二胡を人前で演奏するのに抵抗があります。 - 二胡弦堂

 


 他者に聴いて貰うというのは進歩のためにはいいようです。多くの教室では、発表会などありますので、なるべく断らずに参加するのはいいと思います。

 ここから、もっと根本的な部分を考察したいと思います。弦楽器(琴)は、元々、瞑想的な楽器で、大勢に聴かせる趣旨の楽器ではなかったようです。

 音楽は本来、宗教と一心同体で、宗教儀式では声楽に対し、主旋律を笛、これに打楽器の伴奏を加えたようなものが使われてきました。琴は古くからあったのですが、こういう場では使われず、中国の古くから残る元曲(元代の戯劇。中国戯劇史上残されている最も古い戯劇)、中国戯劇の原点とされる崑劇ではすべて笛を使い、琴が使われることはありませんでした。それは古代演劇が、舞台上に死者を呼び戻し生命を与える趣旨のものであったからだとされています。京劇の役者が入場する入り口を「鬼道門」と称するのはそのためで、鬼とは霊のことで、ここから何物かに扮した役者が入場する時に、打楽器をパンパン鳴らして心臓が鼓動し始めた様を表し、続いて管楽器が吹き鳴らされるのは、生命を表す息が吹き込まれたことを示し、役者が歌い始めることによって、現世に霊を呼び戻す行為を完了させてそのメッセージを受け取るという流れになっていたようです。「笛」の語源は「震え」「吹柄」であったとされており、息を吹き込むことによって、活力、エネルギーを吹き込む心理的効果がありました。ブラスバンドは元は、オスマン・トルコの世界最強と言われた親衛隊イエニチェリが吹き鳴らすラッパの合奏であったとされており、死に直面する軍隊に力を注ぎ込み、敵を恐怖に陥れる魔術的な効果があったとされています。

 これに対して「琴」は「言」に通じるとされ、個人が神と交信するのに使われました。神の言葉を聴くための楽器であって、霊を地の底から呼び戻すとか、エネルギーを充塡するために使う笛とは全く違う楽器であることがわかります。琴の中国語読み「チン」は、「知音」(zhiyin)から派生しており、中国春秋時代の琴の名手・伯牙が、友人の鐘子期が死んだ時に、自分の琴の音を理解してくれる人がいなくなったと嘆いて、琴の弦を切って以降、二度と弾かなかった故事に由来しています。琴は、対話のための楽器です。それゆえ、舞台には本質的に向かない楽器です。しかし中世後期頃から、京劇、西洋のオペラ、歌舞伎の三味線など、弦楽器が進出し、管楽器よりこちらの方が主流になりました。これは時代と共に、宗教性が薄まり、より世俗的になっていったことを示しているのかもしれません。

 こういう楽器の歴史的な由来とか特徴から、二胡奏者が「演奏は個人的に楽しめれば良い」というような考え方をするのは、どちらかというと常識的であるように思えます。どうしても内向的になりやすいかもしれませんし、それが本来の楽しみ方です。しかし、演奏会用に考えられた曲も多数ありますし、演奏して喜んで貰えるなら、楽器の本質に拘らずにどこでも演奏してもいいのではないかと思います。