二胡の由来 - 二胡弦堂


古代の二胡の図ウィグル二胡の図  二胡は中国wiki「百度百科」によると、唐代にシルクロードを伝ってやってきました。音楽の発祥は古代オリエント方面で、当時の中東各国の宮廷楽団はユダヤ人で組織されていました。その後ユダヤ商人はシルクロード交易を発明しました(絹の生産を始めたのもユダヤ人)。中華歴代王朝は、煬帝によって建設された運河を整備拡張し、蘇州の絹を長安に運んでいました。水運は南は杭州、北は北京、2つのルートが長安で合流していました。シルクロードの隊商はソロモンが建設したパルミラ発、そこへは地中海の水運でティルス、アンティオキア両港と連結していました。隊商はペルシャを経由してサマルカンドに向かい、そこから敦煌に達すると、両側を高い山に囲まれた天然の回廊を通過、漢中の神秘的な山々を超え、広い平原に出たところ、その真ん中に長安がありました。街道沿いの各駅はユダヤ商人に支配され、終着点の長安にも大きなユダヤコミュニティがあったことが明らかになっています(実際の終着点は日本だったかもしれません)。交易によって多くの異民族と接する彼らは、文化と言葉を超える音楽を使って訪れた地方の人々と交流し、商取引を円滑に進める道具の1つとして楽器を使ったとされています。

 このようにして中華圏に入域した拉弦楽器がどのような変遷を経て現代に至ったのかよくわかっていません。そのため一般には文献に証拠があるものに限定して論じられています。最も古い記述は宋代に宮廷音楽師だった陳暘が著した全200巻の「楽書」の中に「奚琴」として図と共に記載があります。上述の「百度百科」によると北方の奚部族から伝来したとあります。これを「胡琴」と言う、と簡潔に説明されています。詳しくは「元史」(明代元年に編纂開始)に記載されている"胡琴"と呼ばれる二弦の楽器に関する記述の中では弓を以って弦を擦るのは馬尾である、とあります。清代乾隆年間に著された「皇朝通典」にも奚琴が記載されており、これは奚族の楽器だったためにそのように呼ばれ、蒙古の匈奴が奚族を征服した時に匈奴に取り入れられたとされており、そのため二胡はモンゴル方面発祥ともされています。清朝は蒙古の一氏族・女真族による王朝ですが朝鮮と境を接しており、朝鮮には今でも奚琴という楽器が残っています。そのため朝鮮発祥であるとか、満州方面発祥とする学説もあります。皇朝通典にはさらに"番胡琴"なる楽器についても記載があり「胴は椰子、棹は竹」とあります。そして「馬尾は二弦の間に入れる」と説明しています。番胡琴は「奚琴よりも小さい」とあります。番とはおそらく梆(発音が近い)のことでしょう。梆子に使う胡琴で板胡と転じたとすれば、現代の板胡の原型ということになります。またこのような楽器は南方にもあります。

 中国側からみますと、万里の長城を伝ってさらに向こうに異民族の地方に足を踏み入れると、ウィグル族が多く住む土地に入ります。このあたりにある近代に確認された二胡は西から伝播してきたのか、或いは中国から逆流してもたらされたものなのかわかりませんが、一部を除けばよく似ています。はっきりした違いは、ウィグル二胡には共鳴弦が複数あるということです。弦はすべて皮の上を通過していますが、共鳴弦は張っているだけで実際に弓を当てるのは2弦だけで二胡と同じです。劉天華以前の二胡は音域が狭かったと言われていますが、このウィグルの楽器は今でも狭い音域で演奏されます。

 二胡の由来については様々な説がありますが、結局ほとんど正しいのではないかと思われます。シルクロードは絹の交易に用いられたのでこの名称で呼ばれていますが、その終着点は蘇州です。蘇州では現在でも絹が名産です。蘇州は二胡の本場でもあります。

ウィグル二胡の演奏
 古い資料に見られる二胡の中には敦煌の石窟に描かれているものもあります。まるでチェロのように演奏しており、琴頭もチェロのようです。この壁画の時代背景はわかりませんが、莫高窟は4世紀から元代までのものなので、相当古いものです。もしかして最初はこのような形で入ってきたのかもしれません。後の2枚はより後代のものですが、気になるのは棹が非常に細いということです。もちろん古い楽器の全てがこのように細いわけではありませんが、文革ぐらいまでは細棹が多かったので、絹弦時代には一般的だったと思われます。このような楽器に鉄弦を張ると音が抜けない、響かないことがよくあります。

古い文献中の二胡
 音楽はアラブ(地図緑)から2つのルートで東に伝わりました。1つは上述したサマルカンド-敦煌-長安で、それ以外にもう一つのルートとしてインド-東南アジアから中国南部、ここで北方の音楽と混じり合い今度は、中国音楽、インド音楽という異なる文化がカンボジア(クメール)の音楽に影響を及ぼしました。ほとんどの地域で言えることは、宮廷の存在が音楽文化に大きな影響を持っていたということです。比較的安定した王家の存在があれば音楽も発展できたということです。中国の北方と南方の音楽が違うもので、王朝時代から南北別に楽譜の編集がなされていたことを考えると2つの異なったルートの存在は整合性があるように思えます。


 東南アジア音楽の中心になるのは古のクメール王国の音楽です。クメール王国は現代のカンボジア、ラオス、タイのほぼ全域を支配して、現在のシェムリアップに都を置いていました。アンコールワット遺跡群のことです。この時代の音楽はおそらく完全な形では残っていないと思いますが伝承はされてきており、現代でもクメール音楽として演奏されています。この音楽と支流がかつてのクメール王国の領域内に残っています。それ以外にはベトナム南部のチャンパ王国に独自の音楽があり、北ベトナムにも別の音楽があってこちらは中国の朝貢国だったので中国の強い影響を受けているようです。

 アンコールワットより北部、国境を跨いでタイ北東部はイサーンと呼ばれていますが、ここにはケーンと言われる篳篥系の楽器があります。長さの異なる竹のパイプを多数使って音階を作り、銀と銅を混ぜた特殊な配合のリードを使って吹き鳴らします。オルガンと同じ原理でそのサウンドもまさにオルガンのようです。ケーンはカンボジアからラオスに至るまで演奏されていますが、ラオスからイサーンにかけての地域では中国の影響を強く受けていると言われています。

 アンコールワットの宮廷音楽は後にシャム(タイ)王国宮廷に伝わったとされ、現在のバンコクで継承されていますが、形態は幾分変化しています。タイの弦楽では高音と低音で2種の擦弦楽器(Sow)を使いますが、クメールではその中間の1種を使う編成が多いです。楽器の基本構造はいずれも二胡と同じなので二胡奏者であればすぐに演奏できます。タイでは演奏にクメール色を強めたい時にクメール二胡(Tro)を選択することがありますが、タイにある楽器はすべてクメールにもあります。タイで残っている古典楽曲には題名に「クメール」の語が含まれているものが多数あり、そのためクメール古典と認識されていますがタイ独自の発展もしてきたことも理解されています。タイの楽器工房では少数ですがクメール二胡も製造しており、タイ人の中にもこれを愛用する人が結構います。タイの楽器は完成度が高いのでイサーンでも使われることがあります。イサーンでは村毎に手製の二胡が使われており規格も音色もバラバラで統一されていないようですが、バンコクの楽器を持ってきて使った方が良いということでそういう流れもあるようです。イサーンにはピンという楽器もあり、これは3弦エレキギターですが、西洋ギターを参考にして近年導入したもので、ベースはアレンジせずそのまま導入するなど割と他地域のもので自分たちに合うものはすぐに取り入れる傾向があるようです。

 中国の弦楽も省が変われば音楽も変わりますが、東南アジアでも同様に違いがあって、クメール音楽、イサーン音楽、タイ宮廷音楽、チャンパ音楽などの種類があります。タイ音階は7つの音を使い、ピッチの間隔はほぼ均等です。つまり調性は基本的にないことになります。イサーンでは中国の五音階が使われているとされ、クメールでは半音も使って和声を可能にしていますのでこのあたりが大きな違いになっています。

 それが東南アジアの島々にも伝えられたらしいということはジャワの音楽を見るとわかります。ガムランという金属打楽を特徴としており、これは中国の影響です。一方で現地で自生する竹を使った木琴もあり、巨大なものではジェゴグが有名ですが、リンディックという小さな室内楽器もあり、バリ島ウブド市内を歩き回ると、あちこちからリンディックの音が聴こえてきます。リンディックを使うアンサンブルは完成された形式をもっており、リンディック2台がスリン(笛)を支えます。バリの打楽は必ず2台編成、互いに半音違いでチューニングしますので、これは事実上、スリンに対して伴奏を1つ付けたシンプルな形式です。ジャワ島のジャカルタより南方にも保存状態の良い伝統音楽があって、こちらはバリの音楽よりも穏やかです。スンダ人のケチャピスリンという室内楽が知られています。リンディック2台1組にサロン(鉄琴),ケチャピインドゥン(弦琴),スリンという構成です。これはおそらく江南絲竹の影響です。絲竹は福建あたりまで伝播したものが現代まで残っていますが、ポルトガル人の交易などで交流がありましたから、その過程で伝えられたのかもしれません。二胡は朝鮮、クメール宮廷などに伝播しジャワ近辺にもルバブという楽器があります。バリは宗教音楽、スンダは民俗音楽ですが、ジャワ中部には宮廷音楽があり、いずれも個性が異なります。

 チベットの音楽というのは宗教音楽ですが、宗教と同様、音楽もインドの影響を受けています。そしてチベットから中国に渡りました。現在でもチベット仏教関係の建物が北京市内に多数あります。