二胡は未完成ゆえ、バイオリンより劣るのでしょうか - 二胡弦堂


 民族とか文化によって世界には様々な楽器があるので、イタリア発祥の楽器と中華の楽器が同じ特徴を持っていなければならない必然性はありませんから、そもそもこういう質問が出てくること自体が奇妙です。普通、楽器とはある文化に根ざした音楽があって、それに合わせて形成されるものです。欧州のトランペットは音程が安定した優れたものでしたが、これをアメリカに持っていったら不安定になりました。改悪でしょうか。欧州のトランペットでジャズが吹き難いのであれば、ジャズは劣った音楽でしょうか。同様にフレットがない二胡は音程の正確さの点でバイオリンに劣るので中国音楽は劣っているのでしょうか。文化水準の低い人とか子供がこういう疑問を持つならわかりますが、どういうわけか二胡界でバイオリンとの比較論、比較自体は別に問題ないですが優劣とかそういう話が出ることがあるので、違和感を持っている方は多いと思います。

 ここに来ておられる方の大部分は大中華圏の人間ではないので、海の向こうのジャイアン的人種の発想を理解するのはいささか困難です。琉球人は日本人ですか。琉球王国の末裔自身が日本人だと思いたければそれでいいし、違うと思えばそれでもいいのではないか、そこが議論になることはありません(沖縄では議論になっているかもしれませんが、全国的に問題視されることはありません。どちらかというと琉球人に固有の個性を大事にして欲しいと思っている人が多いぐらいだと思います。それで沖縄旅行して異文化を楽しんだりするわけですから)。しかし中国では違います。デリケートな話になってくるので具体的には避けますが、大中華圏に属したくない民族まで「中国人である」たくさんの民族があるがすべて「中国人である」というのを重視します。奇妙ですがこの思想があるから異なった民族が分裂せずに大中華を維持できた、欧州のように分裂しなかった、一種の天才的概念であって、これこそが統一の原動力なので絶対に譲れないところなのです。中国人という民族はありません。漢族というのはありますが、中国人と同義ではありません。中国人とは民族を超越した存在です。中国人は皆、身分証を携帯していますがそれには個人が属している民族が記載されています。しかしそれは中華人民共和国人民であることを証明する身分証です。中国人という言葉自体が中央集権であるとか、頂点から諸民族を統べるという概念を包含しています。

 我々は一生懸命二胡を練習したり異国の文化を学んだりしていろんな蓄積を行いますが、それらはすべて子に受け継がれます。全くそう思えなかったとしても孫に受け継がれていることが判明したりします。血は確実に受け継がれる、だから親がかなり高齢で産まれた子供は優秀な場合が多いです。伝達されてきた内容ですべての人はスタートラインが違います。自分自身の能力の中で自分自身の努力が占める割合は一部です。蓄積を重ねることは重要で、その民族の価値を高めることにも繋がります。そう考えると伝統を断つということはかなり大きな問題です。そして優秀な人材というのは追われることがあります。欧州は中国とは違い分裂状態が恒久化しているので、優秀ゆえに迫害されやすい人材は転出先があったことが歴史の記録に多く残されています。すぐ近くの違う国に逃れることができたということがあったということです。中国にはそれがないということがアキレス腱になっています。数百年続いた春秋戦国時代にはたくさんの人材が出ましたが、その頃には張儀が楚で追われ秦に召し抱えられて宰相になったとか、韓非子が韓で職がなく秦で法家として仕官したとか、複数の国があったことで競争がありそれによって優秀な人材も働き場所がありましたが、秦が統一した時には焚書坑儒で多くが殺害されました。それによって国力を大きく低下させ、漢前期には北方の異民族・匈奴に対抗する力がありませんでした。無駄に人数が多いだけでした。

 そう考えると、大中華思想を実現させるために必要な人材は、その中華思想そのものによって、その中華思想が具体化した時に駆逐されてきたという、具体化したら邪魔になるという、この繰り返しで疲弊してきた歴史が20世紀に至るまで継続してきたということになります。天下を統べ治める大中華帝国はそれに相応しい実力が必要でしたが自らの力でそれを捨ててきた、これは4000年来未解決の難しい問題です。容易に解決できないので別のやり方で体裁を整える方法論が発達し、外面の面子だけで中身は問わない、虚構であっても安定するのであれば大胆にチョイスしていく、頂点に立つための方法はどういうものであれ正当化されていきました。その根本思想があらゆる分野に及び、たかが楽器1つとっても、バイオリンではなく二胡が上でなければならないとこうなっていきました。中華にとって上下などどうでも良い問題ではなく、根幹に関わる極めて重要な問題です。しかし世界的には二胡は頂点ではありませんのでそこに不満がある、いやそうではなく、まだ未完成なのだ!という、自信だけでも頂点に立つことで、それが虚構であっても譲らないということになります。こういう考え方だから、しばしば真実とは異なる理論展開がまかり通るし、実際のところどうでも良いことを論じたりもします。外人である本サイトの大多数の訪問者には関係がないので同調しないようにすべきです。

 しかしせっかく二胡とバイオリンの比較論が出たので、そこも考えておきたいと思います。まず最初で音程の問題が出たのでそこから少し触れますが、バイオリンは二胡よりも正確な音程を得やすい代わりに他のものを捨てています。そもそも音楽というのは安定しているべきものではありません。安定は敵だが、大きな全体の一部になるのであれば安定も必要、そのバランスでバイオリンは設計されているのでソロがとても難しいということがあります。この難しいというのは演奏ではなく作曲の観点からですが、無伴奏バイオリン曲を作るのはすごく難しいということで、バイオリンが持っている機能に反する方向だからですが、二胡だったら無伴奏は当たり前です。1把のみで十分な表現力があるのでバイオリンを上回っているという考え方はできないことはありません。二胡とバイオリンでは割当の音高自体が違うので本来比較は相応しくありませんが、そうであれば二胡を改良した高胡とバイオリンを比較することはできます。もともと広東省ではバイオリンが使われていましたがそれが高胡にとって替わられた歴史があるからです。高胡の方が優れているからバイオリンに替わられたのでしょうか。そうだと思います。純粋に1把の単体の楽器として見たら高胡の方が表現力が豊かだからです。楽器の構造上そうなってきます。しかし合奏になるとバイオリンの方が強いので優劣はつけられませんが、このことから少なくとも中国楽器が劣っているということは言えません。

 バイオリンは詳細に製造上の細部が決められており、二胡はそうではない、まだ結論を出す余地が残っているということも言われますが本当でしょうか。それは詳しく説明したくない、或いは説明できない老師の方便で、生徒が問題にぶつかった時に「楽器が未完成だから」などと言って穏便に片づける都合の良い言い訳になっているに過ぎません。実際、中国の名工を尋ねて「二胡って未完成だよね」などと間の抜けた発言をすると、ぼう然と見つめられます。無知も甚だしい、あらゆる細部が極め尽くされている楽器を作る工房に行って発言すべき内容ではないです。mm単位でコンマ以下まで指定されています。少し変えると音も変わるので譲れない部分が多いです。この理由から北京の名工は基本的に古い二胡の蛇皮貼替えをやりません。自分が作った二胡の貼替えしかできません。そこをなんだかんだ言ってむりやりやってもらいますが、方冠祥だけは絶対に応じません。彼の工房曰く「北京民族楽器廠の作品にしても担当者によって違う、細部が違うのだから自分が貼れるわけがない」と言います。こちらは「完美なものだけが美の本質を表しているわけではない。貼替えは確かに統一された規準で作られたものではない。しかし過去の名工の土台の上に据えられたものもまた別の美があるものだ」と言いますが、回答は「申し訳ない」でした。工房に乗り込もうにも遠過ぎるし本当に困ったものです。そもそも二胡が未完成ではなく完成されているからこういう問題が発生するのです。満瑞興も同じことを言いますが「北京民族楽器廠が文革期に作ったものであれば貼替えられますか。師が手がけられたものかもしれません」と言ったらここは話が通りました。やれやれです。そういうガチガチの、決まった仕事しかしないようなところがあるぐらい、かなり厳密に決まっています。

 これは二胡だけに留まらず、弓とかその他のものもそうですが、すべて一定の結論に至っています。すべて根拠があります。中国製のすべての製品が劣るわけではありません。日本なんかと比較するから評価を下げるのであって、世界的に見たら中国は優れたものが多い国です。元々中国も職人の国であって、彼らもまたその血を受け継いでいるからです。すごく少ないが優秀な人もいるということです。少なくとも二胡に関しては疑った見方から入るのは好ましくないと考えます。完成度に関して言えば二胡とバイオリンはほとんど変わらないと言えます。どこかがおかしいと思ったらそれは高確率であなたの方が間違っています。楽器の方が問題ないのであれば、問題が発生した場合、原因は別のところにあることになりますので、その方がやっていきやすいように思います。職人的な勘というものも魅力がありますので、何でも数字で極め尽くされているのは面白みがないとも思えますが、少なくとも未完成ではないということです。完成されたことによって、これまで許容されていた自由は犠牲になったというのであれば、それは一理あると思います。こういうことを言うと何でも批判の糸口を見いだしたい人が活躍しますので先に言っておきますが、この点で二胡を批判するのであれば同時に同じ理由でバイオリンも批判すべきです。むしろ二胡は各地域の特色も大事にしているのでバイオリンよりも自由があるぐらいです。




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