心理の投影 - 二胡弦堂


 作曲作品には題材があるものがあります。自然や物語などです。女性が中心になっているものもあります。例えば「漢宮秋月」は老いていくことを嘆く宮女の心情を表しています。では女性の方が表現しやすいのでしょうか。それはないでしょう。同性であることで異性よりも理解できることは多い筈ですが、あまりにリアリティがあり過ぎると、こういう題材においては美しくはならないからです。怨念だけになってしまいます。では、男性が表現するとどうなのでしょうか。この場合、割とぴったりくるのは何故なんでしょう。男性の観点からは美化されるからです。それは男性の心情に投影することによってです。世の中が100%女性だったら、この宮女は美しくありません。男性の憐れみによって儚い美しさを得ています。ですから投影されたものを理解しないと、この種の作品は演奏できませんし美しくもありません。

 広東音楽にも似たような作品で「昭君怨」があります。政略結婚で蒙古に送られる昭君の怒りや恐れ、絶望とは対照を成す華やかな行列が長安を発つ様子が描かれています。煌きに毒気を含ませることで独特の美しさを引き出しています。これも男性目線で美化されています。「双声恨」は別れる直前の男女の会話ですが、音楽だけなので具体的な会話の内容は推測に任されています。互いに敬意を失っていないのに行き違いで穏やかな口論になり悲しく別れるという、広東音楽というのはどうしてこういう変な題材ばかり持ってくるのかと思うぐらいですが、これは本当は別れたくない男性の心情を表しています。女性の方はよくわかりません。現実の女性もよくわからない場合が多いです。女性からするとそうではないのでしょうが、男性目線ですからそうなるわけです。男の方ははっきりしているのですが、女性は最後まで何だったのかよくわからないということが多々ありますね(逆もある?)。だからこういう作品が共感されるのです。この視点は例外もありますが基本的には世界的な傾向です。作曲家がほとんど男性だからでしょう。現代のポピュラー音楽になるとまた事情が違うでしょう。

 それでは女性は古典作品をどのように表現すれば良いのでしょうか。簡単ではないように思われます。諸作は男性の心情に投影されるわけですから男性を理解すべきでしょうか。それも無理があるでしょう。男女はあまりにも違いますから。男女はそれぞれ欠けていて、合わさることで完美になりますから、欠けたところを埋めるのは現実的ではありません。誰かがノーベル賞を取ったら、人々はまず「奥様はどんな方ですか?」と質問します。それで記者会見ではたいてい奥様も同席されます。「夫は家ではどうですか?」などと質問され「寝てばかり」「研究しか考えていない」などと愚痴を言います。しかし国民は、奥様の内助の功があったからだと解釈します。しかし正直なところ、夫としては問題はあるんでしょうね。ノーベル賞を取らなかったら、と考えることもできます。しかし奥様がおられなければ何かを達成するのは難しいというのも確かなのでしょう。その欠けたところは男性だけでは埋められません。

 ユリウス・カエサルは議会運営や軍の統率に関して難しい問題にあたった時は、必ず母に相談していました。カエサル自身は当時の地中海世界で最高の知識人、印刷のない時代に本を買うのに莫大な借金を抱えていたぐらいでした(当時は巻物だったので現代的な本はありませんでした。冊子本を発明したのはユリウス・カエサルでした。このことから彼の読書愛が如何に大きかったか窺えます)。それぐらいの知識人でしたが、それでも母には相談していました。男性は集団の中での各個人の心理を読むのが難しいです。ですから必ず女性に聞かないとわかりません。女性にとっては簡単なことです。こういう関係性はサスペンスで使われることもあります。袋小路に迷い込んだ杉下右京が晩酌で奥様か記者の女性?に相談するシーンがあります。「それは違うんじゃないかしら?」から始まってそこからパズルのピースが一致してゆくという展開です。微妙な人間心理に関することです。現代の我々もそういう不得意な分野については同僚に聞くのですが「フフ、あなたわからないの? かわいいのね」などとからかわれたりします。男女は脳の構造にかなり差があります。そして答えを聞いてもまだわかりません。なぜ?が多いです。理解するまで質問を幾つかせねばならないケースが多いです。それぐらい男性にとって人間心理は難しいです。ロジックでは決してわかりません。母が亡くなって、カエサルは暗殺されました。敵には腹心のブルータスもいました。「ブルータス、お前もか」という言葉を最後に残して死にました。母が生きていたら、このようなことにはなっていなかったでしょう。男女の思考はこれぐらい違います。男性は最高の哲学者になっても女性が持っているものを手に入れることはできません。逆もまた然りです。

 それでは、男性の心理に投影されたものを女性が表現するのはどうすれば良いのでしょうか。過去の偉大な人々、女性はほとんどピアニストなのでしょうか、歌手だとマリア・カラス、音楽以外では例えば与謝野晶子などがいますが、彼女らに共通するものは何なのでしょうか。特徴としては、まず女性としてかなり自信があります。女に徹しているという特徴があります。男性的な自信ではありません。女性として、です。男とは別だと線を引いています。そして勝ち気です。前から思っていたことですが、女流の将棋は何であんなに激しいのでしょう? なぜあんなに激しい順ばかりを選ぶのでしょう? 振り飛車が多いのはそのためかと。基本概念がとりあえず相手と互角に刺し違えさえすれば勝ちというものだから。女性は結婚したら落ち着きますが、独身は激しいです。女性演奏家というのは昔から結婚したら駄目になると言われてきました。ストラヴィンスキーの傑作「春の祭典」の中の生贄の踊りは、少女が死ぬまで神の前で踊り続けるという異教の祭祀を題材にしたもので、狂気に近い女性特有の激しさが表現されています。こういう感じが高く評価?されてきた背景で、その持ち味を最大限引き出すために作曲されたものでしょう。少女のまんま大人になった人というのが、評価されやすい条件の1つです。

 女性演奏家というテーマは難しいです。演奏を理解するのも難しい、男性にはない独特の精神性があります。十分にわかってはいないという前提で言えることがあるとすれば、ヨハンナ・マルツィでしょうね。女性演奏家の究極の姿の1つではないでしょうか。バイオリニストですがハンガリー人、20世紀前半の世界でこの要素は大きかったでしょう。当時、欧州全域でのハンガリー文化の影響は大きく、ブラームスもハンガリー系の作品を書いています。ハンガリー音楽はジプシー系です。インドがルーツです。質の高い源流を土台にしています。パリで成功したフバイが自身のルーツの基で活動したいと考え、ブダペスト音楽院に移籍したことを見てもハンガリー音楽の求心力が窺えます。この人は欧州演奏旅行でピアニストにあのフランツ・リスト(この人もハンガリー人。ブダペスト国際空港の名称は彼の名を当てているが、ハンガリーでは姓名の順で表記するので「リスト・フランツ国際空港」)を帯同していたぐらいの奏者です。フバイによって確立されたハンガリー・バイオリン楽派からの出身者はやがて欧州を制しました。マルツィがフバイに学ぶことができたのは2つ目の幸運だったでしょう。マルツィは死後評価された人なので生前は無名でした。しかし夫は彼女のファンだったと思われ、夫が購入した名器ベルゴンツィを生涯演奏し続けました。夫からの無条件の支持、これは3つ目の幸運でしょう。こういう要素が彼女を類例のない存在として記憶させたのではないかと思います。マルツィの演奏では、バッハの無伴奏バイオリンソナタ&パルティータが有名なので、その中からの抜粋でシャコンヌをご紹介します。

 バッハは自分自身を投影する鏡です。それまでの生き方が投影されます。技術的には演奏できたとしても人前で、ましてや録音ともなるとそう踏み込めるものではありません。人々が「聖典」「啓示」などと称賛してやまない、あのカザルスの無伴奏でさえ、楽譜の発見から録音まで数十年を要した程です。誰しも後ろめたいことというのはあるものだから、このような恐ろしいものを演奏して、俗なる自分自身を世間に開帳して恥をかきたいとは思わないものです。演奏よりまず生き方の点検からせねばならないという、宗教家にならないといけない、それで十分なのかもわからない、かなりたいへんなものです。ここでもやはり投影であることに注目して下さい。

 マルティの演奏は一見、女性のものには聞こえない端正なものです。女性的なものは前面に出していません。それは既婚だからでしょう。フバイの下で学んだ高い教養と夫の愛情が精神的な落ち着きに繋がったのではないかと思います。切れることのない集中力と静けさの中に感じさせる熱量、これは女性的とも言えるし、ジプシーの影響なのか高い次元で結実し、それを古風なロマンティシズムでなぞってゆく、男性ではこのタイプはいないのではないかというぐらい個性があります。文化的な背景は女性の場合は特に重要になりそうです。また女性で精神的に安定というのはかなり難しいことです。特に20,30代の若い女性は難しく、個人差もありますが、すぐさっきまで笑っていたのに突然難癖をつけて人を叩いたり泣いたりします。男性は心理が安定しているので女性にもそれを適用しようとする傾向がありますがそれは無理、女性は気持ちが常に流れていないといけません。常に良い方向に流してコントロールすることで結果的に安定を得るということですから男性とは違います。そのため、音楽の表現も変わってきます。自分自身が適切に配偶者に投影されていないと安定は得られません。

 そもそも音楽というのは、男女というものがわかっている前提で、男性中心です。女性が主役であっても夫を待ち続けて悲しみの中で死んでいく蝶々夫人のようなものは、女性から見たら「ほっておけば?」となりますね。なぜ? 共感は難しいようです。アッタヴァンティ侯爵夫人の方が同情はできるのですが、この役柄はあまりにイメージ的で固有の人格を感じさせません。リューともなると、男性から見るから可愛そうとなるわけで、女性は感心しないのではないでしょうか。興味がそちらではなく女性はカラフの薄情さに腹がたつようですが、男性からするとカラフはどうでもいい、人間というのは同性には興味は薄いのでしょう。だけどメゾ・ソプラノだったらリューはカルメンなどと並んで絶対にやりたい役柄のようです。リューは女性というよりもキリスト教圏の救世主の概念を体現しているので性別に関係なく魅力があるのでしょう。救世主は心理を投影しやすい対象です。イタリアというと職人の国なので、伴奏1つとっても、やはりそこは至芸というものを感じさせます。まず第一に思い出されるのはトゥリオ・セラフィン(Tullio Serafin, 1878-1968)です。セラフィンの功績としてマリア・カラス(Maria Callas, 1923-1977)を鍛えたことは有名です。その愛弟子を王女に立ててのトゥーランドット全曲を1957年に録音していますが、その前、1954年に抜粋でリューを録音しています。

 ろうそくように消え入りそうなリューの心の淡いゆらめきに木管群が寄り添っています。そこに感情はない、無があります。弦は絶望を代弁しています。弱々しい弦のピチカートは消え入りそうな生命に僅かに残された喜びを表現しています。それが大きくなってそして果てます。哲学のような演奏です。史上最高のリューの一人とされているのは、レナータ・スコットです。モリナーリ=プラデッリの伴奏ですが、これも素晴らしいです。無駄なものは何も感じさせません。そこにある物語しかありません。1999年 北京・紫禁城ライブのバルバラ・フリットリさんも理想的です(同じ箇所は1:32:20)。これ以上のリューがあるとは思えない程の素晴らしい出来です。とにかくイタリア人によるリューは違和感がありません。

 外国人の場合は違和感が多少なりともあります。マリア・カラスはギリシャ人だったので近いのですが、それでも完全にフィットしてはいません。女性は男性以上に、生まれた土地の文化から受ける影響が大きいように思います。男声の場合はこういう適合の話はあまり出ません。カラフと皇帝はどちらもテノールなので交代したとしても衣装を交換すればいけそうです。ポン、パンでもいけるのではないですか。女性はそういうわけにいきません。

 日本の文化を十分に身に着けて何をするにもそれを土台にした女性になると外国のものには適合しにくくなりますが、かといってそうしないのもすべてにおいて中途半端になるという難しさがあります。文化に投影されている必要が強いということです。二重国籍とかコスモポリタンの女性においても自身の原点を探ることが必要になる傾向があります。男性は本質的に客観的ですが、女性は主観中心だからでしょう。もちろん男性においても自身のアイデンティティが確立されているべきですが、女性の場合はまた異なる重要性があるということです。

 芸術表現の多くは男性心理に投影されていますが、女性は自身のルーツに投影してそれを通してでないと説得力のあるものは作れない傾向がありそうです。

 女性の場合、無条件で支持してくれる人を求める傾向があります。男性もそうかもしれません。しかし男性は支持しない人の意見も聞く、むしろその方をよく聞くという人もいます。仮に批判が言いがかりであっても、何もないのにそういうものは出てきません。そこから何かの緒を探ろうとします。女性でそういう人は少ない傾向です。主観主義だからでしょう。こういう内容に触れるのもタブーです。

 男性についても少しお話しましょう。演奏芸術を創造するためには男女に関する心理の投影というものは避けられないので頻出します。右の写真の例は、割と若い時のカルロス・クライバー(Carlos Kleiber、1930-2004)が、あるオペレッタ作品をどのように演奏すべきかを説明しているものです。現れる空想上の美女は脚が長くないといけないわけではない筈ですが、ここで言っているのは音を細く、しかし艶かしさと健全性も必要であるということを示すためですから、イメージとしてはやはり脚は長くないといけないのでしょう。難しいことなので例えを使っています。そしてその美女は見下ろしてこちらを見ています。それがより美しく見えるらしい・・。恋愛をしていないと思いつかない表現です。女性だとこういう感じにはならないでしょうね。この方はもう亡くなっているのですが、この映像よりもっと歳をとった時にウィーンの舞踏会に招かれたのを見たことがあります。舞踏会ですから奥様と参加します。ところが腕を組んで出てきた時にはなぜか顔が真っ赤でおそらくワインをかなり飲んで入ってきたものと思われます。奥様にくっついて離れないという感じであったが、奥様は慣れているようで平然としていました。奥様が亡くなられたら後を追うように彼も亡くなり、奥様の故郷スロベニアのリュブリャナに葬られました。ご本人は故郷というものがない、お母様がユダヤ人だったのでナチスを避けてアルゼンチンのブエノスアイレスに移り、彼もそこで育ちました。戦後はドイツに戻りました。戦争がなければ故郷はベルリンの筈ですが、生涯のほとんどを外人居留者として過ごしました。奥様はバレリーナだったので元より脚は細かったでしょうけれども、歳をとってもかなり痩せていました。あの感じだと奥様が面倒を見ているという雰囲気なので見降ろされていたのではないですか。この写真はYouTubeにアップされている映像からのキャプチャーなので演奏者の皆さんも映っていたのですが、ニヤニヤしていたので同じことを考えていた筈です。ブエノスアイレスはタンゴの総本山ですから、そこで育ってドイツ人ではなくなっているのでは?とも思ったかもしれません。ある箇所で伴奏は被らないように前に出ないようにと指示しています。客観性を求めています。そうすると主奏は浮きます。旋律は美女そのものだと、唯一無二の存在として表現するために他を混ぜない、こんなことは恋愛をしていないと思いつきません。涙を示す旋律に対しては「嘘の涙」だと。だけど彼女にとっては真実だと。涙が流れているのだから。女性特有の面倒くささを表現するよう求めています。こういうのは男性は好きです。だから演奏する人たちもこの例えでよくわかります。男性の心理に投影されて表現されています。

 不倫は芸の肥やしである、などと言う人もいます。本当でしょうか。身近な人すら大事にできないのに歴史に残るものを創造できるのでしょうか。しかしいろんなものがあるのでしょうね。いずれにしても幸福を描写するものではありません。歪んだ結婚観で失敗した人生の逃避先を見つけて傷を労っていることが共感されているに過ぎません。テレサ・テンは中国では党が推奨する生き方ではないとして禁止されていましたが、まとまな考え方ではないでしょうか。そんなことを言っていたらお固い人間になるのでしょうか。であれば、この写真の方はどうですか。こちらの方が健全ではないでしょうか。恋愛と結婚は別という考え方もあります。しかし本稿の流れを見ると、それはない、少なくともそういうことでは説得力のある演奏家になるのは難しいでしょう。割り切ったらその分、質が低下するのは避けられません。これは男性、女性に関わりなく重要なことでしょう。物事に向き合う姿勢の濃度に影響があります。