中国で学ぶ - 二胡弦堂


中国の店頭の置物  よく、日本で学んだ人と中国帰りの人は演奏の雰囲気が違うという人がいます。日本にも中国の老師が多数来日していますので明確な差が出るとすれば不思議な話ですが、実際そういうことはあるようです。最近はどうなのでしょうか。中国も経済発展して昔の雰囲気は無くなってきています。ビルばかりになっていますし、ご老人も亡くなっていっているのでなかなか文化に接するというのは難しいと思います。できれば国外に出ずに考えたいところです。

 とはいえ中国に行けるならそれはとても素晴らしいことです。すでに現地の事情に詳しい知り合いがいるなら、その人にいい先生を紹介してもらうことができますし、日本の中国人の先生に紹介してもらう人もいます。もし何もコネがなければ、音楽院に留学してみることもできます。支払いさえきちんとすれば入るのは難しくありません。入学試験もありません(一応、水準を調べるようなことはあります)。現地日本語フリーペーパーは多数あり、日本人がうろうろしそうなところに置いてあります。これで探した現地の日本人サークルに行き聞いてみることもできるかもしれません。サークルは北京、上海なら多数あります。ただ1つ言えることがあるとすれば、日本の方が優秀な先生は多いと思います。

 音楽と言語は密接な関連があるので、そういう意味では現地に行ってみるのはそれなりに価値はある筈です。二胡の練習中最近では日本にいても中華街のようになってしまっているところもありますのでわざわざ大陸に行く必要も無くなって来ているかもしれませんが、現地に行くのは無駄ではないように思います。言語は少しはかじった方が良いかもしれません。

 考え方、姿勢についてはどうでしょうか。「真理を求める」というと多くは宗教になります。「世の中を変える」というと政治の話になります。例えば仏教に真理があるかもしれないと考えるとします。その時にどうするかということで、幾つかやり方は考えられるのですが、その選択は自分の精神性から出ます。特に男性で多いのは、いろんな宗派のお坊さんに話を聞きに行くというものです。そういう人にうっかり会うと「自分は詳しい」という自慢から入ります。教えてもらうと、宗派の違いについて説明します。ですが違いがわかったところでどうしようもありません。真理を求めるのではなく学者になってしまっています。もし真理を見出したのであれば最初から「詳しい」と言ったような前置きはない筈です。そういう問題ではないからです。学者も必要と思うのでそれも結構とは思うのですが、ここで考えているのとは違う分野の人でしょう。どの政党を支持するかというところで、単に違いを明らかにしたところで何もありません。それと同じです。その次がないと建設的ではありません。学者であってもです。単に既知の事柄を整理しただけになります。笛子の練習知識を得るだけだったら簡単だし、行動は求められないし、自分自身は何も変える必要はありません。こういうメンタリティになっていないかは考えてみる価値があります。

 これは姿勢として「真理は追求していない」のです。人間とはこういう風になりがちなのです。その方が自然なのです。誰もがあらゆることを本格的にやるわけではありません。例えばスーパーに行って野菜を買うということに関しては、今では無農薬とか、産地直送といったものがありますが、かつてここまで拘っていたのは一部の人に限られていました。本当に自然環境だけの産物を手にいれるのはハードルが高かったのですが、健康面で必要に迫られている人もおり、その中で非常に詳しい人がいたりもしました。やがてネット社会になり、以前より容易になってきました。特にアトピー関係の人たちで活発になり、より社会で認知されるようになって、今では健康食品が割と簡単にスーパーでも買えるようになっています。こういう時代の流れの中でほとんどの人は特別なことを何もしていません。常に普通の消費者に過ぎない立場です。別の分野だったら姿勢に幾許かの変化が生じたりはしますが、全てのことに情熱を持つわけではありません。誰しも同じだと思います。何かに対して中途半端であっても別にそれが問題というわけではないし、そういうことは普通にあり得ることです。情熱を持つということはあまり簡単なことではないので、どの分野でもどうしても人材レベルの構成がピラミッド型になりますが、それぞれ個人が自分の好きな高さでやればいいのであって、難しいことは上の方の人たちに任せておけばいいのではないかと思います。分野によってトップレベルもいろいろなので、あまり育っていないところもあります。そういうところに移ってテコ入れし社会に貢献する人もいます。大正時代のシャンデリアしかしここで考えているのは、中国の様式を如何に学ぶかという事なので、そういう意味で真理を追求している立場なのです。そのためある程度の最低限のモチベーションは必要です。そこに達していなければ、言動不一致となります。

 日本は優秀な先生が多いし、環境も徐々に良くなってきているので、自分がわからなければ100%自分の責任となりつつあります。ネットも発達してきています。真実を求める姿勢に問題がないか、そこが問われることになります。中国音楽に関してよくある問題は、知識や感情表現面から入るということです。知識はまあ良いかと。参考に止めるならばです。中国芸術全般は虚無を重視するので、あまりに感情表現を重視するとよくわからなくなります。やらなくて良いか、必要なら途中で少し織り交ぜる程度で十分なことですが、生徒の側からは結構求められるので、やむなく語っているところもあると思います。ですがこれは中国音楽だけでなく、どこの国の伝統芸能もこういうところから入らないと思います。だけど例えば、二泉映月で「ある盲人が故郷の泉を愛し」から始まる物語を大いに語り、大いに表現して素晴らしいと。真面目にやっているところでこんなことはしていない筈です。さらにショッキングなことを言うと、二泉映月は作曲された後に別の人たちが考えたキャッチコピーです。泉は想定して作曲されていません。大いに物語を語ろうとも問題ではないので結構なのですが、いずれにしてもやることはそこではないのでは?とは感じられると思います。なぜなら物語だけでは演奏できないからです。にも関わらず、中国の教則DVDは物語を語り、通し演奏して終わりというものがほとんどで奏法を教えるものはほとんどありません。全てがこうではないのでよく選ぶ必要があります。姿勢の問題はバブル期以前の年配の方が多く、若い人の方が地に足がついて真面目な印象です。こういう問題は世代が変わると無くなりそうです。

 この奇妙な勘違いを生む理由、感情だけでいけると思ってしまう人が多いというところにありそうです。しかしこの姿勢が全く問題ということもありません。東洋の場合、インドのラーガがあって、アラブ音楽、そして中国と共通点があります。ラーガは西洋とは違い、ドレミファと音程の粒を揃え、コンスタントに1つ1つ押さえて上がっていくのは失格。大きく波打ちながら上昇します。法則があるので自己流ではいけません。これを身につけるのは断片的なメロディを使います。ビートルズのシタール教師で有名な巨匠 ラヴィ・シャンカールは、2つのラーガを身につけるまで4年かかったと言っています。それさえできれば、その他全ては勘でわかるらしい。そこで二胡を考えてみてください。指板がないので旋律を揺らす事ができます。ですが、インド音楽ほどの距離とか異国感を感じさせるものではないので、パッと聞いた感じはかなりわかりやすい印象があります。だからそれだけでいってしまおうという感覚になりがちなのかもしれません。ラーガは技術面からではなく、先にどのような旋法かを理解する必要があります。自然や宇宙、精神状態、時間などのイメージから入ります。感情的な物語のようなものから理解します。東洋音楽は本質的にこういう傾向があるのかもしれません。しかしだからといって物語を語ってそれで終わりではないので、技術面については指導を受けます。作品次第と思います。技術面の指導が不要で、譜のまま辿れば良い作品はあるし、技術面だけで良し、物語無しというものもあります。

 皆様はこういうめんどくさい文章を真面目にここまで読んで来られました。こんなことをやっているのは日本人ぐらいではないですか。きちんと考えます。そのため日本人の先生で優秀な人を探すのが一番理想的です。問題点を追求して肝心なことを指摘して貰わないと何のために習っているのかわかりません。そうでなければYouTubeで十分だからです。日本人であれば、ここの表題の中国の様式、雰囲気のようなものがないのではないかと思うかもしれないし、確かにそうかもしれませんが、雰囲気だけで基礎が抜けていたらその方が大変、雰囲気は後からでもどうにかなるので、実利から考えた方が良い、花より団子を優先すべきと思います。