二胡はあまりにも外観が同じなので不満を感じる人は多くいます。これは人の持つ普通の欲求のようで、今も昔も変わらないようです。
かつては各都市によって二胡の規格が違いましたので多くのバリエーションがありました。文革期頃に国家主導で現在のような形式に統一されましたので以降はだいたい同じ型に統一されているのですが、それ以前の二胡には様々な形がありました。個人の好みも反映することがあったので、骨董などでおもしろい二胡が出てくることもあります。
こんな昔の自由奔放さに比べたら今の二胡は確かにおもしろみはありません。バイオリンと同様、規格を練り上げて統一しています。バイオリンは斉奏でも使われるので統一が必要ですが二胡には不要だったので、かつては規格の統一は考えられていませんでした。文化大革命によって伝統的中華文化が否定されていき、西洋文化礼賛という時代背景もあってバイオリン的統一が進められていきました。
そこで現代でも自由を取り戻そうということで特注してみることは可能です。事実、プロの演奏家の一部の方がいろんな外観の二胡を製作依頼しており、テレビや動画サイトで見ることができます。
これは意外ではありますが簡単に開発できるものではありません。多くの人は世の中の多くの商品が相当な開発期間をかけて作られたものなのを知っていますが、自分が二胡を特注する段になると簡単に良いものが出来てくると考えてしまいます。なぜなら外観ぐらいであれば簡単に変えられるからです。しかし品質を維持するのは簡単ではありません。たとえば上海、蘇州のそれぞれの二胡は外観がほとんど変わらず琴頭の形状が若干違うぐらいですが、それにも関わらず音はずいぶん違います。それぐらいシビアです。そこへ来て全く別のものに変えるというのは並大抵のことではありません。重要なのは外観であって音質ではないという場合はデザインさえできればそんなに難しくはありません。テレビに出るのであれば、マイクを通してエンジニアが加工するから音は必ずしも重要ではないし、後で音だけ別の楽器に差し替えることも可能。そのため外観良ければ全て良し、ということもあります。
しかし特注するということは既成の二胡に何らかの不満があるか、新しい別のものが欲しいということでありますので、かなり明確なヴィジョンが必要です。その上で、工房に住むか、近くに泊まるか、通うかします。或いは試作を重ねます。新規開発なので莫大な費用がかかります。これらのことを踏まえていないと工房を困らせることになります。どうしても自分の芸術を具現化するために我慢ができないという人は少数ながらいます。世間では良くないと言われている方法まで投入して自分が求めている音を作ります。ここまでであれば、多くの犠牲を払う価値はあるかもしれません。
うちの老師は特注の二胡を使っていますが、要求はシンプルで、単に胴を2mm小さくするだけでした。高域に比重を振った二胡が欲しかったからです。しかし胴だけ2mm小さくして完成、という筈もなく、他の部分も調整が必要なのでこれだけでもかなり大変です。金持ちでないとできません。金額のオファーをしなければ工房からは「現行品より悪くなりますよ」と言われます。当然です。現行規格は専門機関が科学的調査に基づいて設定しているからです。それを特定箇所だけ変えるということですから。悪くなると言われて「え?」と言うようであれば、あなたは特注する資格はありません。「わかってます。こんな風になるんでしょ? それが欲しいのです」と言い返すぐらいであれば、工房は作ってくれます。一つの部分を突出させれば他に犠牲が出ますので悪くなります。それが作る前からわかるぐらいでないと話は通りません。失うものはあるが、どうして失っても良いのかまで説明する必要があります。とにかく、かなり詳しくないといけません。二胡は基本的に変更できるところはないぐらい完成しています。特注はそれを崩すことに他なりません。本物の楽器を知っていれば「特注します」は恐れ多くて普通は言えません。
中国製品の場合、我々外国人から見ると、どうしてこんなことをするのだろうと思うことがあります。二胡に関してよくあるのは、なんでシールなんか貼っているのかというものがあります。剥がせばいいので大きな問題ではないのですが、剥がすと型が残るので木材の色が深化してくるまで待つことになります。販売店としては購入者の方とは少し立場が違うので工房に「貼らないで下さい」と言うことになります。だけど小店で販売している一部はまだ貼ってあります。工房が言うことを聞かないからまだ貼ってあるのです。それではもっと強く言うべきでしょうか? よくよく考えて言わないことにしました。楽器という繊細なものは設計図通りに作れば、誰でも同じ音が出るというような単純なものではありません。そうであればどこで差が出るのでしょうか? 製作家の人格だけでなく時代背景や民族性が反映されます。精神論というとかなり曖昧な感じがしますが、どうしてもそういうものが載ってしまいます。中国で(他の国でもそうだっただろうと思いますが)シールというのはかつては高級なものでした。最新の発明だったんですね。だから今でも貼るのですか? それはないでしょう。だけど貼ってしまう、時代についていっていないのです。頭が古いのです。より前進してシールに関する新たな知見を得るべきでしょうか。しかしたかがこれだけのことで音が変わってしまうのです。もちろんシールに護符のような効力が宿っているわけではありません。だけどシールに対する見方を変えることで概念やビジョンになんらかの変化を来すようになります。それだったらシールは貼ってもらわないといかんのです。楽器作りとはこれほどまでに繊細な作業なのです。たかがシール1つでここまで言えるのであれば、他の箇所についてはもっと大きな影響があると考えるのが自然でしょう。製作家が最終的に決定しているデザインは彼の背景や文化を示すものです。彼が目覚めてグローバルな思考を得たら、それもまた外観に彼の背景を示す何らかの違いを生み出すでしょう。そしてそれらの総合的な結果が彼固有の音となり、それが評価されます。そうしますと、ある製作家の楽器を指定しておいて何らかの特注を加えるという行為は実際には彼の楽器を求めていないことになります。シールを剥がして下さいと言ってもそうなりますか? どうでしょうね? 小店では影響が確かにあると考えています。小店は古楽器をやりますのでどうしても特殊な注文を工房に出さなければならないことが多い傾向です。極めて曖昧な音を様々な表現や単語を駆使してあの手この手で細やかに説明します。だけどシールというところまで話が行ってしまうと、こういうものを貼ったぐらいでは理論的に何も変わらないわけですから何の説明もできません。そういう全く説明のつかないものというのが歴然と存在していて、それが人の心の奥底にある何かと密接に関連しているのであれば、そこを意識した時に発注者と製作家の対話は哲学にならざるを得ないのです。これは特注で何とかするというのは不可能だし、人の操作できるものでもないと考えます。