二胡のような擦弦楽器は、究極的には人間の声の代役に過ぎません。声ほどすばらしい楽器は世界広しと言えども他にはないとされています。そのためおそらく二胡は沖縄から大和(日本)には定着せず、三線、三味線によって声をバックアップする方を好んだようです。胡弓は日本民楽ではほとんど忘れられています。以前は中国でも似たような状況で、こちらでは琴を使い、二胡は地位の低い楽器だったようです。重要な楽器として認識されるようになるまで多くの苦労があったようです。このあたりは劉天華の改革などが知られています。
擦弦楽器はいかに声楽のように歌えるかが重要です。
楽器の学習と音楽のそれは全く別のものである、という点も理解する必要があります。そのため、二胡も含め世界の多くの教則本は、どちらの要求も満たせるように工夫されています。しかし利用する側がそのことを無視すると意味を為しません。ジャズで言われることで、まず楽器の扱い方を学び、音楽を学んだら、一旦それらを捨てて演奏を学ぶというものがあります。この3段階目が非常に難しい上、メソッドは基本的にありません。1つ言えることがあるとすれば、捨てるとはどういうことかにも通じますが、美しさのために作られた美は美しくはないという自然の法則があるということです。機能性、効率性など、美とは無関係で無機質に見えるものだけで構成されているものほど、不滅性を帯びる傾向があります。全てが正しいから美しいという言い方もできます。この概念を「新即物主義」と言います。その対極にあるのが主観的な「表現主義」です。しかし現代ではどちらかに偏った人は少数ですし、本質的にはどちらも違いはありません。個性が重要だという人もいます。ですが個性がないとすれば、演奏以前に生き方の問題と言えます。ほとんどの人にこの問題はありません。無個性というのはほぼいない。癖があって困る方が多い筈です。嫌われる個性もあります。このことについて考えるのは無駄と思えます。それよりも正しいことは何かという普通を追求する方が本物に近づき、創造性を発露させます。
とにかく音楽を聴くに勝る学習はないので何でも聴けるならどんどん聴くべきです。「私にはレコードが命から二番目位大事なので、戦時中にも荷馬車に積んで疎開先をあちらこちらと持廻ったので、今でも多少残っているのは嬉しい。・・とにかく、私にはレコードが先生でもあるので、月謝を払うつもりでよい新譜が出ると毎月求めることにしている」- レコード夜話 宮城道雄。"二番目ぐらい"という言い方がいかにも宮城検校らしいという感じがします。2番目じゃないということを言外に匂わせています。宮城道雄は盲人です。奥様は目が見えますが最初は箏の弟子で、結婚してから夫の"目"になることを決心、箏を演奏しなくなりました。ただ何も言わず黙ってそうしたようです。奥様の気持ちを尊重して自分の命は1番にせねばならない、仕事を果たすことによっても奥様の犠牲に答えなければならないのでレコードは2番目と答えたのですが、実際には違うということを「ぐらい」という言葉で表現しています。しかし演奏家たるもの、レコードよりも楽器の方が重要なのではないでしょうか。いかに録音が軽視できないかということを感じさせます。
東洋の音楽は感情表現というものの概念が西洋とは異なっています。そもそもが楽曲の構造も異なっていますので同じように扱うことはできません。それで当然ながら東洋の音楽も聴かなければ東洋の音楽は理解できません。西洋では楽譜に対する忠実性が重んじられますが、東洋では基本的な音のみが書かれている伝統譜が多くあります。その作品が生まれた地方の音楽をよく聴いていなければ、どのように演奏するのかわかりません。
巨匠たちは高みを目指す戦いで最も厳しいのは、自分自身との戦いである、と言います。1930年代にウィーンで圧倒的な名声で頂点を極めていたブルーノ・ワルターは、演奏会の前にしばしば楽屋の片隅で背を向けてじっとしているところを目撃されていました。それを見た周囲の人々は「モーツァルトの霊と交信しているに違いない」と考え、この話は伝説的に広がっていきました。ある記者会見で、本当にモーツァルトの霊と交信できるのか尋ねられたワルターは、その見解を即座に否定し、こう言ったと言われています。「私はあのようにして、自分が小さなものであることが理解できるよう、いつも繰り返し神に祈らなければならないのです」。当時の権謀術数に満ちたウィーンでこのような考え方の人は稀で、だれもが偉くなりたいと考えていたので、この回答は当時のウィーン人にとって衝撃的だったと言われています。成功できるよう、大金持ちになれるよう神に祈る人は幾らでもいましたが、自分が小さな存在であることを忘れることがないよう助けを求めて真剣に祈る人はほとんどいなかったのです。神以前に、巨匠になるぐらいの人材ともなると生き方が全く違うことがわかります。
晩年に「最も神に近い」と言われ、圧倒的な成功を収めたオットー・クレンペラーは、あるジャーナリストとの対談で、彼が到達した高貴さと才能との関連性について質問されるも、自分の言葉で回答しようとせず、聖書を取り出して1節を朗読して黙ってしまったと言われています。その箇所をリビング・バイブルで引用するとこうあります。ひらがなと漢字もそのまま保存して写しておきます。「私は自分に言い聞かせました。これまでのエルサレムのどの王より、いろんな勉強もした。どの王より知恵や知識を得た。私はりこうになろうと、一生懸命に努力しました。ところが、今ではそんな努力さえ、風をつかまえるようだとわかったのです。りこうになればなるほど、悲しみも増えるからです。知識を増すことは、悩みを増すことにほかなりません。」- 伝道の書1:16-18。これは、至高の芸術家が直面する苦悩をよく表しています。
難しい話です。つまり、これらを要約すると、結局のところ「普通の人」であれば良いのではないかと思えます。これを仏教では「解脱」と言います。目標は人によってそれぞれです。名声や経済もありますが、結局は普通から逸れると幸福にはなり得ないということなのかもしれません。優れた芸術家の登場は、当人にとっては苦悩を意味するとしても、周囲の人々にとっては大きな恵みです。敢えて茨の道を選択する人は、立派な道を選択したのであり、そういう人が多く出てくれば良いと願わずにいられません。
身につけるのが難しいものというのがあります。体感で憶えるものです。このような分野に遭遇した時に理解しておかねばならない基本原則は「起きている時に取り入れ、睡眠中に定着する」ということです。人間は睡眠中に咀嚼します。2人の人が何かを1ヶ月学びます。1人は1ヶ月履修したばかりです。もう一人は1年前に1ヶ月学んで辞めました。レベルが高いのは後者です。学んでから365回睡眠しているからです。(ポスターのエジソンの言葉は広告向けの嘘ですが、言っていることは間違っていません)。
このことを踏まえると、1つ1つ課題をクリアして前に進むのは進歩が遅くなります。対して20%ぐらいしかできていない状態で回遊するのは非常に早くなります。1曲を100%の完成度に達するまでやるのは0からだとかなり大変です。それより5曲を20%で一巡は結構早く達します。1曲分と5曲分の睡眠の蓄積、このことを考えると、なるべく早く周回したいという考えになります。しかしだからといって、あまりにも適当というのは感心しません。何の蓄積も生まないからです。初心者と高手が見えるものは違います。初心者は表面的にしか見えません。それで結構です。その見えているものをとにかく押さえます。するとその上が見えてきます。それはパスして他を回る、これを繰り返します。DNAの構造は? 蜘蛛の糸の構造は? 鷹が大空に舞い上がるのは? 全て螺旋、これが自然の摂理です。これが強固なものの構築法です。
このようなやり方では、いつまで経ってもきちんとできるものが生まれないのではないでしょうか? なぜなら多くの作品を薄く積み上げるからです。どれを取っても100%はありません。全部中途半端です。この点について、世界の伝統芸能、簡単なものはありませんが、その様々な先生方にご意見を伺うと、このように言う人が多いという傾向があります。それは「急いでもどうしようもない。一生懸命やってもダラダラやっても結局あまり変わらない」。そんな筈がない、と思われる方が多数なのは承知しています。彼らはその分野の職業人でもあるのでまともなことを発言したい、責任もある、にも関わらず彼らの経験則から結論を言うとこうなるという。これは難しい分野に取り組んだことのない人には理解できないことです。丁稚奉公にも正当性があります。
1万時間の法則に関して様々なことが言われています。これぐらい努力が必要なのだと。努力すれば自ずと成功するのだと。しかし周囲をよく観察していれば全く違う現実があります。成功するかどうかとか、そもそも何が成功なのかも不明確であるし、努力だけで一流にはなりません。つまりそういう意味ではありません。この1万時間とは睡眠時間のことです。大体5年ぐらいです。それぐらいの経過を経ればその分野の人としての雰囲気を纏えるという意味です。努力や成功とは関係ありません。二胡の蛇皮もある日突然化けて音色が変わりますが、人間も同じで、朝目覚めての突然の覚醒があります。
一時話題になった分野で、寿司職人があります。非常に長い修行が必要と言われていたところにたったの2ヶ月で全てを教えますという学校ができました。これは個人的な意見ではありますが、確かに2ヶ月で説明は可能だと思うのです。しかしその職人が握ったものは、素人のものではない感はあるものの微妙で、それでも学校の価値はそれなりにあると感じさせるものでした。その店はまもなく無くなりました。今では優秀な寿司製造機が回転寿司チェーンで導入されているので、それ以上の技術がないとなかなか難しいと言えます。その職人は大型ホテルの従業員で資本もそこから出して貰って小さいながらも立派な店を出させて貰っていました(表面的にはわからないようになっていました)。試験営業だったのかもしれません。接客はプロでした。ですが寿司職人のそれではなくホテルマンのままでした。そのホテルが自社で寿司店を運営したいのなら、その職人には修行に出させ、それからしばらく店舗も運営させて、果たしてそれを自社のホテル内で営業できるのかを諮るべきでした。一人前のホテルマンになるのは簡単ではありませんが、寿司職人も同じ筈です。雰囲気を纏う、これだけで5年かかります。満5年ではありません。5年目ぐらいに花開きます。なぜかそういうもの。例外はありますが基本的に能力は関係ありません。
最近はYoutubeなどで学習、これで大抵のものは間に合うようになってきているのですが、1万時間の法則に該当するようなものは上手に活用しないとなかなか成果が得られません。有名な別の理論で「学習曲線」もあります。図を貼っていますが、学習とは最初は目立った成果が見えにくいものです。しばらくして覚醒すると急成長し、また鈍化と繰り返します。しかし繰り返すほど成長速度は大きくなります。つまり何事も最初がとても大変です。できることもほとんどない中で頑張る必要があります。そして伝統芸能のような非常に奥深いものはこの学習曲線の波の回数が多いです。そして最初の波で上昇に乗るまでが5年です。ものすごく大変です。だから伝統芸能は世界で衰退しています。若い人はやらなくなり、地方の過疎化、大都市一極集中化もあって壊滅状態です。しかし少数とは言え、価値を見出す人もいますので、身につける人がいる限り継承されていくものと思います。
5年はかなり長いので、現代調のコスパを考えるような概念では到底取り組めません。指導教官が良い、本人の姿勢も正しいという条件がある程度揃って5年です。長期間、谷の底をどのように前進するのか、あらかじめ目測が必要ですが、しばしば修正が必要ということを理解しておくことも重要です。「闇の5年」には一定の目安もあります。諺に、石の上にも3年、とあります。この3年は長期間を示す比喩で実際の長さではないとされています。しかし実際に様々な分野を手掛けてみると、3年前後で1回、小さなウェーブが来ます。多少の覚醒があって大きな段を1つ上がったら上昇気流はすぐに果て、またそこから平行になる、ブレイクスルーがあって向こう側に抜けられる瞬間があります。これがあるかどうかでそれまでの3年前後を一旦評価します。誤りがたくさんあっても、そこそこやっていれば大体は大丈夫。ですから、これがない、というのはかなり深刻で、そのような場合は常識人が見たらもう1日目から明らかにおかしいというケースがほとんどです。一生懸命やらねばならないといったような大変な話ではありません。適切なところに身を置いているだけでもいけます。門前の小僧、習わぬ経を読むという諺もあります。そのため、何もない、無風、静かさと寂しさしかない、これは普通ではないという認識が必要です。おそらくほとんどの人が子供の時などに体験済みと思います。選択権のある大人になってからも同じ問題に直面するようなら、それは自分自身の問題です。
ここで考えているのは、魅力的な演奏についてでしたが、確かにその分野の人でなくても魅力あるものは提示できるでしょう。何も専門の寿司職人でなくても素晴らしいものは提供できる筈です。パテシエの考える寿司があっても構わない筈です。しかし寿司職人による握りは、その分野にそれなりに在籍していた人でなければ不可能なものです。不思議なものです。ご飯握るだけですからね。それもちょっとでしょう。こういう一見単純なものがとても難しい。そういうものに5年? 現代調ならYoutubeで十分です。伝統芸能を身につけている先生方がこれを聞くと冷笑するでしょう。僅かな違いこそが大きいのだと。ここを積み重ねなければ本当の意味で魅力的な演奏作品の創造は難しいかもしれません。
別の原則で20世紀後半ぐらいから言われているものですが、文を読むとか、譜を理解するというのは、その深さは対人関係と不可分ということです。コミュ障は読解力がおかしいです。人の話と人が書いたもの、同じだからです。人に感情移入できない、意味が理解できない、それで美しい音楽? あり得ません。表現するものはその人の人生の縮図だからです。ですが、何がしかの問題点は誰しもありますので、それで難しいのです。性格が悪いとその分、読み取れるものは少なくなります。自分の行為は全て自分に帰結します。しかしこの原則を全体主義的に適用した結果、巨匠が出なくなったとも言われています。人間が規格化されているからです。とても難しいことで尚、研究が進められています。