二胡は生涯に何把買えば良いでしょうか? - 二胡弦堂


 二胡の寿命は人の寿命と同じであると言われています。実際には使い方は所有者次第ですから、二胡の寿命を規定するのは無理ですが。しかしこれはそういう現実論ではなく、より概念的なものだろうと思います。

 もう少し具体的には例えば、ある若い人が新品の二胡を買い、それを死ぬまで使ったら二胡はどうなるかということになります。この寿命の問題で論じられている二胡というのは、もともと現代二胡のことではありません。昔の奏者は劉天華のような巨匠でもそうですが、1把買ったらそれしか使わなかったようで、複数の二胡を買い求めるという概念もなかったようです。二胡は使ってしばらくすると音が変化しますので調整をせずに使い続けるのは好ましくありません。蛇皮のコンディションが変わるからで、これは駒を削るなど色んな方法で対処します。音が悪い状態で鳴らすと楽器自体の音も悪くなるので変化に合わせて環境を整備する必要があります。こうして楽器の移ろいを味わいつつ、共に年老いて朽ちていきます。朽ちるのはもちろん蛇皮です。蛇皮は二胡の命なので、二胡と同義で扱われています。二胡と人の寿命はこういう観点からほとんど同じだと言われています。実際にはもっと使えますが、その蛇皮をよく知っている人が亡くなれば、その楽器の最も相応しい理想の音の概念も失われます。それでその楽器はそういう意味で"死ぬ"のです。所有者と共に。

 文革以前の二胡は都市によって違い、つまり戯劇が各都市で違ったのでそれに合わせた楽器が作られ、主に戯劇の伴奏、歌唱の伴奏用として使われていました。そうすると種類は豊富ですが、選択肢はないという一見奇妙な状況になります。演奏者は自分の生まれた地方の二胡を拉いて、別の地域のものを使ってみるということはほとんどなかったようだからです。こういう状況であれば昔の奏者が1把の二胡だけで生涯を通すのは理解できます。

 現代でも同じ考え方で蘇州二胡を選んだなら生涯それで、或いは北京二胡ならそれ、と1把で通すのは何も問題ないだろうと思います。しかしそれでも多くの奏者は数把持っています。もし、自分の二胡に対して何の疑問も感じず満足していれば、1把以上求める必要を感じない筈です。あまりにも満足し過ぎて、さらなる探求のために次の二胡に手を出すのか、不満な場合ももちろんあるでしょうけれど、日本人の場合はどんな理由であれ2把目を求める場合が多いと思います。なぜなら「最高の二胡が欲しい」とか「もっと違う世界もあるかもしれない」という他国ではないような探究心を持っているしからです。日本独特だと思います。自分にとって最良の二胡は、おそらく1把買っただけではわかりません。非常に幅広い理解があるから、自分の持っているものは何なのか解るわけで、これまで1把しか買ったことのない人に幅広い理解なんてあり得ません。販売業者であれば別だろうと思うかもしれませんが、そんなことはありません。麻雀とか碁でもそうですが、強くなろうと思ったら、互いにいくばくかの金を傍らに置いて博打をするべきなどと言われます(違法ですのでお勧めするものではありません)。それと一緒で理解というのは使った金額に比例します。メンタルが重要なのです。自分がこれだけのものを払って買ったという。そうでないとなかなか対象のものに対してガチで向かい合えない、貰ったものだと軽くいなしてしまうことがありがちだということです。そういうことを経て最終的に1把に絞り込めるということはあるかもしれませんが、最初から結論が出た人というのはとりあえず今のところは見たことがありません。

 それと別の問題として、いつも同じ楽器を使っていたら理解が深まるのかと思いきや、逆にわからなくなることの方が多いということもあります。欲望がなければそれでも問題はありませんが、常に「これは最良か」と自問する人には絶え難いと感じられることがあります。二胡は湿度や気候によるものなのか、日によって機嫌が悪いこともあるので、そういう場合は休ませて別のものを使うということは、複数持っているのであればよくあると思います。楽器も徐々に音が変化してきますし、そういう対比の中で理解が深まりやすくなりますが、比較対象を自前で持っていなければ何年経っても自分の求める音すらわかって来ないということはあります。本当は自分自身の中で明確なイメージがないといけないのですが、日本人と中国人では根本的な概念から違うし、日本人がイメージしているそのままの二胡はないと思います。そもそも中国の伝統に基づいて作られているものが日本人に全く疑問の余地なく受け入れられるのであれば、それは中国人から見れば駄作でしょう。どういったものを二胡の音と看做すのか、地域によって様々なものがあるだけに、1把しか持っていない、或いは使っているものが1把しかないという場合は全体像が掴めないことになりがちです。そういう方は、これまでうちに結構な人数来られましたが、これらの方は例外なく、ここで書いてあるような問題があるとあらかじめ申告してから来られます。何か質問したわけではありません。自主的に言われます。それで楽器を見られますが、よく振り返って考えてみると、それらの方で楽器を買われた方はこれまで一名もおられないと思います。もちろん、これらの皆さんは他の店に行っても同じように決定しますので、ずっと1把しか持っていない状態を維持し続けます。それらの方々が持ち込まれた「どこどこで買って音が悪い」と言われる楽器を「全然悪くないんだけど」と言ってまともに鳴るように調整して帰っていただいていますが、皆さんはこの服務に非常に満足して帰られますが、これはおかしいですよね? 二胡の音は変わりますので、自分でできないのであれば数ヶ月後また同じ問題が出てきます。だからまた来られたりしますが、いい加減わかったかな?と思ったらまた大喜びで帰られるのです。数ヶ月後はどうするんだろ? というより毎日面倒見れなかったらずっとおかしいままなんです。だけど問題が解決できないのでしょうがないのです。なんで解決できないかというと、それは比較対象を持っていないからです。それと老師が助けないということもあるのです。触って何かあると責任を持たされるからのようです。また進歩する気がない人を援助するのは老師の仕事ではありません。いろいろあって放置している老師が多いです。日本独特の問題ですね。中国だとありえないです。鳴りが悪いと老師が手なづけてから返してきます。毎回そんな感じだと、そのうちわかってくるのですが、放置されているとわかりませんね。数把あれば比較でわかることもあるし、老師とか周りの付き合いでわかってくることもあると思うのですが、そういうものが全くないとかなり難しいと思います。最低限、本当に良い二胡が2把もあれば自分が成長でき、そのことによってすでに持っている二胡のコンディションも良好に保ち、これまで見たことのない二胡もそれなりに評価できると思います。弦堂自身は個性がぜんぜん違う二胡を4把廻していますが、最低ラインは2把だと思います。昔の奏者は1把ということでしたが、こういう人たちは狭いコミュニティの中で、学習というのではなくて、初めから村とか地域の冠婚葬祭に貢献するのが目的で、我々は彼らのように自分の二胡に合うように駒を削ったり、年長者から「それは駄目だ」と言われて彼に頼んで削って貰ったり、楽器を少しの間交換したり 、楽器の調整を教えてくれる老師がいたりということはないと思います。環境が違うと思います。凄く良いものだが、個性が違うものを2把は持つという方法論は、多くの問題を解決すると理解して下さい。

 実際、広い中国の様々な音楽を演奏しようとすれば1把では難しいということはあるかもしれません。かつて昔の中国人は自分の生まれ育った地域の音楽を演奏するために、1つの方法として二胡を手にしたかもしれませんが、別の地域の異なる音楽や、ましてや外国の音楽まで演奏することは少なかったに違いありません。蘇州・上海二胡は、江南地方の音楽を演奏するには非常に適しているかもしれませんが、中国北方の音楽には合わないことが多いと思います。北方の多くの音楽は板胡を使って演奏されますが、これらの音楽を蘇州や上海の二胡で演奏するのは違和感がどうしてもあります。広東音楽は元々バイオリンが使われていましたが、二胡を導入する際に、上海で小さく改造して高胡というものを作りました。これも江南音楽と広東音楽の相違を示すものと言えるのかもしれません。さらに最近では二胡で西洋音楽も演奏されるので、あらゆる音楽を演奏しようと思った場合、二胡が1把だけしかなければ、対応しにくいということはあると思います。それでもそれを承知で1把に絞る場合は、北京六角二胡が良いと思います。

 しかし1把しかなければ、その楽器が調子が悪い時にも鳴らさなければならないということがリスクだということを受け入れる必要があります。私は老師の家に行く時には1把しか持っていきませんが、その時点でその二胡の調子なんて知る由もありません。だから、非常に悪い時があります。その時は老師が手なずけます。プロ奏者であればこういうことをするのは普通だろうし、それゆえに老師は1把しか使っていなくとも問題はありませんが、そもそもこの技術をどこで身に付けたかというと、おそらくこれまでの育ちだろうと思います。良いものが何でも手に入るとか、知りあいもそういう人ばかりということです。老師は上海随一の財閥の息子で、彼の家があったところは現在全域が上海万博跡地になっていますが(上海 沈家などで検索すると情報があるかもしれません)かつて邸宅があった頃は周恩来や鄧小平がパリに留学する時に宿泊を提供していたりしていたということで、老師が子供の頃に演奏するようになってすぐの段階ですでに接触する人が一般の人ではなかったようです。自転車に乗って豫園に行っては現在では伝説化している巨匠たちの演奏を聞いていたとも言っています(当時「自転車で」というのは今だったらフェラーリだろうと思います。フェラーリで豫園? いますね、そういう人は。)優れた楽器も所有しており、63年の伝説的な「上海の春」コンクールで湯良徳が拉いているのは老師の当時の王根興を借りたものだったようで、これを聴いた王国潼が譲って貰えるように老師と交渉してきたというようなことも言っていました(なんでこういう話になったのか謎ですね。王根興のところに行ってもう1つ買えば良いだけの話だと思うのですが)。これら3名の方々はいずれもすぐに良い二胡の価値を見極めることが可能だったのは、良いものを十分に知ることができる環境だったからだろうと思います。老師が張鋭と一緒に暮していた時に、張の二胡があまりにも酷いので、北京・和平門外(今でも楽器街がある)にあった満瑞興を訪ね彼のために1把調達したと言っていました。私が「ああ、それはまだ使っておられますよ。あれでテレビも出てますよ」と言ったら驚いていました。老師自身は自身の楽器が何の材かわからないようですが、かなり良質の紫檀でした。ただこう言いました。特注で胴を僅かに小さくしてあると。あれは間違いなく馬乾元でしょう。古楽器は胴が小さいので1つチョイスして馬乾元に送って蛇皮を張り替えて貰ったら、なるほど同じような音が出ました。老師は何も考えていないふりをして、やることはやっとるなと思いました。

 ということで、できれば違う個性のものを最低2把、できれば4把持った方が良いという結論にしておきます。しかしクォリティが釣り合わないと一部だけを使うことになり、そうなると最悪1把しか持っていないのと同じになります。それで補強ポイントをしっかり見極めることが必要になってきます。今持っているものが満足できないので、もっと質が良いと思われる同じようなものを買うのは正しいのか、それを繰り返して同じようなものばかり持っている人は結構います。そして全部満足していないという。それで見せて貰うと別に悪くはないという。持ってる人が何もわかっていないのでそうなります。個体の個性を掴んで魅力を引き出すということが難しいのに理想だけで掴むからそうなるんではないですかね。その状態を脱するために全く違う個性を持った二胡を補強し、自分が成長するということをしないといつまでもわかりません。自分の好みに一切妥協せず、すごく偏っているという人はたくさんいます。わかっていてシンプルに1つの方向でいいか、ということで整理した結果ならいいですが、よくわかっていないのに1把とか同じ方向性だけで行っていればそれは難しいですね。買いたくなければ良い友達を増やさないといけないですね。だけど友達も、よくわかっていない友達は要らないので悪循環なんですね。もうすでに1把持っているのであれば、それが良いか悪いかはどうでも良くて、それが何物なのかを掴まないといけません。良いか悪いかは買う前に考えることで、基本的には買ってから問題にすべきことではありません。その1把を軸に補強ポイントを考える必要があります。北京六角老紅木二胡を持っていたら次は何を補強するのか、北京の場合いろいろあるので、そのすでに持っているものがどういう位置づけのものかわからないと次に行けません。北京の八角を壇木で、黒檀の良品が難しければ紫檀で行くか、壇木の良品は高いので中古狙いで保留し、老紅木で上海二胡を補強するか、あまりに違いすぎるので蘇州で補強するか、持っている北京琴が現代琴であれば、古いタイプの北京琴を補強するのが良いのか、野球で先発ローテ枠を(おそらく)5人?とかそれと一緒で、ローテを守れる質のものを価格に関係なく獲得しないと、数把も持っていると安いのが入っていても刺激になるので、しかしそれも良くないといけませんが、その上でリリーフで板胡、高胡あたりを補強するか、というそういう考え方になります。間違っても北京六角がすでにある上にまた北京六角を紫檀で補強したりはしません。近いものが2把というのは、余程理由があればともかくバランスが悪くなります。インド紫檀ばかり10把とか、それが好きで他は要らないだったらいいですが、それが最高だからと言うのは不見識です。他に良いものがあるのは知らんのか?ぐらいの話になってきます。同じようなものは要らないので、似たものを獲得すれば一方は放出が前提になっているということになります。他が全部わかっていて北京六角しか要らない、ローテは北京六角のみで行くという場合は別ですが。ローテしていたら悪いのがあるとわかってきます。4把あれば、中3日で悪いのが廻ってきます(実際には毎日換えたりしませんが)。そこは次の補強ポイントなのか、或いは放出して3把体制に移行するのか、放出せず中継ぎに回すのかというような感じになります。4把ローテであればすべて個性が違うエース級である必要があります(監督が無能だとエース級でも安値で放出ということはよくあるので、うちではそういうものをよく獲得します。販売店ですので先発要員は幾らあっても構わないからです)。一方で初めから中継ぎ前提で獲得ということもあります(それにも関わらずエース級より高額を用意することもあります。先発要員ではないが得難い物というのはある筈です)。予算があっても補強に成功するとは限らず、失敗の方が多いものです。かなり詳しくないと成功連発は有り得ないです。ましてや安価で補強成功などというのはプロの仕事です。放出を恐れていてはより高い質を求めることはできません。しかし慎重であるべきです。先発の1把が故障で修理送りになった時に博打で何か違ったものを補強してみるというようなことは、すでにシステムが完成して熟している場合にできることです。そういう修理で金が要るという時に限って良いものが出たりするものです。そこをむりやり補強に走って、その結果ルーキーがインパクトを残して一部の放出に繋がる、フォーメーション全体の変更に繋がるということは実際あります。数把の放出に至るような激震があると、それはおそらく自分が成長したということだろうと思います。複数の二胡を買うような人はこういう概念は絶対に必要不可欠です。

 進歩的で広い見識を養っている友人がいると情報が多いし、自分のシステムは彼らの助言や彼らが実際にやっていることを見て昇級することが容易になってきます。この時に重要なのは絶対に他人のものを欲しがらない、頻繁に貸せと言わないということです。人が持っているものしかよく見えないとか、本気でやっていたらそういうことは有り得ないので、やらしい集り屋になって嫌がられるし、そうなるともう何も見せてもらえなくなります。個人のフォーメーションは普通、非公開です。メリットがないと公開はしないので自分がある程度でないと他人のフォーメーションも聞くことができないということはあると思います。2把ぐらいでもかなり良いものを持っていると相談されることがありますが、そういうことです。知っているところにはさらに情報が入り、知らないところはずっとそのままになりがちです。いろいろ知っている人は相手に合わせて話題を換えることもできるので、自分が1つの方向性だけに留まっていてそれしか興味がないということであれば、先方はそれに合わせた話しかしないので情報は当然それだけになります。枠を決めているのは自分だからしょうがないです。そこに特化してやたら専門化していれば他人もメリットがあるので寄ってきますが、中途半端だと得られるものがないので優秀な人材と交流はできません。

 何でこういった方向に話が行ってしまうのかというとそれは、二胡というものが1つに集約できない、いろんなものがあり過ぎるからです。バイオリンだったら1把買っておけばとりあえず良いですが、二胡はそうではない、そうではない楽器というのは世界でほとんどありません。エースが複数立てられるという時点で普通有り得ないです。例えばピアノだったら、ヤマハ、ベーゼンドルファー、スタンウェイを一通り持っていないとよく判らないなんてことはないです。どれか1つでもあれば上等ですし、ホールを借りた時でも他のメーカーが扱えない、わからないということはないです。だけど二胡は持っていてしばらく使っていなければよくわからないおかしな楽器です。沖縄三線は似たような木材を使い蛇皮も使いますが、黒檀とかユシ木などいろいろ持っていないとわからないということはないと思います。もちろん深く知るためには持っていた方がいいのかもしれませんが、そこまで深刻な話になってはいきません。二胡はコンディションに浮き沈みがあるし、変化もするし、とてもとても理解が難しい楽器です。初心者は自分が安定していないのに楽器も安定しないだったら、どうしたらいいんですか、というぐらい混乱状態でスタートします。終始混乱とかパニックは中国の特徴であり文化でもありますが、落ち着いた日本人がそれを会得するのは困難です。中国人老師から始められた場合は、何でこんなにいい加減なのか理解ができない、今でも理解できない人は多いと思います。あなたの方が問題かもしれない、こんな変なことを言うと余計におかしくなりそうですが、混乱は基本仕様なので、二胡もそれに応じてまとまってはいない、天下が統一されているのは上辺だけなのです。混乱したものを整理するのではなく、混乱したままで掴む必要があります。流動性を理解する、混乱の中に秩序と道理を見る、この概念は中華独特です。中華脳がないと全くの意味不明に陥ります。整理なんかされてしまおうものならそれは中華ではないと言っても良い程です。1把の二胡を持っただけでそれらのすべてを理解できると思わない方がいいです。そのために本稿で「違うもの」ということを強調しています。他の楽器と二胡を同じ感覚で捉えると二胡はわからなくなります。確かに中国人、道理に適っていないことが多いですが、しかし全面否定すると二胡は難しくなります。中華独特の道理があります。欧州は言語がバラバラだったので統一は困難でした。中国も同様に言語はバラバラ、今でもそうですが、しかし古代より統一王朝がありました。それはなぜか? 言葉が違っても漢字というキャラクターを見れば意味が伝達できたからです。漢字がなければ中国に統一王朝はなかったと言われている程です。一致は意味の伝達だけに止め、それ以外の事柄は独自性を許すという完全な統一を捨てて実利を取るやり方が中華の根底にあります。建前だけで中身を空にするというやり方です。パニックを否定すれば仲良くやっていけない、道理に合わなくても他の道理には合うかもしれない、緩やかに許す社会、これが大中華です。混乱した中でどうやって認めあっていくのか、ありのままに受け容れる文化です。中国政府(文化部)は二胡の統一を目標に掲げ規格の統一など努力してきましたが、確かに規格は揃っているものの、それは見た目だけで何かが違う、多様性は絶対に捨てることはない、そしてそれは許されるのが中華という相克があります。そんな状態で蘇州二胡を掴んだら全部わかるか、わからないですよ。中国最古の王朝は「夏」と言います。いわゆる夏人こそが中国統一の資格がある高等民族であるという概念がありました。中原(長安から洛陽一帯)を支配する夏人、つまり中夏、これが変わって中華になったのですが、王朝によって支配された異民族には服従すれば華人の称号が与えられました。いい加減ですね。いいんです、仲良くやっていければ。一致しているのは表面だけ、中身はなし、要らんのです。中身まできちんとやったら王朝さえも滅びるのです。"中華の二胡"を理解するためにこの辺の基本の把握は必要不可欠です。表面は統一、中身はバラバラ、混乱です。だから多くの人は二胡は二胡である、と勘違いしています。すべての二胡は二胡と言えるが、これが二胡と言える二胡もまたないのです。あなたの二胡は、二胡のすべてではないのです。統一した筈が何かおかしい、それで中華の二胡を捉えようと思ったら、エースが並び立つという奇妙な状況になります。訳がわからないのですがそれを許すのが中華です。だからといってそれを全部受け入れるかと言われるとその必要があるかどうかわからないですが、受け入れないのであればわからない部分はそれはそれで緩やかに許す必要があります。1把しか、或いはある特定のものしか求めないのであれば、それしか判らない、狭い範囲しかわかりませんが、それは個人の決定なのでそう決めたのであればしょうがないです。

 材についてはおおまかに紅木類と壇木類に分けます。もちろんその中でもいろいろありますが、中華の二胡を理解するという目標においては細かいことはどうでもいいです。最低限、この2つの系統が異なっていて、どういう特徴があるのか知っていれば十分です。二胡においては紅木類を重視すべきで、質の良い老紅木の獲得を、古楽器であればできれば古い黄花梨の獲得を狙うべきです。黄花梨以外の花梨は安いですが、クォリティは優れたものもあります。変に明清とか書いてあるものよりも一般の花梨ながら明らかに優れているものは稀ではありますがあります。これはプロの演奏家の中でも言われています。紫檀黒檀は本流ではない(値は高いが)という認識がなぜ正しいのか理解しておくべきです。北京、上海、蘇州はそれぞれ全く違う、資金がなくても、星海牌、敦煌牌、虎丘牌の安価なものを全部買うぐらい勉強熱心であるべきです。これだけでも見えてくるものがぜんぜん違うと思います。感動の度合いで言うと安いモデルも高いものも変わらないので、知るという観点からは問題はないです。高価なものは別のところに差があるのであって、コアの大事な部分は低グレード品でもたっぷり含まれています。これはどういうことなのか、例え裕福であっても、実際に安いものも購入して知っておきたい部分です。安価なものから学べることもまた多いです。むしろ、大事な部分に特化しているだけにかえって分かり易かったりします。古楽器とか板胡、高胡もあって学ぼうと思えばどんどんありますが、このあたりが他国の楽器と違うところです。中国の楽器でも、琵琶や琴など1把しか要らないと思うので、二胡はやはり独特のものがあると思います。二胡とか打楽は戯劇との関連が深いので、そういうものは複雑なように思います。流派とは言いませんが、地域によって多様ですべてを表現できる二胡は作れないものと思います。




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