音の大きさと二胡の質には大きな関係はないと思います。
ここに弦楽器製作者のフィリップ・クイケンの論文の要旨を載せていますが、これによるとおそらく集団?で演奏するような状況では、音が大きい方が有利なのかもしれません。これは心理的に確かで否定できませんが、これはこれとして、演奏には別の一面もあります。
小さな音の方が人を引きつけるということもあります。そのためか、巨匠たちの演奏は音が小さい人が多いとよく言われます。一方で「上手な人ほど音が大きい」とも言われます。しかし上手であることと天才とはかなりの差があり、天才と巨匠の差も同じく天地の差があります。巨匠たちは楽器の能力の半分ぐらいしか使わない、意図的にそうするのだと言われます。平均40%ぐらいとも言われます。しかしもしそうであるなら、楽器の音は大きい方が大小の幅が広い訳ですから、ほとんど半分しか使わないにしても当然、元々の音が大きい方が良いはずです。それゆえバイオリンは時代と共にどんどん大きな音が出るように改造されていきました。しかしそれによって失ったものも多いので、ピリオド楽器と呼ばれる古楽器演奏がさかんとなり、モダン楽器(現代楽器)の演奏にも大きな影響を及ぼしました。ピリオド楽器は貴族のサロンなどで演奏されていた楽器なので音量は少ないのですが、これはデメリットと考えられていません。音量と品質の関係は有る程度はありますが、多くの要素の中の一部でしかなく、決定的要素ですらないと思います。
音の大小よりも、演奏のディテールなど細かい部分の方が重要です。そこで最小の音にも関わらず、その小さな音が一番目立って聞こえるということもあります。史上最高のジャズ・ピアニストと言われるセロニアス・モンクは、音を極力出さず、自分のソロの時間帯にも関わらず、長い休止を置くことすらあります。それでも演奏全体を強力に支配できます。巨匠たちは自分の存在を消して、音しかない状態を作ることに相当な努力を費やします。この点に非常に神経質です。偉大だとされている人々が実際には言われていることとは逆に自分を消しているというのは不思議な感じがありますが、解脱という言葉もあります。楽器に対してさえ控えることを要求し、その能力の一部だけで演奏しますが、それが最も美しく、人を惹きつけるのは興味深い事実です。
音量だけではありませんが、表現にしろ何にしろ楽曲全体の中で特定の音が突出するとそこが際立ちます。明確な理由や意図がなければそのようなことはできません。全体に満遍なく突出を作ると、それはもはや普通となり、突出がないのと同じになります。ですから、要点を明確にするというのは単純なことではないし、全体に調和させるのも簡単ではありません。静岡市立芹沢銈介美術館で公開されている白地の着物は全て異なる貝の図柄が配置されています。その中で縫い目を跨いでいるものが1つだけあります。中央より下にある大きな貝です。このたった1つの存在で、他の全ての貝が自由に境を超えているように見えます。不思議なマジックです。それぐらい僅かな違い1つでも大きな相違を生むことがあります。