二胡の古楽器は現代では製造できないのでしょうか - 二胡弦堂

 


 できますが、現代に作ればそれはもはや「古楽器」とは言わないのではないでしょうか。しかしここで言っているのはそういう意味ではなく、現代とかつての楽器の様式の違いについてであれば、以前の形式の楽器を復刻することで「古楽器」を作ることはできます。欧州ではこういう楽器を「ピリオド楽器」と言い、古楽が市民権を得ているので楽器の方も製造されています。中国は状況が異なっているので製造されていません。欧州の古楽は貴族のサロン音楽でしたが、中国は戯劇です。

 戯劇向きの楽器であれば復刻することはないのでしょうか。そこまではされていないようです。戯劇は音量が必要ですが、現代二胡は音量を増しているので過去に遡る必要はないと考えるのが一般的だと思います。しかしそれとは別の事情で古楽器は非常に人気があって良いものは入手し難くなっています。いろんな考えがある中で、ともかく結果的に古楽器は作られていません。戯劇の楽器ということは音が高めに上ずります。ピッチが上がるわけではなく、これは現代同様DAにチューニングするにしても、楽器自体が小さいですから、音のエネルギーは高めになります。古楽器愛好家はこういう古楽器の特徴を好むことがあります。

 地域の経済力が椅子の高さに反映されると言われることがあります。貧しい地域の椅子はとても低く、豊かになると徐々に高くなると言われます。そして銀座のバーのカウンターには足がつなかいぐらい高い椅子が置いてあったりします。これと同じ道理で、裕福な人は高い音の楽器を好み、貧しい人は低い楽器を好む傾向があります。特権階級を排除した文化大革命時代に二胡が少し大きくなり、音の重心が低くなったことはこのことと無関係ではないと思います。一方で共産党以前に上海隋一の大富豪の名家に生まれた弦堂の二胡老師は、小型の胴を持つ二胡を特注して使っています。彼の意見によると、現代の二胡の規格には誤りがあるのです。現代でも裕福な人々が骨董街を歩き回り古楽器を探しています。それらは現代二胡のように大きなものはありません。すべて小型の胴を持っています。広東人など、明清代の海洋鎖国時代から治外法権的な交易で裕福になった人々は、高胡という二胡よりもはるかに高い音の楽器を作ってしまいました。北京市内全域で出没する盲目の演奏家たちにとって二胡は音の重心が高過ぎるのか、坠胡という楽器を演奏しています。重心の低い音がします。

 こう考えると、すっかり経済発展した中国で、製造の方面からも古楽器に回帰しないのは不思議なように思います。主流でなかったとしても少しぐらいあっても良いような気がします。中国の民族楽器製造は厳しいライセンスがあって誰でも作れませんので、そういうものが発展を阻害している可能性はあると思います。しかし製造さえすれば古楽器愛好家は多いのですから、一定の支持は得られる筈です。

 古楽器と一口に言っても、いろんなタイプがありますから難しいですが、基本的に小型で琴托のないものであれば、古楽器のサウンドは取り戻せますので基本的にはそんなに難しいものではありません。古楽器を入手した時は多くの場合、蛇皮の貼替えが必要ですのでこれまでいろんなところに発注してきましたが、結局一番合うのは胡涵柔でした。馬乾元や呂建華も良いですが、胡涵柔が古楽器にはよく合います。しかし弦堂では胡涵柔はそんなに売れません。小店では馬乾元や呂建華を「中国最高のものである」と勧めるのと同様、胡涵柔も同格に評価しています。しかしどういうわけか胡涵柔は日本人には人気がありません。弦堂はこの3者の二胡は全部普段から使っています。悪いものは飽きますので長く使っているとわかりますが、胡涵柔がそういうふうに却下されたことはありません。しかし一般的には呂建華や馬乾元と比較すると胡涵柔は嫌われます。ついでに言うと、呂建華を評価する人は馬乾元を好まず、逆もしかりです。いろいろ買うと金が要るので選別しているとかそういうことではありません。なぜなら呂建華を好む人はそればかりを何把も買い、馬乾元も同様だからです。弦堂の観点からするとこれが全く理解できません。なぜならこの3者の二胡を何年拉いても甲乙つけ難いとずっと思っているからです。この点で話が合う人にこれまで一度も会ったことがありません。日本の感性と胡涵柔は合わないのかもしれません。確かに合わない気がします。しかもさらに古楽器ともなると、その嗜みは地方音楽に近づくのは必須、絹弦の扱いを習得することも必須と敷居が高いのです。日本に留まっている人にとって中国古楽器はわかりにくいと思います。そういう難しい問題がありますが、古曲を古典奏法で拉く場合には古楽器と絹弦がないと出にくい音もありますので、中国伝統音楽に近づこうとする場合は避けにくいものです。