本来、作曲能力と演奏能力は別だと言われていて、こういうところで「天はニ物を与えず」などといった言葉が使われることもあるぐらいですが、それぐらい両方の才能を持ち合わせることは容易ではありません。脳の使い方が違うのではないかなどとも言われています。そうであれば、おそらく聴く側の人にも同じことは言えるのかもしれません。つまり、作曲作品と演奏を別々に評価できるかということです。自分も何かを演奏しているとか、当事者の立場になってくるとその辺はどうしてもそうなりますが、それでもそういう聴き方をするのは自分の守備範囲ぐらいで、街に出たら流れている音楽に対してまでそういう見方はしないものです。しかし一定以上の素養のある音楽家であれば、音楽の持つ主要素の分解は普通のことです。複数の楽器が使われている演奏であれば、それも全部一旦バラバラに聴いて、それをまた頭の中で結合させます。かなり面倒なことですが、音楽に割と本格的に携わっているとこれが普通になってくるので、テレビの広告を見ていてもそんな風になってきます。この場合は映像とも切り離して考えていることになります。一般の人にとってはこの「切り離し」がかなり難しい、そうすると映像の力というのが強い影響を持つようになってくるので、最近の音楽にはPVという映像も制作されるのだと思います。コストや手間が非常にかかりますがそれでも売れますので作ります。逆にいうとそれぐらい切り離して各部を適切に評価することは難しいということです。ここを読んでおられる方はほとんどの方が二胡をされると思うので、この「切り離し」は学習と訓練の必要な一分野だと認識する必要があります。
例えば何か自分が拉いたことのある曲を聴く時には我々は自分が演奏する立場でも聴きますので、その時には作曲作品と演奏芸術が別のものとして無意識に分けられています。その時にバックに何らかの伴奏があったら、そこまで真面目に聴いているとしんどいのでそこはカットします。しかしその伴奏が優れていたらそこもやはり傾聴してしまいます。それがもし揚琴一台であればそれだけでも伴奏用楽曲とその演奏という2つのパーツが増えることになります。そうして伴奏の人数が増える毎に聴くものも増えていきます。こういう聴き方は粗探し的な面もあり、様々な問題点がよく見えてくるようになります。それで音楽を楽しめなくなってくるという弊害もあって、徐々に本物を追求していくことになります。なぜなら本物は問題点が少なく、細かいところまで得られるものも多いからです。そうしてしばらくしていろいろ知るようになってくると今度は二流、三流のもの、そういうものが宿している独特の魅力に魅かれるようになっていきます。世間で三流と言われているもののファンになったりします。ここまで来るともう相当な文化人ですが、ある程度真面目に取り組んでいたらこの流れは避けられません。しかしこの思考法は何かの楽器をやっているとか音楽教室に通っていたといったようなことでは身に付けられるものではありません。それで優秀な演奏家が楽団で雇用された時に特によく言われる注意は「とにかく他人の演奏を聴くように」というものです。楽団ですから一緒に演奏する同僚は多いです。それをしっかり聴くということがすごく重要になってくるということです。自分の持ち場を守り責任を果たすことは重要なので、これは誰もが行いますが、それだけになってしまって周囲とは噛み合っていない、対話していないということが、プロでもあることで結構難しいのです。互いに対する配慮とか敬意であるとか、そういうものが全くないようであればそうなるし、音楽以前に人間としてどうかということになります。アンサンブルにおいては濃密な"大人の対話"が存在するべきです。優れた合奏には必ずこれがあります。これは技術は確かに一定に要りますが、素人が集まっても濃厚なものはあるわけで、演奏とは別に身に付けておかないといけないものです。そのためには普段から音楽を分解して評価する癖をつけておくのは大切です。
そこで「楽曲と演奏」という2つに立ち返った時に、我々は演奏という一方を持ち、他方は紙に書かれた譜で記録された何かがあって対峙するということになりますけれど、それはとにかくよく見ないといけないということになります。意味や前後の関係に留意する必要があります。合奏の場合、その認識が統一されていないとチグハグになります。10人で演奏していて、肝心なところで無駄に強音を鳴らす人が一人いたらその時全体の生命感は失われます。合意する前には何でも同意しておいて実際に手がける段階になったらぜんぜん違うことを意図的にやる人も結構います。こういう問題はプロでもありますのでアマレベルだとかなり多いです。だからブラスバンドの先生は独裁的な人が多かったりします。アマの楽団で長く続いているところはかなり厳しい指導がなされている場合が多いです。自由な合奏は人格のしっかりした人か職人か天才が集まっていないと成立しない類いのものです。エキストラでどこに行っても卒なく仕事をするというのはなかなかのスキルです。
そうすると、こういう場合はどうでしょうか。合奏をするということになった時にメンバーの中で自分が一番駄目そうだ、周りは自分より上手な人ばかり、プロばかりという例ではどうでしょうか。それでも請けた以上は責任を持って黙って全力を尽くすことにします。それにしてもこういう例というのは実際にあるのでしょうか。おそらく最も有名な例で、現在でも物議を醸しているのは1951年フルトヴェングラーによるベートーベン交響曲第九番バイロイト・ライブ盤(この盤は有名ですので再販が非常に多く、ジャケットのデザインはバリエーションがたくさんあります。掲載しているのはそのうちの1つです)の特に第三楽章です(IDとパスワードはどちらも「cyada.org」です。その他の楽章は第一楽章、第二楽章、第四楽章)。ここで問題視されているのはホルンです。拍も音程もそのパートだけ狂っています。酔っ払いみたいにグダグダです。他のパートはしっかりしているのです。ホルンだけヘロヘロです。恐らく人材の確保がままならず素人が入っています。だけどそれなのにこの全曲演奏は歴史上数多ある同曲演奏で史上最高のものだと言われています。実際のところこの演奏には細部を追求し出すとホルンだけでなく他にもまだまだ問題点があります。部分的にはもっと良い演奏が他にあるし、全体を見てもこれより上手なものは幾らでもあります。それなのにこれが史上最高、もっとも感動的だと言われています。どうしてだと思われますか。確かに有り余る才能や驚愕するほどの卓越した技術があれば何でもできます。まるで全能になったような錯覚に陥る人さえいます。だけどそれだけだと"曲芸"としてしか残らない、"芸術"としては聞き継がれないということなのです。結局、どれだけ凄くても人間に過ぎず、神にはなりえません。またその第三楽章に戻りますが、その時の演奏会で皆はどういう背景があってこれらのホルン奏者たちに来てもらったのかは知っていたと思うのです。もう第三楽章に達した時にはホルン奏者たちは唇が疲れたのか音程が不自然に上ずるようになります。9'11"あたりからホルンが重要な役割を果たしますが、もうヘロヘロなので周りの奏者たちは演奏しにくそうです。とても心配そうに慎重にサポートしています。弦は丁寧にピチカートして合わせます。木管はやさしく寄り添うようにホルンにからみます。速度も遅くなり、ホルンの音量が少な過ぎるので周囲が気を遣って合わせています。その様子はまるで秘跡のような神々しさすらあります。難所を一歩一歩渡っていくような緊張感に独特の輝きがあります。幻想的なコラールのようです。ただ上手なだけであればこんな奥深さは出ません。結局、音楽を聴いている人というのは誰かの何か凄いもの、そういうものは求めていません。凄いのは一杯あるので、もうお腹も一杯です。でも別の意味で立派な演奏というのはたくさんあっても構わないし聞き継がれます。もし他の奏者の音を大切にできなければ、聴衆はあなたの出した音を心の中に大事にしまって帰ることはありません。作曲者が譜面に記したその一音を大切にできなければ、聴衆はあなたの演奏に留意することはありません。人の置かれている状況はそれぞれですが、常に問われているものは同じです。件の演奏はそのあとまだ30分も続きます。ホルンの皆さんも頑張って付いていっています。浮き沈みはあります。だけど、すべての奏者が互いのために奉仕していること、このことは最後まで乱れることなく、何があっても変わることがありません。結局のところ、普通の良いお父さんお母さん、或いはお姉さんお兄さんだったらいいのです。難しい話ではありません。しかし評価や結果がすべてのプロの世界で常に普通の人でいるのは難しいことです。自分のことだけはしっかり考えていないと、いつ消えるか分からない。急に評価を受けるようになったり、その逆もあります。普通の人ではいられません。だからこの1951年バイロイトライブは特異だし、もうこんな演奏は出ないだろうと言われているのです。"神々"が一堂に会して演奏することはもうないのかもしれません。もう半世紀以上経過しますが、いまだに世界はこれを聴いて感動しているのです。
少々話が逸れますが構わずホルンについて続けます。ここで使われているのは恐らくウィンナ・ホルンというオーストリアの古楽器で、ウィーンの歌劇場や管弦楽で使われていたものです。現代ではもっと柔軟にヤマハなども使っていきますが、以前はこういった古楽器のみの使用で固有のサウンドを守っていました。そういう事情でウィーン音大のホルン科ではこれが使われていたので、そこから学生を呼んだ可能性があります。ウィンナ・ホルンは独特の構造を持ち、非常に演奏が難しく音程を合わせるだけでもたいへんです。音量もありません。それゆえ、強音を吹かしても歌手の声を潰さないためオペラに向いているとされています。どうしても強い表現が欲しい時に歌手とのバランスを考慮して遠慮すると表現が変わってしまいます。そういう場面でも強く吹けるのは有利だと考えられています。弱音でもうまく絡みます。そこでここでウィンナホルンが割と出てくる例について聴いてみたいと思います。尚、ここでの主要目的はアンサンブルの音の混ぜ方の極めて理想に近いものの1つであるウィーンの演奏芸術から何らかのヒントを得るためですが、それ以外にも二胡の弦でオーストリア産のトマステック・インフィールドというものがあってこれはウィーン弦楽の美学を反映したものですが、これが何でこういうものなのか、これを聴いたらなるほどと思うようなものを聴いて理解しようという目的もあります。ウィンナホルンの奥ゆかしさとウィーン弦楽の溶け合う美を堪能して下さい。3種の音源はいずれも作品はR.シュトラウス 楽劇「薔薇の騎士」で演奏はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団です。圧縮は16kbpsです。
・1933年 ロベルト・へーガー盤(抜粋)蓄音機時代 スタジオ録音(H)
第一幕1 第一幕2 第一幕3 第一幕4 第一幕5
第一幕6 第一幕7 第一幕8 第一幕9 第一幕10
第二幕1 第二幕2 第二幕3 第二幕4 第二幕5
第三幕1 第三幕2 第三幕3 第三幕4 第三幕5 第三幕6
第三幕7 第三幕8 第三幕9 第三幕10 第三幕11
・1954年 エーリッヒ・クライバー盤 スタジオ録音(E)
第一幕1 第一幕2 第一幕3 第一幕4 第一幕5
第一幕6 第一幕7 第一幕8 第一幕9 第一幕10
第一幕11 第一幕12 第一幕13 第一幕14 第一幕15
第二幕1 第二幕2 第二幕3 第二幕4 第二幕5
第二幕6 第二幕7 第二幕8 第二幕9 第二幕10
第二幕11 第二幕12 第二幕13 第二幕14
第三幕1 第三幕2 第三幕3 第三幕4 第三幕5
第三幕6 第三幕7 第三幕8 第三幕9 第三幕10
第三幕11 第三幕12 第三幕13 第三幕14
・1955年 ハンス・クナッパーツブッシュ盤 戦後歌劇場再建こけら落とし公演の1つ。ライブ(K)
第一幕1 第一幕2 第一幕3 第一幕4 第一幕5
第一幕6 第一幕7 第一幕8 第一幕9 第一幕10
第二幕1 第二幕2 第二幕3 第二幕4 第二幕5 第二幕6 第二幕7
第三幕1 第三幕2 第三幕3 第三幕4 第三幕5
第三幕6 第三幕7 第三幕8 第三幕9 第三幕10
Kはライブなので雑音が含まれます。EとKのキャストはほぼ同じで全体は3時間半ぐらいあります。抜粋のHは1時間40分ぐらいです。トラックの区切り方はいずれも違います。歌の入っていないところでは、第一幕前奏曲(いずれも第1幕1。以降は1.1.と表記します)では、冒頭はホルンから入ります。これが重奏で最大限鳴らした時の音量です。さらに、H1.1.0'48" E1.1.0'50" K1.1.0'56" でホルンからトランペットに繋ぐところがあります。H1.1.1'58" E1.1.2'11" K1.1.2'11" このあたりから、その少し前からも聴こえるのはありますが、ホルンのパートがあります。金管楽器特有の威圧感はないですが、とても柔らかい音です。H2.5.4'00" E2.14.3'36" K2.7.8'43" 第二幕の最後あたりですが、歌唱とホルンが平行していくところがあります。ここは男声ですが女声はたとえば、H3.11.0'19" E3.14.4'27" K3.10.3'40" ここに1つあります。もしこれ以上ホルンが出てくるようであればもう少し声量を出していかないといけません。そうすると叙情性はある程度犠牲になります。大は小を兼ねると言いますから、大きな音が出る楽器の方が良さそうですし、その上で小さい音が求められるのだったら小さく鳴らせば良かろうと考えがちですが、それがそうでもない、音量が控えられた楽器にしか出せない味というものがあることがわかります。楽団ですから他の楽器との調和もありますので、全体で考えてそれぞれのパートを調整してバランスを考えています。低音弦も弱いのですが、全体的に高域に重心を置いた輝いた音作りになっています。硬めになってきますが、それに対して柔らかいホルンを合わせるとよく調和するのだろうと思います。トマステック弦というのはこの弦楽器の音の表現です。二胡でこういう音が出てしまいます。西洋音楽を演奏する状況でこの弦を使う場合にアンサンブルを組むのであれば、合わせる楽器はかなり慎重になってきます。