二胡は清代乾隆年間後期以降、中国全土で禁止されていたので、現代に残されている二胡の大多数は清末以降のものになります。乾隆帝は晩年、帝位を太子に譲った後も支配し続けたので皇帝が親子で並立した体制となり、この頃絹弦を使っていた二胡は、内弦を老弦、外弦を子弦と呼んでいたので切れた時に縁起が悪い、皇帝のどちらかに不吉な徴となるという理由で禁止されました。その法律は清代末期(~1912年)の社会が混乱した頃に有名無実化し、その混沌とした中で庶民の間に再び広まるようになったとされています。この頃は、戯劇の伴奏に使われる楽器として発達しました。
清末には上海周辺の江南地方に国楽(中国民族音楽)の教師を職業とする人が現れるようになり、その先駆けとなったのは周少梅でした。周は小中学の教師で、国楽メソッドを考案、この教育から、劉天華、阿炳といった巨匠が出ました。楽器としての二胡には統一された規格がありませんでしたので周は常熟(現在でも蘇州や無錫の楽器工房というと、実際にはそれらの郊外に当る常熟で作られているものが多い)の周万興胡琴店在籍の周荣根、陶洪茂両技師の協力によって二胡を大胆に大型化、改良しました。長さは約70cmで内弦の弦軸は現代二胡の外弦の位置でしたから、現代二胡と比較するとたいへん小さなものです(下の写真は楽器博物館に収蔵されている劉天華が使用していた二胡です)。
蘇州は絹の産地だったことで弦の制作もできましたからそのため弦楽器の製造が発達していったのかもしれず、現在に至って蘇州(上述の通り、実際には常熟)は"世界の楽器工場"になっています。中国では49年に共産党が天下を統一し、その頃にはすでに周囲の世界体制は冷戦に突入していたので英米に敵視され、ソ連とも抗争が絶えない状況で経済は困窮していきした。そこで毛沢東は「大躍進」政策を打ち出すことによって経済の建て直しを計りますが、この大躍進政策の考え方によって当時設立された国営工場が中国の大規模産業の礎となりました。54~57年頃に蘇州、上海、北京、天津に設立された民族楽器厰には、すでに当時名工として知られていた大師たちや後に大家となる生産家らが、生産ラインに並んで製造していたと言われています。王瑞泉、馬乾元、陸林生などです。この頃に二胡の規格化、モデルを決めて同じ物を作るようになりました。その後、文化大革命期(67~76年)には、さらに規格化が前進し二胡は現代の形となりました。
通常、二胡の古楽器と言うと、文革期より前のものを言います。60年代前半ぐらいまでのものです。特徴としては、琴托がない、棹の断面が丸などそれ以外にも個体によって相違は様々です。文革以降の楽器は現代の二胡とほとんど同じです。文革中はというと過渡期ですので様々です。この頃の二胡は毛沢東語録が印字されているものもあります。文革時代に非常に多用されたと言われる「抓革命、促生産」(意訳:革命を擁護し、産出的な国を作ろう)は結構見かけられます。20世紀の中国の歴史は革命に満ちていますが、文革後も市場開放という革命がありました。その影響で二胡にも革命的な変化がありました。もう一つは「要斗私、批修」(意訳:自分自身と闘い、批判して修正しよう)過去とは異なる新しい楽器になっていく過程、音楽そのものも西洋化で変わっていったので、自分自身も積極的に変わっていこうということなのだと思います。
写真は無錫の阿炳博物館にある、巨匠が二泉映月を録音した時の二胡のレプリカです。無錫は、錫劇という地方劇があります。この伴奏に使う二胡は独特で、この阿炳が使ったものはまさにそれです。胴が竹という特徴があります。最近の錫劇二胡は、胴の半分だけ竹ですし琴托も付いていますが、昔のものは付いていません。錫胡と言います。