学校の在り方 - 二胡弦堂


中国の店頭の置物  学習の方法には様々な考え方がありますが、ここでは小店があちこちの教室を見学し、また先生方からも話を聞いた内容をまとめてお話しします。理想的なのは文科省のシステムです。

 義務教育はカリキュラムが固定されており、学ばねばならないことが決まっています。つまり、小学一年生の3学期の部分が履修できなかった場合、2年生の1学期に組み込むということはありません(このようなことにならないように予定には余裕を持たせてあります。決まった期間に一定の範囲を学習できるように配慮しています)。必ず1年生のカリキュラムは1年で終わる必要があります。しかし人によって進歩の速度が違います。そのため、固定された時間的枠を設けて進めることは、全ての人にとって十分ではないように見えます。特に子供であれば尚更です。

 それでも義務教育の場合、"お上"の命令で学習、強制なので、脱落者が悪いと考えられがちです。このような競争社会的原則を趣味の教室に持ち込むことはそぐわないとして、経営者のスタイルによっては否定される傾向もあります。二胡の練習中生徒に対し「あなたに寄り添います」「あなたのペースで」といったような方針が掲げられます。しかし運営がしっかりしている世の中のあらゆる学校はどのような内容形態であっても、カリキュラムが固定されていることを確認してみて下さい。まず期間が決まっています。ほとんどは3年と決まっていたら絶対に3年で修学します。そして学習内容が最初から終わりまで決まっています。例えば料理学校を例にすると、1回目は野菜の切り方、2回目は包丁の研ぎ方、3回目は魚をおろすとか、例としてはこのように決まっていたりします。10回で和食の基本が習得、などとこのようになっています。いつまでにどこまでいくかを明確にしています。

 カリキュラムに合わせて強制的に前進するようなところで、物覚えの悪い人はどうしたらいいのでしょうか。それらの学校は、その人のために待つということはありません。休んだ人のために面倒を見ることもありません。別料金で補講が用意されていることはありますが、しっかりした学校では大抵補講はありません。できない、わからないのであれば一度最後まで終わってからもう一回最初からやり直すように指導されます。笛子の練習義務教育は原則はやり直し不可能で、どんどん進んでいきます。しかし個人教授であれば、個人のペースで良いのではないでしょうか。ある程度は可能ですが、それでもやるべきことをしっかり進めていないとモチベーションが下がります。例えばあまりにも質問が多すぎてほとんど進んでいないような生徒が駄目になっていくのは時間の問題です。知識偏重で進歩する人はいません。グループでの授業ではこういうネガティブな人の影響を受けないようにするために明確なカリキュラムの進行は不可欠です。

 システムが明確でない学校は、学校の体を成していないと言っても良いでしょう。生徒は学費を払っています。1回1回の学習で成果がない、先が見えない、将来性に不安を抱くというのは、学校の存在意義そのものへの疑問です。特に若い人が敏感になっているので、こういう学校は特にコロナ以降はどこも経営不振になってきています。カリキュラムが整っているのであれば当然、入学日が決まっています。例えば、1月から3月の学習プランがあって、次回は4月でないと入学できないといったようなシステムです。もちろん、このようなところでも非常に質の低い詐欺のような学校はありますから、それだけでは判断できませんが、ともかくカリキュラムがないというのは学校というよりは、場所を与えているのみ環境だけ、ということになります。教えるにしてもその場限りのブツ切りです。

 脱落者はどうしたらいいのでしょう。脱落したままついていくか、辞めます。ひどい話のようにも思えますが、教育を純粋に考えた時、全ての人にとって良いのはこの方法です。脱落者本人にとっても、です。そのカリキュラムで90%以上の人が進歩できなければ、それは学校の方に問題があります。大正時代のシャンデリア脱落者を多数吐き出している学校も存在します。そのため、学習意欲があって様々なことに取り組んでいる方々は何度も脱落者になった経験があるものです。ほとんど人ができるのに自分はなかなか進歩しない、下の数%の方に入っているということもあります。そのポジションから巨匠になる人もいるし、全く無能ということもあります。それがどちらなのかは本人と一流の先生方がわかります。高いところに到達する人にしか見えない世界があります。それでも、その先どうするかは人から言われてではなく本人が決めるのが良いことです。半分脱落しかかっている状態で続けると、欠点を取りながら前進することになります。カリキュラムが決まっているので全てに遅れた状態で追従していきます。才能があれば途中で爆発しますが、しかしそれは前進していなければ可能性がありません。水と同じで止まっていたら腐りますが、流れていたら鮮度を保つものです。如何に前進しているかが如何に進歩しているかより重要です。学習曲線は進歩しない踊り場が必ずあるので、進歩基準で評価すると、正しい歩みなのに失敗と考えてしまう誤りもあります。強制的に前進するシステムを組んでいる学校は誠実と言えます。止まっている、どこに進んでいるかわからないような環境から覚醒する人は出ません。

 しかしこのようなシステムが合理的で成果を生むのは中級ぐらいまでで、上級は異なります。上級は生徒が自己管理できます。課題が作品単位となり、極めるのに終わりがないという類のものもあるので、明確なフィニッシュを決めておくことはできません。学習者が自主的に自分の問題点を探し、教師にそこをやってほしいと言うことがありますが、中級まではあまり良いことではありません。なぜなら、問題点をピンポイントで解決するのはそれなりの積み上げが必要で、そこだけ解決というのは前進とは違うからです。むしろ停滞感があります。問題はそこだけではないだろうという感じにもなり、歪感を増すことすらあります。では上級者はなぜ推進力をそれほど必要としないのでしょうか。学習曲線は繰り返せば繰り返すほど加速します。ご本人がすでに加速感アリ、カリキュラムの方でサポートを必要としないからです。

 難しいのを前提に、初級者が上級に飛び級するということも可能で、その場合、カリキュラムが不明確な学校が良しということも稀な例外ですがあります。進歩がブーストされます。教える立場からすると、初級者はめんどくさい、手間がかかる厄介な存在です。それを受け容れて加入を許すというのは、相当腕の良い教師です。このような場所は在籍生徒も、何でまだ学んでいるのかわからないようなレベルの高い人が多数いたりします。学校というより環境です。彼らにはその方が良いのです。先生が優秀で初心者はめんどくさいというところでこういうところがあります。しかしやる気のある初心者は別で、これは加入させます。なぜならご本人が推進力を持って入って来るからです。だったら大丈夫だろうということなのです。それぐらい初学者の情弱感というのはかなりの障害で、誰でもこの段階を抜けなければなりません。その最良の対策が文科省的カリキュラムです。なにせ子供相手に組んでいるものですから。そのため、これに従っておくのが負担の少ない早道です。

 独学の方も少なくないと思うのですが、この学習の基本原則は変わりません。先生がいないと管理者が自分になるので、かなりしっかりせねばなりません。学習メニューが決まっている教本などを使用して、専門家に任せるところは任せて極力自分で決めないことも重要です。時にまた最初に戻ることがあるとしても、とにかく前進を意識することが大切です。進歩しない時期があっても恐れないことが重要です。孔子の言葉で「正しい方向に向かってさえいれば、そのうち目的地に着く」というのがあります。方向が間違っていれば努力しても無駄という意味でもあります。一箇所に止まっていれば・・・このような基本概念は義務教育を見ることで重要性が理解できます。