中国伝統音楽の分類 - 二胡弦堂


00 . 中国民族音楽分布概論
 地図は唐代初期の版図を示していますが、中国音楽というのは結局のところ円で囲ったあたり、蘇州(苏州)ー南京ー洛陽(东都)ー長安(西京)のみでほとんど語り尽くせると言っても良い程です。そしてそれは北音と南音に分類されています。シルクロードは長安が東の果てです。紀元605年に隋の煬帝が黄河など天然の河川と運河で杭州から長安までを水運路で繋いでおり、そのため西域からの商人は長安で絹製品を調達できたからです。中国の核となるのはこの絹の交易路上、ここが中心で、音楽も同様でした。

中国伝統音楽境界

01 . 二胡発祥の地は二胡芸術のゆりかご ~ 江南
   <江南絲竹>
    蘇州は絹の産地、大きな経済力によって文化も発展しました。さらに外国が近隣の上海に租界を開き、文化が流入してきたことで、近代まで中心的影響力がありました。

02 . 古代演劇は長江を遡り花火のように散って残光を留める ~ 南戯
   <蘇州・崑劇>
   <蘇州・弾詞>
   <上海・申曲>
   <無錫・錫劇>
   <紹興・越劇>
   <安徽・黄梅戯>
   <湖南・花鼓戯>
    南方の文化は長江という水運の大動脈沿いに伝わり発展しましたが、蘇州の力が強かったのでその強い影響下にあります。江南絲竹、中国最古の戯劇とされる崑曲はいずれも蘇州ですが、その原点は遠く雲南、四川にまで遡ります。蘇州、杭州はシルクロード交易で栄華を極め「天に極楽あれば、地に蘇州杭州有り」とさえ言われましたが、そのような豊かな環境で音楽文化も花開き、それがまた長江を遡って非常に強い影響を与えました。

江南伝統音楽境界
03 . 小型に改良された二胡は広州・香港へ ~ 広東
    水路が重要ということではさらに南方の広州も同様でした。海側は倭寇(日本海賊)の跋扈で鎖国(海禁)、陸路も主要河川がなかったことで中央政府の干渉をほとんど受けることがありませんでしたが、このような中で国家の決定に反して倭寇(事実上、海上警察であるがマフィア)と結び密貿易によって繁栄しました。その後、1684年康煕年間に海禁が解除され、次いで1757年乾隆年間に欧州諸国との通商独占権を得ると欧州の物資は広州を経由してもたらされるようになりました。日本から琉球(古代では台湾も含む。地図上では流求)を通り東南アジアに向う交易路に位置していた地の利を活かし、それと共に音楽文化も交流がありましたので高度に発展しました。広州から上海(蘇州)に至る海上ルートにはマカオ、アモイ、福州、寧波といった有力な通商都市がありこれら海路を伝ってジャンク船によって物資のやりとりが行われていました。台湾対岸の泉州あたりには江南絲竹の影響も受けた音楽がありましたので北方との交易によって伝播したものと考えられます。大型の交易船が広州に入るとその物資が海運で北へと送られていたことと、広州が西洋諸国との交易を独占し、寧波は江南に近いという立地性の為、利益が大きい江戸幕府との交易をほぼ独占していたことを併せて考えると、広州と寧波は豪商・財閥が主で、一方この両都市に挟まれた福建の沿岸部の諸都市が小商多数だった理由が理解できますし、福建人の多くがさらに大きな商いを求めて華僑になっていった理由も理解できます。ここに福建にもたらされた絲竹がそこから東南アジアに伝播していった流れを見ることができます。

04 . シルクロードより渡来した芸術は双子を生み出す ~ 北戯
   <秦腔>
   <眉戸>
   <河北梆子>
   <評劇>
   <晋劇(山西梆子)>
   <山東梆子>
   <豫劇>
平原図     西域からの商人が山深いシルクロードを通過して中国に達すると突然広い平原に出ます。平原の真ん中に長安があります。しかし長安に達する前、平原の入り口にも集落(上の地図では岐州,凤州)があります(地図青い点線部分)。 秦腔の発祥はここであり、これを以て北戯(梆子)の原点だとされています。これがまた黄河を伝って流域に伝播しました。また、この地域に伝承が謎とされている眉戸もあります。秦腔と眉戸、剛と柔、実に対照的ですが、強い影響力を持ちながらも混じり合うことはなかった2つの音楽が、古代中国の中心、中原、司隷(隷とは奴隷の隷ですが、この文字の元の由来は「神によって任命され民に奉仕する」という意味があります。中国歴代皇帝は天子とされていました)とも呼ばれた地域の源流でした。

05 . 古代詩は曲を伴って民に受け継がれる ~ 民歌
    中国最初の王朝・夏は滅亡後に支配層が北方へ逃れ匈奴と呼ばれるようになりました。中国で最も古い貴族であった人々の中に伝承してきた音楽が民謡として伝わり、これを以て中国民謡の発祥地とされています。これを信天游と言います。戯劇と民謡、この2つが絡み合いながら地方独自の風格を育んだのが北音の特徴です。

06 . 南北の戯劇は都で融合して煌めく ~ 北京
   <京劇>
    約200年前に南方から移転されて独自に発展した京劇(北京)は特殊な存在と言えます。どこにおいても商業と音楽が密接な関係なのに、京劇だけ全く貴族的な理由で伝播したからです。京劇の最初の班は湖北省から移転した漢劇団で、漢劇は秦腔より派生して漢中に起こりその後武漢方面に伝播した西皮腔と長江流域で発生した二黄腔が合わさったもので、この特徴は京劇にも受け継がれています。清代初期に湖北省に軍の駐屯地が置かれ、その後平和な安定期に入ったことで軍人によって各地に伝播し、川劇(四川)、滇劇(雲南)、桂劇(桂林)、湘劇(長沙)、粤劇(広州)などに影響を及ぼしました。シルクロードより四川雲南に抜けた伝播ルートもありましたので、武漢ルート、蘇州ルートと併せて、南北に3つのルートがあったことにもなります。

07 . 草原の楽士たちの調べは万里の長城をも超える ~ 蒙古・満州
   <二人台>
   <二人轉正戯>
    洛陽や許昌あたり平原の大都市では秦腔の強い影響がありますが、それより北方の山間部では民謡の力が強く、それが蒙古・満州に至るとそれぞれ二人台(蒙古)、二人轉正戯(満州)と男女デュエット形式に発展しました。満州音楽の由来は渤海楽と言うもので、中原伝来、朝鮮、日本の音楽から影響を受けているとされています。

 黄河と長江間、長江と広東間の空白地帯には目ぼしいものはほとんどありません。長安北方、万里長城外は寧夏ですがここにもありません。チベットは打楽中心です。経済的に豊かでなければ求心力のある文化は生まれず、何も留まらず、何の影響も与えません。音は小判をはたいて産み出され、金に乗って運ばれます。人が生きていくのに必ずしも必要ではない音楽という芸術に専心するためにはその基礎として経済力が不可欠ということでしょうね。これは個人の経済力ではなく、地域の経済と密接な関係があるということも興味深い点です。

 一般に二胡で古典と言う場合、劉天華或いは阿炳あたりになります。それより古いものとなると周少梅ですが、それ以前は各地域に二弦の楽器が散在していただけで、主に戯劇の中にその用法を見いだせるに限られます。劉天華は二胡を古典から脱却させようとした人物なのでこれを以て古典とするのはいささか躊躇いが感じられなくもありませんが(これは周少梅についても言えます)、そのあたりから始まりとするのが妥当であるというのが、中国音楽史の研究者 楊陰瀏の見解です。そこで現代に整理されている二胡伝統芸術について歴史的な部分を整理しておきます。

08 . 中国民族音楽教育の先駆者 周少梅とその継承者たち(1920年代-1950年代)
    民謡、戯劇、地方器楽など地域によって固有のものがあり、これら全体像の中から周少梅(1885-1938)によって民族音楽メソッドが整備されました。周は盲人の孫文明と共に二胡演奏技法を確立しました。周少梅の門下から出た劉天華(1895-1932)が西洋文化を取り入れて発展させました。劉の孫弟子にあたる俞鵬(1917-46)によって発表された「南胡創作曲集」(1946)は、それまで文曲中心だった二胡のレパートリーに速い曲調の武曲を加える先駆けとなった曲集で後代に大きな影響を与えました。

09 . 新時代の音楽 - 第4届 上海之春音楽祭(1963年-) を経て文革以降へ
    二胡が現代のような地位を確立したのはこの音楽祭以降です。当時の人物や作品は後にスタンダードになっていきました。楽器の構造もこの頃に現代の姿に変えていかれ、弦も絹からスチールに変わりました。

 これら20世紀の3つのカテゴリーはそれ以前のカテゴリーより後代、しかし以前の伝統を土台にしています。さらに20世紀には他にもう一つ重要なカテゴリーがあります。そしてより古い時代の作品、外国作品にも目を向けることもできます。

10 . "第三の目"で音楽を俯瞰する 盲目の演奏家たち
    周少梅と共に二胡を第3把まで音域を広げたのは盲目の孫文明でした。周少梅が輩出した最も偉大な演奏家として記憶されているのも盲目の華彦鈞(阿炳)でした。盲人の音楽は独特の様式があって、それは如何に健常者と交流しようとも失われることのない独自性があります。時代背景の影響も受けにくい特徴があります。

11 . 古曲の宝典 九宮大成
    清代まで宮廷で編纂されていた楽譜集です。その時代までの中国音楽と言われるものは余すところなく所収されているという極めて大規模なものです。それでもここに二胡独奏用の作品はありません。ほとんどが歌曲或いは戯劇です。

愈求愈深,愈深愈広,愈広愈深。研習之深度克窮,相関之広度亦無尽。 - 楊陰瀏

12 . 遠くウィグルへ! もう一つの弦楽器の聖地 西洋 ~ ウィグル・西洋
    外国作品はそれぞれの国で流儀があります。しかし中国には東洋独特の感性があり、それを土台にして外国作品を捉えるということもあります。こうした観点は、中国は古来より伝統的に「西域」というエリアを抱えていたことと関係があるのかもしれません。シルクロードはユーラシア大陸の大動脈、中国から見た場合その入り口だったウィグルは極めて重要な地域だったことで、数千年に亘って異民族と領有が争われてきました。文化的には中東ですので外国です。西域を通して異質の文化を見つめてきた漢民族にとって、その延長で西洋の音楽をも見ることに違和感はないのかもしれません。

13 . 灼熱の地で輝く東洋弦楽器の声 ~ 東南アジア
    アジア音楽、というと馴染みのない言葉ですが、それは中東・インド、東南アジア、極東でそれぞれ大きく異なっているからだろうと思います。我々が取り組んでいるのは極東ですが、もう一つ、できれば東南アジアにも目を向けたいところです。なぜなら、古来より二胡は東南アジアに伝播し、その結果、中国ではすでに失われた弦楽器の伝統がまだ残っているからです。

14 . 島々にひっそりと宿る東洋芸術の化石 ~ 琉球・朝鮮・日本
    琉球と朝鮮は長らく異民族の支配を受けて来た地域で、朝貢対策のために文化芸能の振興に熱心だったことが知られています。両国の特徴は全く異なっていますが、それぞれ独自に弦楽器の伝統があります。日本にも胡弓があって現在では主に富山で伝承されています。

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