やっぱり中国に行ったことがあるというのは、経験がないよりは良いのかもしれませんが、経済発展で古いものが失われているので果たしてどれぐらい収穫があるのかわかりません。以前なら是非行くようにお勧めしていたのですが、今なら動画サイトを推薦します。それと言語は少し理解した方が良さそうです。言語と音楽は深い関係があります。中国も広いので地方によって音楽が違います。ですから中国音楽というものを1つのものと看做すのは難しいと思います。
ビートルズがシタールをレコーディングで使うためにインドに行って学んだという話は有名ですが、同じ目的で現代のアーティストが二胡を使いたいということがあります。学ばなくても演奏者を招聘すれば済むように思うのですが、そうして外部の人を入れると異質感が出るのでどうしても自分たちでやりたいということがあります。ビートルズのシタール教師は巨匠 ラヴィ・シャンカールでしたので、この人を招聘した方が明らかに良かった筈ですがそうしていませんでした。本当に物事を身につけるのはいわゆる1万時間の法則で、4~5年はかかります。インドのラーガは独特のルバートがあり、学習には断片的なメロディを使います。シャンカールは、2つのラーガを身につけるまで4年かかったと言っています。それさえできれば、その他全ては勘でわかるらしい。特定の分野の人になるまでそれぐらい時間がかかります。しかし作品に反映させるためにそんなに時間をかけることはできないので、ある程度理解できたらそれを使います。中国伝統音楽は種類が多数あるので、的を絞る必要があります。
北大路魯山人著「味覚の美と芸術の美」の中に日本人から見た中国文化について書かれています。まず前置きですが「天日の下新しきものなしとはその意に外ならぬ。人はただ自然をいかに取り入れるか、天の成せるものを、人の世にいかにして活かすか、ただそれだけだ」とあります。つまり人間の着想するものはすべて自然界にあってそこからいかに学ぶかが重要である、ということを言っています。そしてしばらく論じた後「しかるに、初めはいろいろ外国のものなどに魅惑されるのであるが、やがて眼が肥えるに従い、次第に日本のものがよいということが分って来る。これは書にせよ、絵にせよ、陶器にせよ、料理にせよ、建築、音楽、花にもせよ、庭にもせよ、すべてについて言えるのである。例えば書である。書は誰でも初心の頃は、一応中国人の書に惹きつけられるようである。私も初めは、中国人の書をよいと思った。しかるに、少しく書が分って来ると、自然と日本人の書に帰ってくる。中国人の書は、形態はよいが内容において欠けている。言わば、役者の殿様が衣装束帯をつけたようなもので、なるほど、見てくれは殿様らしく立派だが、所詮、役者の殿様であって、本物ではない。すなわち、内容がないのである。風采容貌だけだ。これは陶器についても言える。中国で出来た古染付などというものは、時代の反映となって、中国のものとしては、なかなか秀れたものである。
けれども、現在このよい陶器を生かし得るものは、中国人ではなく、日本人である。また、日本に陶器が移ってからは、単なる陶工の造りものであったに過ぎないものが、立派な芸術と化して創作されるに至っているのを見ても分る。」とあります。芸術関係は何でもそうで、音楽も例外ではないとしています。中国のものは何物も表面だけで底が浅いと。特徴としては確かにその通りなので、これは中国芸術を捉える時にポイントになる点です。ここで中国の書が批判されていますので、一例として掲載しているのは既に亡くなられました劉天華の弟子・張鋭が90歳を超えた時に書いたものです。なかなか遊び心があります。良い悪いというより、中国の特徴が有る意味出ていると思います。それでも続いて「私から見て、中国人に学ぶべきなにものもなしと言ってよい。」としています。「ここにおいて、私はなぜこう日本人のみが独り世界に冠絶した素質を有するかを考えざるを得なくなった。」そして「私は地球上日本が、優れた自然天啓を享けて成り立っているからだと思う。そして、このような地理的に秀でた環境のもとに、日本人が育てられ、民族としての優秀な素質を培われたにほかならぬと考えざるを得ないのである。」もう結論は出たようですがさらに矛先を西洋に向け「スイトピーの花の美しさなどというものは、実に薄っぺらな造花美に過ぎない。しかるに、日本の豌豆の如きは、花も奥行きのある上品な美を持ち、葉も深々と色艶に潤いを持ち、その上、豆までが優れた香味を有する。」海外に行かれたことのない方はわかりにくいと思いますが、だいたいどこかに行くと思うのは「何でこんなに殺風景なのか」ということです。それぐらい日本は自然界自体が多様性に満ちていて、食べ物にしてもこれだけよいものがたくさんある国は他に見当たりません。日本に来たことのある外国人で、日本だけ別世界という人は多いですが、まさしくその通りです。
魯山人による日本文化の優越性、並びに中国文化の中身のなさについての見解は正しいでしょうか。正しいです。正しいですが、理解としては不十分です。中国というのはよく「張り子の虎」に例えられます。表面が立派で中身が空っぽという意味です。では、空っぽなのはよろしくないのか。魯山人は優れた芸術について良寛を引き合いに出し、表面は線が細くて柔らかいが中身は意思の強い力にみなぎっている、優れたものは全てこのような特性を持っており、逆はたいしたものがないと言っています。
全くその通り、議論の余地がないので、日本の多くのものは中国よりも高額の値が付いている程です。魯山人は実際のところ、名品を手元に置いて相当勉強しています。その中に良寛を含め、あらゆる国宝級の品は入っていない筈です。民間でやりとりできる名品を蒐集しては売ったりしています。百貨店の特売で一気に放出することもあったようでその理由として「長く置いていると学ぶものがなくなるから」と言っています。本当に凄いものは飽きたりはしません。日本の芸術関係のものというのは数がゆるやかなピラミッド型で、確かに国宝は僅かですが、裾野の安物に至るまでの中間も結構豊富です。それと同じ感覚で中国美術を見るのはよくありません。中国は中間がすごく少ない、ピラミッドの頂点が5としたら3,4ぐらいがすごく少ないので、まともに蒐集に手を出してしっかり勉強しようとすれば、それは評価を落とすのは当然です。飛び抜けて良いものがあったら、それより下は急降下します。こういったもので魯山人が評価していたな、と思うのは彼が陶器に関して明代のものは有る程度評価するが、清以降はろくなものがないとしている点です。清朝の名品は台北の博物館あたりにありますので。実際のところ、中国の骨董屋で見つかる清代のものはどうも良くないことが多い、そこそこ良いものはどうしても明代のものになりがちなので魯山人の評価は民間のものに限定すれば正しいのです。どうして中国美術がこうした偏重を来すのか、それは技術重視だからです。精神性はあまり関係ありません。一方日本はというと、良寛のような素人風の文字を評価したりします。秘めたもので評価します。中国にもこういった考え方がないわけではありません。古琴の世界では技術を開帳すること自体が無粋だと考えられています。恥ずかしい振るまいと認識されています。しかしその内面はというと無なのです。このような方針で作品作りをすれば、張り子の虎のようなものができあがっていきます。中国の国宝は精緻な技術の結晶です。そしてその心はというと、広漠たる無が広がっています。空なのです。
宇宙も虚無です。本物には無の要素が必要不可欠なのか。しかし無を基調に置いた場合、成功する可能性は高くはありません。それで中国の美術は国宝とそれ以外の差が大きいのかもしれません。日本は無を表現するにしても完全に虚無ではない、無にも味があります。中国は真空だが日本はそうではありません。中国の本物の芸術はすべてがバランスが取れており、完美であることによって何もない無を表現します。神を目指します。中国の国宝はそもそも神の子たる皇帝に納めるために作られているので、初めから神を意識していたのかもしれません。日本は人間の泥臭さを愛します。自然界の八百万の現象をそのように表現します。かなりの違いがあります。
ですが民国期には日本の占領を受けていたので、その影響のためか蒋風之の作品などに虚無という感じはありません。もっと古いものでは蘇軾の詩は中身が非常に濃いものです。
しかし中国芸術は基本的にバランスと調和を重視し、内奥に虚無を生み出すことでさらに高い次元を目指すというものです。この前提で鑑賞する必要があります。日本では内に秘めたものが何かを観ますが、中国物はそれだと何も見えてきません。外面に多くの要素があります。中国の創作法は三球三振が延々続いてその内擦ったら一気に場外ホームランが出るという、場外でなくても点は一緒なんですがそれでもかっ飛ばすという、一方日本は勝っても負けても美しいといったスタイルの違いがあります。どちらも虚心坦懐なのですが、これだけ違います。中国は失敗を増やし、張り子の虎を量産しますが、いいんです、夢があるから。弦堂は中国の茶壺(急須)を販売していますが、これもバランス美で、何かを表現するというより空気のように自然に溶け込む指向です。それが快適なのです。日本にはこういうものはありません。日本は人間味とか、滲み出た歪感さえ表現に使います。中国は完美であることで恰幅を得ています。これが実に中国の自然とか建築に調和しているのです。日本に持って帰ると違和感がありますが、逆もしかりで、日本のものは中国では違和感があります。
音楽はどう違うのか、中国の譜を読む時に、表現とか感情を捉えるような入り方だと分かりにくくなることが多々あります。まずは表面の工芸品的技法がどう組み立てられているかから入る方がわかりやすくなります。延々と無機質なものが生産し続けられてしまいますが、それでもその過程で突然出る天才を夢見ているのです。だから張り子の虎的中身がないどうしようもないものも、一旦は受け容れるのです。化けるかもしれないから。とりあえず表面は何とかなっていないとどうしようもないという感覚なのです。龍は1000年に一度しか現れないらしい。虚無はつまりゼロ、それなのに濃厚なものもあります。外面を技巧的にチューニングし、その結果背後の大きなものを見せることに成功すれば、そこには何もない筈なのに何かが濃いのです。ほとんどは失敗となり空の駄作が累積されます。こういうアプローチで作品を作るのですごく難しいのです。これは至高を目指す優れた方法であって、結局日本の芸術に影響を与えた原点はここにあります。

アリストテレス曰く「受け入れずして思想をたしなむことができれば、それが教育された精神の証である」。ここでは中国の話なので共産主義思想について、良し悪しはともかくそれを十分に理解するのは教養が必要です。そして時代が下って今度は資本主義も失敗が明らかになってきています。精神が教育されていなければ本当の意味でわからない、そういうことを言っています。同じことは中国と日本の芸術についても言えます。日本人なら日本人、中国人なら中国人そのものであることは全く問題にならないのですが、だからそれが理由で他のものは受け容れられないのは精神の乏しさであるということです。民族が何であろうと精神が成熟さえしていれば中国音楽は問題ない筈です。精神的に教育されていれば、そのまま変わることなく異なった思想にも触れる事が出来るはずです。その結果、それが中国人と全く同じものにならなくてもそこが問題になることはないでしょう。アリストテレスまた曰く「人は物事を繰り返す存在である。つまり優秀さとは、行為でなく習慣になっていなければならない」。それは5年ほどかかります。