳴らし続けた上で何かの作品を演奏したりもします。現代ではトランス音楽があります。固定のテンポでひたすら同じフレーズを繰り返します。二胡は単音の楽器なのでこの種の音とは相性は良くありません。伴奏すらも前提としていないので、そこでどうするかというのが中国音楽の肝であったりします。何らかの処理を加えます。しかし他の楽器と合わせる時に、退屈な筈の単に延ばす潰した音が活かされることもあるかもしれないことは憶えておいた方が良いことです。また単に延ばすだけの音にも力があるということも理解しておく必要があります。そのためにテンポが変わってくることもあり得ます。

 テンポというとまず重要な人物としてドイツの巨匠、ギュンター・ヴァントを差し置くことはできません。長く音楽に携わるということはその音楽に魅了されていないと不可能なことで、そうであればその表現は時間と共に深化していく傾向にありますから、多くの事例では年齢を重ねると共にテンポは遅くなってゆきます。ヴァントはそうならなかった稀な人物で、何十年もの間、彼の設定したテンポは変化することはありませんでした。若い時にすでに「この作品はこのテンポでなければならない」という理論が確立されていて、終生考えが変わることがありませんでした。しかし彼自身によると晩年においてもテンポの探求は続けていたということですから、彼にとっては変化していたようです。それはおそらく細かいディテールにおいてのことでしょう。この方法論、つまり先にテンポを確定させるというやり方は極めて稀で、演奏家が身体的な障害や病気などの影響でテンポが変わってしまったりする、病気なんかなくとも自分自身の都合で如何様にも好きなように変える、或いは変わってしまうという方が普通です。作品に対して明確な考えがあってそれを具現化させるためにテンポを決めるのであって、まずテンポを固めてからというのは逆のやり方です。年をとると理解も進んで盛り込みたい内容が多くなるのでテンポは遅くなりがちという側面もあります。また心臓の鼓動の速さとの関連を指摘する向きもあります。しかしヴァントによると作品には相応しいテンポがあるのだと、それは侵すべからざる領域である、神聖なものであって、自分の都合ではなく作品の要求するところを重んじるべきだということです。しかしそんなことをすると表現が硬くなります。下手するとがんじがらめの進行になってしまいます。何が何でも決まったテンポは守らねばならないということですから。この辺りは如何にもゲルマンという感じがしますが、だから大成するのも寿命がだいぶん近づいてきた年齢になってしまうのです。もちろんヴァントの若い時の演奏が物足りないという意味では決してありません。ただ周囲の見方として、若い人がやると許さないが老人だったら認められるということはあるので、そういうことだったのかもしれません。テンポについても若い人がヴァントのようなことを言うと「理屈が多い」となっても老人であれば「含蓄のある」に変わってしまったりということがあるということです。1つの意思を貫くということは難しいことだし、パトロンや有力者が相当支えている例が多い「これは大成する」という見込みのあるものは支えるという文化があるところは巨匠が出やすい傾向があります。つまり大衆のジャッジだけではダメで、かつての貴族的文化と融合、むしろ貴族支援だけでも成功するぐらい重要な要素です。しかし大衆という幅広い人々、関心のある人が多くいないと人材も得られません。ドイツの場合パトロンとして有名なのはヴェルナー・フォン・シーメンスで、今でも彼の名を冠した音楽賞があります。フリッチャイの妻シルビアがどうしても住みたい宮殿のような屋敷があって、それがとてつもなく高価だったので、とりあえず電話1本で要件も言わずにシーメンスを呼び出し「この物件を買って欲しいんだけど」と言ったら「何もご心配には及びません」と言ってすぐ手配してくれたという逸話もあります。夫は財に全く興味がなかったらしいのでシーメンスは芸術家の配偶者にも気にかけていたことになります。シーメンスは電気記号の単位にもなるほど音響学の分野では偉大な巨人であるし、すでに生前から国際的大企業の創業者で総帥だったので、それを電話で呼び出して、は信じられないですが、かなり良い人だったのでしょう。日本も文化の厚みがすごいですが、やはりパトロンは決して少なくはない国です。

 聴衆もこれまでの人生経験で各人が特有のテンポ感覚を持っています。他人の演奏を聴くということは多少なりとも違和感を感じるものです。それで微妙なイライラや不快感を感じることはあります。それでなのかわかりませんが、演奏者が作品の流れに沿ってテンポを少しでも上げようものなら、聴衆がなぜか手拍子するような奇妙な演奏会もあります。もちろん演奏者の方から求められるのであれば話は別ですが、そうでもないのに勝手に手拍子する無礼で質の低い聴衆に直面するということはあるでしょう。演奏を聴きに来ている筈が適当にしか聞きたくないという意思表示になるし、手拍子によって応援しているという、なんとも見下げた傲慢な考えですが、こういう状況に直面することはありえるでしょう。これは極端な例ではありますが、多かれ少なかれこれに近い概念は誰しもが持っていて、大体の聴衆は「聞いてやっている」と思っています。そして自分の中に従来より持っているテンポ感覚を修正せずにそのまま聴きます。しかし修正できるインテリジェンスのある聴衆も確かにいて、そういう聴衆が多くなると傑出したライブ録音が生まれたりします。ということはファンが多くなれば、理解者が多くなれば有利ということになります。テンポは明確に確定してしまった方が人々を戸惑わせにくいということにもなります。テンポ設定を変えるというのは、パソコンのOSがバージョンアップするたびに文句を言う人が少なからずいますが、ああいった類の不満感を与えるものなのでしょう。新しいものに自分の波長を合わせるということに疲れを感じる人は少なくありません。かといって、こういうことを考えすぎて、また現代にマッチングしたテンポ設定に拘るあまり、商業的な印象が拭えないものができてしまうこともあります。

 それではテンポ設定とはどのように決めるべきものなのでしょうか。これまでになかったような作品、完全に新しい作品というものがあったとすれば、それは作曲者にしかわからないし、彼の感覚で作ったものは彼の感覚でのテンポ設定が正しいであろうということになります。実際にそういうことはあって、確かに傑出した作品は受容度も高く、第三者があれこれと決めたものも非常に説得力があって大いに結構であったりもしますが、最終的には一番説得力があるのは作曲者、或いは初演者の決めたものであることがほとんどです。それを乗り越えるのは容易ではありません。何派といったものを作る、或いは継承していこうという動きは、オリジナルの正統性を保とうという保護主義的な傾向でもあります。こういったものによって、本来の姿が保存されていくので、アカデミックな傾向も多分に含んだこういうものが残されていくのは重要でしょう。ただ、前提になっているのは作品群ありきで、宮城道雄のようなものは理想的なモデルでしょう。

 オリジナルは確かに尊重する価値はあるものの、それ以外の後発が劣るということは必ずしも言えません。オリジナルを超えてスタンダードにさえなったものも決して少なくありません。どうしてそういうことが可能なのでしょうか。作曲作品は如何にオリジナリティ溢れたものであったとしても、それは何らかの背景、歴史、伝統、自然界の影響を受けています。そういう蓄積の中から発生しています。作曲者は自然に、または努力して体得したものではあるけれど、そこを他者が辿っていくこともまた可能であったりします。もっと広範囲に背景を探ることも可能であるし、作品が大きく時代を先取りしたものであるなら、その先の時代を見た人の方が大きなアドバンテージとは言えなくても多少は有利な面もあります。人類の歴史上大きな変化として、産業革命というものがあり、それは蒸気機関によって象徴されると学校で学びます。以降、馬が自動車に変わっていきました。内燃機関はこれまでに聞いたことがなかったかもしれない独特のエンジン音を持っており、現代においても尚、これに魅了されてスーパーカーに乗っている殿方も都会には多数おられます。マフラーを違法に細工して音を出すなどの行為もあります。このようなサウンドは音楽にも影響があった筈です。19世紀末から20世紀初頭の音楽やテンポの概念は、SLなどの蒸気機関車の運転しているところを見たことがなければ理解できない部分はあるのでしょうか。おそらくそういう例もあるでしょう。ある特定の田舎から出てきた音楽であれば、そこに行ってみないとどうしてこういう構造の音楽が出るのか、何でそういうテンポなのかはわからなかったりします。テレビのドキュメンタリーではわからず、実際にそこに行かないと体感できない生活のテンポがあります。言葉も重要です。そういった膨大な周辺情報から、正しいテンポというものが導き出されます。教養の重要性は強調してもし過ぎることはないでしょう。多くのことを知っていても、それを扱う技術がないのであれば、何も持っていないのと変わらないからです。

 西洋の楽譜の場合、速度標語とかメトロノーム記号が記載されているものが多くあります。あのようなものは一見するだけで目安に過ぎないのはわかると思うのですが、しかし過去の楽聖たちが自ら数値を記したものであれば、神の啓示が如くに感じられ、今でも完璧に守らねばならないと考える人もいます。夢を見たらいい、しかしそこを冷徹に許さないのが研究者と呼ばれる人たちで、この問題を学術的方面から徹底追及、その結果、やはり目安だったという結論になっています。数値は明らかに適当であることが証明されたとされています。それにも関わらず抵抗を続ける猛者もまだ存在します。暇なのか?こういう西洋人好事家も少なくはないのです。数値は絶対か?追求しなくてもすぐにわかって欲しかった、だけどこういうのは錬金術と一緒で、バカバカしい研究から最後は偉大な発明に至ることもあったりするので、嘲笑うのは好ましくありません。作曲家がアバウトな数値を記載しているというのであれば、我々は一体何に拠り所を求めれば良いのでしょうか。確かに数値はアバウトかもしれない、しかしヒントにはなり得ます。明らかに正しいと思われる速度と比較して数値が大幅にずれていてあり得ないという例もあるとのことですが、気持ちが数字に出ていたりはするでしょうね。何らかの示唆があるのは間違いない、それだけでなく筆致からも意図を読み取ろうとして、原譜を直に見せてもらうために各国図書館に参照を申請する演奏家もいます。原譜全体を詳細に調査します。皆さんもご自身が確実に偉大な存在になるとの確信がお有りであれば最初の初稿は保存しておかねばなりません。そして適当なメトロノーム数値をお書き込み下さい。このことは如何に正しいテンポを見出すのが難しいかを示しています。難しいのでわかりやすい数値にすがってしまう人さえいるということなのです。作曲者ですら、聞かれても適当な数値をポンと出してお茶を濁す程度になりがちなのです。だから音楽を聴いてそのテンポが洞察に満ちたものであろうと感じることは滅多にありません。巨匠の演奏であっても必ずしもそう感じるものではありません。もしあるテンポが十分に考え抜かれたものであることがわかるのであれば、しかも違和感を感じさせないようであれば、それはかなりすごい演奏です。