音を作ることについて - 二胡弦堂

 


 音を構築していくというと大げさですが、一流の演奏家は少し聞くだけで彼とわかる独自の音を持っているものですし、自分でもそういうものが欲しいという人はいます。人によってそれぞれ音に対する好みやそれまでの人生の背景が違うので、独自の違いというものは自然に出るものである筈ですが、そういう要素の中に自分で好きなものと嫌いなものがあったりします。自分の癖で好きなものと嫌いなものがあることもあるということです。そこで嫌いな部分の克服、あるいは改造を目論むわけですが、成功して外部から評価が高まることもあれば、失敗しているのにそれが魅力だったりすることもあります。本人は嫌なのであるが、しかしファンはそこが好きだったりすることもあるということです。この辺の噛み合わせが悪いと演奏生活は順調に行かなかったりもするので、結構難しい問題です。

 音は楽器だけで決まるものではなく、演奏者の身体的特徴も影響を与えたりします。これもまた優れていれば良いというものではないところが難しいところです。それを活かして特徴を作ったり、或いは消したりします。その判断はどういう根拠でなされるのでしょうか。自分の主観でしょうね。多くの場合、明確な理由などはないでしょう。感覚で判断されていきます。或いは何かの真似だったりします。真似を嫌う人もいますが、実際、真似は非常に重要で、何か1つとか決まったものしか真似できないから格好が悪いのであって、多くのものが真似できるのはすごいことだし、それは秘められた目標であるべきです。理論と実践は異なります。口だけで専門家として語る立派な人は多いですが(もちろん評論も立派な仕事です)、実行して結果を出せる人間は多くはありません。この両者は10倍は実力が違います。結果を出せる人間の言うことを一般人が聞くと外国語より訳が分からなかったりします(皆さんは国民栄誉賞を何度も断ったあの凄い人を思い出したに違いありません)。結果を出すことが非常に難しいのであれば、真似して結果を出すことも極めて難しいのです。しかも他人がこれまでの経験を動員して作り上げた何かをコピーするということですから、すごい話なのです。ほとんど不可能です。だけど挑戦することで実行を繰り返し蓄積が積み重ねられ、その結果、新しいものを創造できるようになったりします。やっていないと、口だけの専門家になってしまい、その状態で音作りします。だけど何もかも挑戦実行するのは無理です。それで自分の考えるコアの部分は実行を積み重ね、それ以外は口だけに割り切ります。口だけといってもその範囲が広く深ければ、それは相当な力になります。そういった要素が自分の出す音に対する考え方に影響してきます。

 音に影響を与える基本要素として、楽器、身体以外に環境もあります。部屋とかホールのことです。演奏する場所の響きのことです。これは結構な影響があるので、出張先の演奏場所の響きの特徴に悩まされたりすることもあります。これぐらい大きな影響があるのであれば、普段演奏する場所として決まったところに固定した方が音を確定しやすいということになります。ホームが必要です。実現は難しいので誰しもが用意できるものではありませんが、可能な場合もあると思うので、ホームを確立するという概念は念頭に置いておく必要があります。そうすることで一貫した明確な意図を持った音作りがやりやすくなります。演奏する場所が悪い、いつも違うようだと対応に追われて要らない仕事が増えます。ホームで確立されたサウンドは他の場所に行くと出ませんが、しかし聴衆は何か芯の通ったものがあるのは感じることができます。

 さらに音響を使うようだと検討しなければならない要素が増えます。できればシンプルに、アコースティックで構築するのがベストですが、そういうわけにいかないこともあるし、もとより録音するのであれば音響は避けられません。生音の場合とPAの場合で2通り考え、どちらも共通の特徴を持つように、異なってはいても双子のような密な関連性が得られるように気を配る演奏家もいます。PAでの要素はそのまま録音にも直結してきます。このような挑戦は一見、楽しそうですが、二胡は専門家の手によって音響を通すと最終的に全く違うものが作られてきて、それが世間一般の二胡の音に対する概念とマッチしているということもありますから、かなり複雑なものです。分業することが必ずしも有害ということはないですが、音響専門家に余りにも全てを任せてしまうと、哲学も何もない、そこにあるのは化粧された音だけという罠に陥りやすいのが二胡という楽器で、これはとても難しいところです。もちろん、これは二胡だけではないので、どのような楽器であれ、音響にも注意を払う姿勢はプロの演奏家であれば当然求められてくるところです。

 曖昧な音程が取れるところ、それを善用していくのも二胡の特徴なので、正しい音程にすぐに入らず、ためらいを残しつつ入っていくことや、微妙な出し入れがありますが、今時はすごいソフトがあって、狂った音程をコンピューターで解析して直してしまったりもできます。エンジニアにこの伝家の宝刀を抜かれ、まるっきり違うものができてしまうこともあります。平均律に正しく?修正されてしまったりもします。この辺りはわからない人に幾ら言っても無駄なので、分業は大変なことです。そこで自分の楽器に関しては全部自分で録音することも選択肢になりますが、しかしアンサンブルの場合、自分の二胡のパートのみ個人でやるということが許されるのかどうかという問題もあると思います。多分大概の現場では問題ないですが、しかし1つだけ異質に浮いているという状況が発生する可能性はあります。そのようなことを怖がっていては何も創造できないので、こういう問題に当たったところでどうするかが重要なのですが、チームでやる場合、全体でそういう認識を共有できるかどうかが結局は一番難しいかもしれません。二胡奏者が自身の楽器と音響の関連性についてかなりのことを知っていれば周囲も協力できますが、そうでもなければかなり難しくなってきます。

 同じ弦楽器でも西洋と東洋ではかなり異なるので、音響の観点で二胡をバイオリンと同じように扱うことはできません。この両者は存在意義が異なります。一口にソロと言っても東西でその概念が違い、二胡のソロとバイオリンのそれではかなり意味合いが違います。そのため、二胡は単独で演奏可能で伴奏を必ずしも必要としませんが、バイオリンで無伴奏は稀です。この特徴の違いは音響にかなり影響を与えます。バイオリンはアンサンブルの一部になる楽器であり音はより明快でシンプルだがらソロでも伴奏は要りますが、二胡はより複雑な響きを出すので単独で容易に成立します。バイオリンはサウンドホール付近で集音すれば良いというやり方もありますが、これは考え方にもよるのですが、二胡は花窓付近で集音すればそれだけで良いかというとそうもいきません。そうするとそれだけでバイオリンよりは複雑になってくるし、世間の機材が西洋中心ということも気になってくるようであれば、事態はさらに混迷を深めます。

 そこで中国の機材を考える件については別項で扱っているのでここでは避け、さらに話を最初に関連して戻したいのですが、もう一度流れを確認すると、音を作っていく過程でまず楽器の選定、それと自分の体との響きの具合、そして建物、音響となります。音響で中華のものを選定する目的は中華の音を得るに他ならないのですが、単純にそれで良いのかということも考えておく必要があります。どういうことかというと、確かに中華だったら中華でそういう音は鳴るし、欧州だったら欧州の音、米国だったら米国の音がしますが、使う人によって音は変わることもあり得るということです。

 モダンジャズ黎明期の録音はほとんど、ヴァン・ゲルダーというエンジニアが手がけたことで有名ですが、それと同時に彼が請け負うレコードレーベルによって音が違うということも知られています。同じ人が同じ場所で同じ機材で録音して、同じような人たちが演奏しているのに、レコード会社が違うだけで音が変わるという、不思議な現象ですが、それはおそらくゲルダーがレコード会社の要望を聞いて合わせていたからであろうと推測されます。使う人によって多少変わってくるというのは確かにあると思うのですが、そのことが根本の哲学の違いを感じさせ、それが全く違ったサウンドに感じさせてもしまう、このことは十分に意識していなければならないことです。これは音響機材に対してだけではなく、他の要素に対しても言えることですが、全てにおいて自分の意思が介在されてしまうということです。

 諸要素の選択はもちろん、その扱い方、活かし方においてもです。ですから、音を作るということは、その前に音楽をよく聴くこと、読書をする、見聞を広めるということが重要になってきます。音を作るということは、オリジナリティの確立が目的としてあって、それは競争と関係があったりもするから、どうしてもそういう方向に行って、そればかりになってしまう、何もせずに周りだけが気になってしまう、見苦しいのはわかっていてもその方向にしか行けない事例が多いと思うのですが、実際そんな暇はないのでは?と感じられます。やるべきことに誠実であれば、選ぶものから変わってくると思います。そして音もトータルに考えられるようになり、楽器しか興味がないという、そういう狭い範囲に留まっていることはできなくなってくるのでは?と思います。また、例えば中華の音が欲しいから中華の何かを持ってきて、丸投げ的にやっつけるといったようなこともなくなります。中華の機材は中華の音がする、蘇州の二胡は蘇州の音がするであろう、しかし扱う人によってそれは様々な印象を与え、音を作るといったそんな範囲には収まらない、背後にある哲学までも感じさせる違いを確かに生み出します。音というとどうしても表面的な音色とか感覚的なもので捉えがちですが、音色であればなぜそれを選んだのかという意思こそが本当の音作りであろうと思います。