拠り所への愛と音楽との関係 - 二胡弦堂


 人は社会コミュニティーの中で生活していますので、所属している場所に対する愛着や愛情があります。故郷もそうです。ふるさとや国の音楽に対する愛着など人間として普通の感情ですし、これが世界を多様にしている側面もあります。しかし人間社会は争いや憎しみがありますので、愛国とか団結歌のようなものでさらなる結束を高めようという趣旨のものもあります。日本は基本的に単一民族で島国であるし国力も強いので衝突や脅威が少なく、戦後このようなものとは比較的無縁に過ごしています。ですから、中国の音楽を学ぶと時に違和感を感じることがあるのは確かです。政治的に色付けされた音楽は少なくないので、こういうものをどう扱えば良いのか、過去の難しい時代に日本に逃れてきた中国人老師も決して少なくはないので、それらの方々がこういうものを避けたいと言われることもあるし、外国人から見てもこういうものは抵抗を感じることはあります。故郷への愛であれば受け容れられてもそこに憎しみであるとか国威発揚という概念があれば、そういった主義主張に安易に同調できないのではないかという遠慮のようなものもあります。さらにこの問題を複雑にしているのはそれらの音楽が結局は古典とか民謡からの取材による衣替えに過ぎないことが多いということです。元々違うものだったのですが新しい愛国的イメージが付与されたことによってそういうものを嫌う人々が現れ、それが古い伝統文化の否定に繋がり、また世界的な民族音楽の衰退もあって消えていく流れになっています。国内文化の否定は文革支持に繋がります。もうそれぐらい中国はコテコテの政治運動国家なんですね。日本人にとって理解しにくい状況ですが、日本は愛国心があるので政治スローガンは必要ありません。中国は違いますので、清朝皇帝を廃位させたのは失敗だったのではないかという議論まで出るほどです。聖なる象徴の有無が人民の心理に大きな影響を与えるので、世界の多くの国家は王制を廃止できず、英連邦に至っては多くの国が英国王を君主としています。名目に過ぎなくても影響力があるからです。中国の愛国教育は中国政府も最善とは思っておらず、苦心の政策です。写真の例は、北朝鮮・牡丹峰楽団 モランボン楽団ですが、人気の同楽団による北京公演決定で即チケットはプラチナ化、かなりの騒ぎになりました。しかしステージのスクリーンにミサイルの映像を流す国威発揚メッセージを北京当局が問題視し、写真にあるような愛国スローガンも全面的に禁止しましたが、北朝鮮側は受け入れられないとして公演キャンセルの上で帰国しました。当時ニュースにもなり、帰国時の映像も流されていました。考えてみると、人々が「国は要らない」と言い出すと大変なことになるし、革命を起こしたところでまた建国、同じことなので悩みが尽きない。他国の状況も一定の理解はできますが、我々は中国音楽をやっている立場なので、もう少し深い理解が欲しいところです。

 そこで本稿で以下にご覧いただくことにしたのは、楊陰瀏がその晩年 1979年2月24日に著した散文で「人民音楽」誌1982年10期に発表されたものの小店による翻訳です。楊陰瀏は中国音楽研究所所長で、50年代に阿炳のニ泉映月の録音を行った人物として知られています。彼が著した「中国古代音楽史稿」は現代でもバイブルとして価値があります。外国人の我々には以下の文に入る前に彼に関する予備知識が必要です。若い時に西洋音楽を女性宣教師に学んで以降キリスト教徒になり、後に賛美歌集「普天頌賛」を編集したこと、貧しい家庭の出身で大学は2回中退したことです。


私と「満江紅」 - 楊陰瀏

 「満江紅」この一曲が出現した最も早い時期は、1920年旧北京大学による「音楽雑誌」誌 第1巻第9,10期合刊、ここには曲調の出典の記載が無く、これはサアダル・アラー(1308~ 訳注:実際には1272~1355)による「金陵懐古」詩に配した曲が載せられていたのですが、この曲に「満江紅」詩を当てた時でした。使われている五音(訳注:五音音階)は韻を踏み、通常話される言葉のような調子で、これは宋元代以来残されている南音(訳注:中国南方音楽)体系と一致しています。言葉は十分に平仄(訳注:中国語四声の1,2声は「平」、3,4声は「仄」)に満ち、曲による音の配分の原則は低い音から高音に上がる仄字によっています。この一点を見るに、アラーの詩と配された曲は大体において符合します。"六代","去也","悵望","已非","王謝","燕子","巷口","打孤","往事","衰草","玉樹","露冷"などの文字に配された音楽はどれも整合性があります。このことによって断言できるのはこの曲の音楽が、アラーによって詩が作られた後、アラーの書いた言葉に基づいて音が配されたこと、それによって情緒もまた十分にマッチングしているということです。
 1925年に始まった学生運動中に反帝(訳注:反欧米日列強)の烽火が挙がり、私は当時 上海聖ヨハネ大学の800人余りの学友と共に外国人に支配された学校当局に反対し、一同連名を記して退学、当時中国人の相互努力によって建てられた光華大学に入学しました。反帝の怒りに動かされ、私は岳飛(訳注:宋代の詩人)の「満江紅」を選択、曲を配しビラを印刷、学生たちに配りました。この時私は光華大学で学ぶ傍ら、交通大学の南洋学会と海淵英文館の中で無給の音楽講義を行っていました。最初にビラを配っていたのはこの3校だけでしたが、まもなく複製され全国に広まりました。
 古い曲を利用して岳飛の詩を配し学生運動を鼓舞したのは非常に有効でしたが、ただこのような方法は芸術的観点からは欠陥があり、それは言葉の調子と配された音楽が合わないということです。一方で岳飛の詩は改編できず、もう一方で元の素晴らしい楽曲、私は改変することでよりよくしようとする努力をせず、ただ元の素材を使うことにしました。元の楽曲は岳飛の詩とは合わず、字の発音とも完全には合わないことは当然で、例えば"怒発","欄処","望眼","仰天","里路","胡虜","待従"などのところで好ましくない効果が発生します。むりやり結合すれば詩と音楽は矛盾します。情緒の観点から見ても岳飛の詩に内包する憤激の感情は楽曲とは十分に合いません。この曲調と岳飛の詩を同時に使うことには欠点があります。そのため私は以降、もし歌詞と音楽の配合と規律を調べることがあるのであれば、最も良いのは元に戻してサアダル・アラーの「金陵懐古」とそれに配された音楽を一緒にすることだと主張します。
 この楽曲に岳飛の詩を配したのは私のしたことですが、これは歴史を代表するものではないし、また伝統芸術を代表するものでもない、これが1つ。
 他に、私はこの曲に"改編加工"を施し、和声も加えてキリスト教の賛美歌「普天頌賛」に所収しました(第350首)。
 芸術性については、元の楽曲、これは1つのとても良い楽曲という点で別の多くの民間の楽曲と同じであり、五音音階によって作られた美しい作品で多くの人から愛されるべきもの、ここで言えるのはこの一件がとても簡単なことではないということです。曲の調性は"5"調で統一されており5音で全終止し5音の下5度の"1"と"2"で半終止、1と2はどちらも5音の全終止を強化、終結部の手前にて3で終止するかに見えてこれによって最後の5音の終止効果を強めています。原曲のこの調性上の処理はとても調和が取れています。しかし私が和声を加えた時はまだ調式和声(訳注:中国五音階の和声)を学んでおらず、西洋和声の一般的な規律に従いまさに"足を削って靴を履く"ような状態で原曲の最後の一句を削除し、"1"音を以て終止する西洋和声の形式に合わせていました。その結果、原曲の調式体系と旋律の美しさを破壊し、1つの訳のわからないロバでもない馬でもない、頭があって尻がないような劣悪作品を生み出してしまいました。もう一つは、整った演奏(訳注:コラール風にしたかったという意味だと思われる)という要求のため、以下の譜の中に幾つかの音符を足して元々あった比較的活発な雰囲気を破壊し、曲調がいささか呆けた感じになってしまったことです。
 「満江紅」の冒頭を改め、終止部を取り除き、音を加え和声を配したのは私がしたことです。このようにしたことは「満江紅」に何も新しいものを加えなかっただけでなく、元々あった美しい旋律も破壊してしまった、これが2つ目です。



 この2つの点からあの作品は私の当時の失敗した教訓です。ある声楽家は岳飛の「満江紅」調(訳注:「調」とあるのは筆者の自作に対する皮肉だろうと思います)を歌うのが大好きで、数年前彼は私のところに来て歌いました。少し聴くと彼が細心の注意を払って楽曲を処理していることがわかりましたが、意外にも激高憤慨の感情を高め、元々あった筈の柔らかい感傷的な情緒を取り除いて、曲を配した時に発生した欠陥を取り違えて補填し、しかも歌詞と曲調の矛盾は却って完全解決にほど遠い状態になっていました。結局この曲を使って和声を加えたり、別の歌詞で埋めたり、宗教を宣伝するだけしか考えないやり方が元々の失敗だったということです。ちょっと印刷したらすぐに外国まで広まってしまいました。たとえ我が国の音楽芸術家の紹介があったとしても、かなりの歪曲と相反する結果をもたらすことになったのです。
 思い起こせば、後悔することが多くて、このことはその一つです。



 ここまでですが、文中のサアダル・アラーという人物は蒙古族か西域の回族(寧夏)であろうと言われており、元代に江南地方で役人を務め、杭州で亡くなった詩人です。金陵とは現在の南京で、その陥落にまつわる栄枯盛衰を謡ったものですが、満江紅は愛国心を鼓舞する勇ましい内容ですから内容がだいぶん違っており、確かにむりやりくっつけた暴挙という作者の考えは理解できないこともありません。それで原曲を載せているわけですが、ここではご本人が嫌がっていますが、話だけでは外国人はわからないので小店の判断で、楊陰瀏作の方も貼っています。発音の流れをみると、中国人だったら問題ないのかもしれませんが、確かに外国人とか言葉が拙い者が歌うのはちょっとしんどい、金陵懐古の美しさとは差がかなりあるのがわかります。しかしこの合ってないという雑然感が時代には合っていたのかもしれません。世の矛盾に打ち勝っていくというような勇ましい理想を掲げながらも釈然としない何かを抱えている人々にはぴったりだったのかもしれません。きれいな芸術品だったら受け容れられなかったと思います。荒れた人というのは不協和音の多い音楽が好きなのと同じ道理です。だからやっぱり満江紅は傑作なのかもしれない、件の歌手も実は正しいのかもしれないとも思えます。だからといって、それを我々が継承するかは別問題ですが、こういうのもある意味、20世紀の記憶遺産なのかと思ったりもします。



 賛美歌にしたものは、これはしょうがないと思います。音楽は素人の会衆が和する賛美歌を作るのに簡明に仕上げるのは当然、この程度は普通に有り得るし、原曲の雰囲気を維持していかなければならないこともないと思います。教会コラールというのはどれも呆けたようなものが多いですしね。西洋だと長調は絶対に数字譜での1が主音になるので、必ず1で終止します。しかしこの西洋化した1終止形を見ると、確かに奇妙な終わり方で、前はあるが後ろがないという楊の見解はその通りと思えます。西洋の終止形は最後の1の前に4や5を配置するから強い終止感を得られるのであって、これは違いますのでおかしくなるのは当然とも言えます。西洋12音と東洋5音階を同じように考えてはいけないということです。



 残念ながら和声付きのものは見つかりませんでした。楊陰瀏ほどの巨人がわざわざ晩年にこういう手記を世間に出す、彼にとって音楽学者としての責任を全うするという意味が、社会をよりよく豊かにするということを第一にしていたのであれば満江紅を出したことは失敗だった、相応しく貢献できなかったということなのだろうと思いますが、それ以上に世間に対する警告の意味の方が大きかったのは間違いないと思います。文革が終わって3年程しか経っていない時期で、多くの伝統作品が政治運動で使われていった時からそれほど経ってはいない、回顧して反省され始めていた時期でちょうどそういう時に考えて欲しい事柄として古楽の研究者という立場から話すことにしたものと思います。元の曲の内容を考えずに愛国的歌詞を貼り、違った意味を付し、配ってゆく、これは楊が最初に始めたやり方でした。そして文革で大々的になされた事柄でした。多くの中国曲が違った雰囲気に改悪されて外国にまで紹介され、反帝とか革命という貴かった筈の行為のために文化が汚されたのです。それですべて元に戻すべきだという思いをこめてこの手記に金陵懐古の譜を貼ったのです。この美しさに戻って欲しいと。反帝、神への賛美、革命、どのような目的があっても自国の文化遺産の改ざんは好ましいことではないということ、だけど反帝と革命について話すのは状況がデリケートであったし、当たり障りない対象を吟味した上で挙げたものと思いますが、こういう警告を出したというのは彼にとって最後にできる数少ないことの1つだったのだろうと思います。

 結局、学生が作ったものに過ぎませんからね。当時の大人がしっかりしておれば、ここまでの問題にもなっていなかったわけだし、現代でも彼の希望は叶えられておらず、満江紅というと傑出した作品とされているぐらいです。ご本人は消してしまいたい過去の記憶なのですが、世間に広まっている以上それは難しいということです。本来の曲の成り立ちとは無関係に意味を付すということが結構あるので、そういう違った精神を演奏に反映させてしまうことがないか気をつけなければならない、そのために復元していく作業も求められることがあるということです。ぜんぜん違う意味の題名を付けたりするのは中国の場合、昔からなので、あまり細かいことを言ってもしょうがないですが、ともかく曲の題名とか世間で言われている曲の背景は一切無視した方が良い、純粋に楽曲だけに集中すべきということは重要だと思います。しかし楽曲解釈といった作業は専門家の領域であって、蒋風之のように生涯をかけて取り組む人さえいる程の難しいことなので、これが困難な壁になっている、反対に考えるとこれがあるから音楽演奏はおもしろいのですが、いずれにしても中国音楽を取り巻く環境のこれらの経緯については理解していなければなりません。

 晩年に「金陵懐古」を発表した楊陰瀏は、この譜を世間でよく知られている「満江紅」の調に合わせて調整したようです。当時の人々の記憶との親和性を重視してのことだと思います。これを以て中国古楽復興旗揚げの第一弾、彼が反帝、中国社会の保護で旗揚げしたと同じ旋律を使って今度は中国文化保護のために旗揚げする、この後まもなく亡くなりましたので遺言のようになって残されたことになりますが、その意思を継ぐのは現代人なのです。