心理の投影について - 二胡弦堂

 


 作曲作品には題材があるものがあります。自然や物語などです。女性が中心になっているものもあります。例えば「漢宮秋月」は老いていくことを嘆く宮女の心情を表しています。では女性の方が表現しやすいのでしょうか。それはないでしょう。同性なので異性よりもはるかに理解できる筈ですが、あまりにリアリティがあり過ぎると、こういう題材においては特に美しくはないからです。怨念だけになってしまいます。では、男性が表現するとどうなのでしょうか。この場合、割とぴったりくるのは何故なんでしょう。男性の観点からは美化されるからです。それは男性の心情に投影することによってです。世の中が100%女性だったら、この宮女は美しくありません。しかし男性は例外なく憐れむので儚い美しさを得ています。ですから、投影されたものを理解しないとこの種の作品は演奏できませんし美しくもありません。

 「漢宮秋月」は元は広東音楽ですが、広東にはこのような作品が結構あります。有名なところでは「昭君怨」があります。政略結婚で蒙古に送られる昭君の怒りや恐れ、絶望とは対照を成す華やかな行列が長安を発つ様子が描かれています。煌きに毒気を含ませることで独特の美しさを引き出しています。これも男性目線で美化されています。「双声恨」は男女の会話ですが、内容は別れる直前です。互いに敬意を失っていないのに行き違いで穏やかな口論になり悲しく別れるという、どうしてこういう変な題材ばかり持ってくるのかと思うぐらいですが、これも本当は別れたくない男性の心情を表しています。女性の方はよくわかりません。現実の女性もよくわからない場合が多いです。女性からするとそうではないのでしょうが、男性目線ですからそうなるわけです。男の方ははっきりしているのですが、女性は最後まで何だったのかよくわからないということが多々ありますね(逆もある?)。だからこういう作品が共感されるのです。この視点は例外もありますが基本的には世界的な傾向です。作曲家がほとんど男性だからでしょう。現代のポピュラー音楽になるとまた事情が違うでしょう。

 それでは女性は古典作品をどのように表現すれば良いのでしょうか。簡単ではないように思われます。女性で巨匠はいません。そもそもそういう感じではありません。諸作は男性の心情に投影されるわけですから男性を理解すべきでしょうか。それも無理があるでしょう。男女はあまりにも違いますから。男女はそれぞれ欠けていて、合わさることで完美になりますから、欠けたところを埋めるのは現実的ではありません。

 誰かがノーベル賞を取ったら、人々はまず「奥様はどんな方ですか?」と質問します。それで記者会見ではたいてい奥様も同席されます。「夫は家ではどうですか?」などと質問され「寝てばかり」「研究しか考えていない」などと愚痴を言います。しかし国民は、奥様の内助の功があったからだと解釈します。しかし正直なところ、夫としては問題はあるんでしょうね。ノーベル賞を取らなかったら「難しい奴だった」ということになっていたのでしょう。しかし奥様がおられなければ何かを達成するのは難しいというのも確かなのでしょう。その欠けたところは男では埋められません。

 ユリウス・カエサルは議会運営や軍の統率に関して難しい問題にあたった時は、必ず母に相談していました。カエサル自身は当時の地中海世界で最高の知識人、印刷のない時代に本を買うのに莫大な借金を抱えていたぐらいでした(当時は巻物だったので現代的な本はありませんでした。冊子本を発明したのはユリウス・カエサルでした。このことから彼の読書愛が如何に大きかったか窺えます)。それぐらいの知識人でしたが、それでも母には相談していました。男性は集団の中での各個人の心理を読むのが難しいです。ですから必ず女性に聞かないとわかりません。女性にとっては簡単なことです。それで現代の我々もそういう不得意な分野については同僚に聞くのですが「フフ、あなたわからないの? かわいいのね」などとからかわれたりします。こちらからこういうことを尋ねるのは優秀な方に限られるので、弁も立つしここぞとばかりに貸しを作ろうとするのか、いろいろ言われます。「まだ男の子」「鈍感」「賢そうにしてるけど残念」などなどです。いつもこちらが負けている筈ですが、相手からするとそうではない、花を持たされているようでよく考えると一本取られているという認識で不満もあるようです。「あなたが私に教えてもらうの?」と念押しもするので「そうだ。要求は?」と伺うと大抵「気持ちのこもった感謝の言葉と敬意」ときます。両方充分の筈ですが幾らでも欲しい、女性特有の心理なのでしょうね。配偶者ではないから充分に満たすのは無理ですが、多少の距離を感じるのか感謝に対し「もう一回」と言われることもありますね。そういう欲求が強いのでしょう。男性は感謝は面倒で要りませんが。すぐ忘れるし。年上の女性の方がきちんと対応して駆け引きには出ませんね。不思議そうには見られますが。なぜ私を信用したのだろうと。そしてこちらはというと、答えを聞いてもまだわかりません。なぜ?が多いです。理解するまで質問を幾つかせねばならないケースが多いです。それぐらい男性にとって人間心理は難しいです。ロジックでは決してわかりません。母が亡くなってからカエサルも暗殺されました。敵には腹心のブルータスもいました。「ブルータス、お前もか」という言葉を最後に残して死にました。母が生きていたら、このようなことにはなっていなかったでしょう。男女の思考はこれぐらい違います。男性は最高の哲学者になっても女性が持っているものを手に入れることはできません。逆もまた然りです。

 それでは、男性の心理に投影されたものを女性が表現するのはどうすれば良いのでしょうか。過去の偉大な人々、女性はほとんどピアニストなのでしょうか、歌手だとマリア・カラス、音楽以外では例えば与謝野晶子などがいますが、彼女らに共通するものは何なのでしょう? まず女性としてかなり自信があります。女に徹しているという特徴があります。男性的な自信ではありません。女性として、です。フェミニスト的な。そしてなぜか勝ち気なんです。前から思っていたことですが、女流の将棋は何でなんなに激しいのでしょう? なぜあんなに激しい順ばかりを選ぶのでしょう? だから振り飛車が多いんです。とりあえず相手とぶつかって互角に刺し違えさえすれば勝ちというものだから。彼女らに合うのでしょうね。女性は結婚したら落ち着きますが、独身は激しいです。だから女性演奏家というのは昔から結婚したら駄目になると言われてきました。ストラヴィンスキーの傑作「春の祭典」の中の生贄の踊りは、少女が死ぬまで神の前で踊り続けるという異教の祭祀を題材にしたもので、狂気に近い女性特有の激しさが表現されています。こういう感じが高く評価されてきた背景で、その持ち味を最大限引き出すために作曲されたものでしょう。少女のまんま大人になった人というのが、評価されやすい条件の1つです。

 女性演奏家というテーマは難しいです。演奏を理解するのも難しい、男性にはない独特の精神性ですから。評価に困ってしまうことが多々あります。十分にわかってはいないという前提で言えることがあるとすれば、ヨハンナ・マルツィでしょうね。女性演奏家の究極の姿の1つではないでしょうか。バイオリニストですがハンガリー人、20世紀前半の世界でこの要素は大きかったでしょう。当時、ハンガリー文化の影響力は絶大だったので、ブラームスまでハンガリー系の作品を書いている程です。ハンガリー音楽はジプシー系です。インドがルーツです。質の高い源流を土台にしています。だからこそ圧倒的な説得力がありました。パリで成功したフバイが自身のルーツの基で活動したいと考え、ブダペスト音楽院に移籍したことを見てもハンガリー音楽の求心力が窺えます。この人は欧州演奏旅行でピアニストにあのフランツ・リスト(この人もハンガリー人。ブダペスト国際空港の名称は彼の名を当てているが、ハンガリーでは姓名の順で表記するので「リスト・フランツ国際空港」)を帯同していたぐらいの奏者です。フバイによって確立されたハンガリー・バイオリン楽派からの出身者はやがて欧州を制しました。マルツィがフバイに学ぶことができたのは2つ目の幸運だったでしょう。マルツィは死後評価された人なので生前は無名でした。しかし夫は彼女のファンだったと思われ、夫が購入した名器ベルゴンツィを生涯演奏し続けました。夫からの無条件の支持、これは3つ目の幸運でしょう。こういう要素が彼女を類例のない存在として記憶させたのではないかと思います。バッハの無伴奏からシャコンヌをお聞きいただけるようにしました。

 バッハは自分自身を投影する鏡です。それまでの生き方が投影されます。技術的には演奏できたとしても人前で、ましてや録音ともなるとそう踏み込めるものではありません。我々が「聖典」「啓示」などと称賛してやまない、あのカザルスの無伴奏でさえ、楽譜の発見から録音まで数十年を要した程です。誰しも後ろめたいことというのはあるものだから、このような恐ろしいものを演奏して、俗なる自分自身を世間に開帳して恥をかきたいとは思わないものです。演奏よりまず生き方の点検からせねばならないという、宗教家にならないといけない、それで十分なのかもわからない、かなりたいへんなものです。

 最初にいつマルツィを聞いたのか憶えていませんが、その時に「ああ、女か」と思って、そこである意味、頭を切り替えたのははっきり憶えています。若い時の話です。薄っぺらい演奏だろうと甘く見ていたので強く衝撃を受け、2,3分は動けなかったことも憶えています。その後、たまたま神戸のレコード店でこのバッハの無伴奏LP3枚組を発見しました。親父に「オリジナル盤ですか」と聞きましたが、今から考えるとオリジナル盤以外にあるわけがない、人気がなくて再販されていなかったのだから。親父は「ああ、そうだよ。要るのか? そんなの誰が買うんだよ。若いの、あんたみたいなの初めてだよ」「1万円もするの?」「気に入らなければ出ていけ」こう言われるもニヤニヤしながら黙ってレジの前に置いたことも憶えています。親父は万札を見ずにこちらをメガネ越しに睨みながら受け取りました。親父もこの録音に何か感じるものがあったのでしょう。まさかこれが後に100万を超えるとは思ってはいませんでした。今はCDも簡単に手に入ります。時間を要すとしても本物はいずれ発見されますね。

 50年代後半、ロンドン・アビーロードスタジオにおける録音で英EMIの名物プロデューサー、ウォルター・レッグが手掛けたものでした。英国の当時の録音機材はレコード会社が自前で製作しており、それは米国やドイツの既製品では英国人好みの音が得られないからでした。英国製の既製品は60年代のニーヴまで待たねばなりませんでした。それでも同スタジオは、60年代に入ってもオリジナルのまま続け、ビートルズと共に改良を進めていたことは有名です。これはそれよりかなり前のスタジオ初期のサウンドです。今や伝説となっている当時のサウンドです。

 演奏は一見、女性のものには聞こえない端正なものです。女性的なものは前面に出していません。既婚だからでしょう。フバイの下で学んだ高い教養と夫の愛情が精神的な落ち着きに繋がったのではないかと思います。切れることのない集中力と静けさの中に感じさせる熱量、これは女性的とも言えるし、ジプシーの影響なのか、高い次元で結実し、それを古風なロマンティシズムでなぞってゆく、男性ではこのタイプはいないのではないかというぐらい個性があります。文化的な背景は女性の場合は特に重要になりそうです。また女性で精神的に安定というのはかなり難しいことです。特に20,30代の若い女性は難しく、個人差もありますが、すぐさっきまで笑っていたのに突然難癖をつけて叩いたりします。きちんと面倒が見れる夫がいないと落ち着きません。男性は心理が安定しているので女性にもそれを適用しようとする傾向があります。それはまだ若い、その考えだとまだまだ大変です。女性は気持ちが常に流れていないといけません。よく理解している夫だと女性は心理が安定します。常に良い方向に流してコントロールすることで結果的に安定を得るということですから、それはかなりのことです。「いつも感謝」を求める傾向があるのはそのためでしょう。マルツィの演奏を聴くと夫がどういう人かわかります。惜しみなく配慮が行き届いていたと思われます。

 そもそも音楽というのは、男女というものがわかっている前提で、男中心です。女性が主役であっても夫を待ち続けて悲しみの中で死んでいく蝶々夫人とか、女性から見たら「ほっておけば?」となりますね。なぜ? 共感は難しいようです。まだ、アッタヴァンティ侯爵夫人ぐらいだと同情はできるのです。だけど、トゥーランドットのリューぐらいになると、男性から見るから可愛そう、包んであげたいになるわけで、女性は感心しないのではないですか。女性はカラフの薄情さに腹がたつようですが、男性からするとカラフはどうでもいい、人間というのは同性には興味は薄いのでしょう。だけどメゾ・ソプラノだったらリューはカルメンなどと並んで絶対にやりたい役柄のようです。当然でしょうね。歌手は専門家ですから一般の人とは違うでしょう。カルメンが死んでも誰も同情しないでしょうが、リューは全く違います。やっぱりメゾ或いはソプラノ・リリコであるからにはリューは憧れでしょうね。

 現在ネットにアップされているトゥーランドット全曲では、2002年ザルツブルク祝祭大劇場ライブがトップページに出ます。素晴らしい演奏で、これはかなり満足するのではないでしょうか。

 前衛的な演出で、いろんなものを見ている人だと良いのですが、わかっている前提で演出されているので、時代劇風の方がわかりやすいでしょうからもう一つ、これは2009年バレンシア芸術センターのライブですが字幕がありません。

 ザルツブルグのライブの方ですが、監督にヴァレリー・ゲルギエフということで、アジア人観点で聴くと、どうしても金管がロシア帝国の響きになっているのが気になります。その方が演出にも合っているのかもしれません。ウィーン・フィルの金管の本来の響きはアルプス、その源流はオスマン・トルコのイェニチェリですが、どちらかというと東欧系で、これをそのまま活かした方が良かったような気はします。古楽器の方が良かったように思います。オスマン帝国の響きからロマノフ朝に変わったところで何の違いもなさそうですが、そんなことはない筈です。どちらもコンスタンティノープル(イスタンブール)を源流としていますが、ロマノフ朝は東ローマ帝国、オスマンはオリエントです。ロシアの響きではオリエンタルにはならないのではないでしょうか。二管編成でありながらトランペットは計9本、トロンボーンは6本と金管の数が多くかなり影響力が大きいので、この扱いで全体のカラーが決まる傾向がありそうです。しかし気になるのはそれぐらいで、ガラス細工のように繊細な弦の響きが2人の対照的な女性の心の本質を代弁しているようで、声に絡み合う様は音が溶けるがごとき美しさです。

 ゲルギエフは88年から現在までサンクトペテルブルクの旧帝室劇場監督で、就任まもなくソ連が崩壊しました。存続の危機、資金難など山より谷の方が多い、そういう困難の中で舵を切ってきました。また我々もロシアがどういう国かわかっていますが、不意に一夜にして理不尽に消されることもあるようなところでやってきています。成功したら首が危ない、日本にいたら訳のわからない話ですが、世界では普通のことです。終幕後のカーテンコールを見ると、主要メンバーは手を繋いで聴衆に応えるお馴染みの光景があり、ゲルギエフは立場上そこに入らないわけにいかないのでいますが、途中で手を離して毎回後ろに下がって極力目立たないようにしています。どれだけ苦労してきたのでしょうか。称賛と栄光は全て拒否、また明日一からやり直しの繰り返し、現在地が山であろうが深い谷底であろうが、劇場に勤めている人たちの生活も肩にのしかかって生死を賭けた公演が続く中で、音1つたりとも意味なく響かせることはできない、そうしてこれまでやってきたことは本公演からも感じられます。元NHKモスクワ支局長・小林和夫が「ロシアは国家も経済も崩壊して、文化も崩壊するだろう」と言ったら当時まだ30代だったゲルギエフは「そんなものは本当の文化とは言わない」ときっぱり発言したとされています。劇場なんてものは好景気の時でさえ赤字が普通のおんぶにだっこの代物ですから、それを国家動乱、ルーブル暴落の時期に現役で率いてこの発言は自信過剰と言われても仕方がありませんが、それでも成功したと言えるのではないでしょうか。まだ闘いは終わっていないのでしょうけれども。我々はもう子供の時から本作のあらすじぐらいは知っていますが(学校でやりますから)、それでも初めて見るような緊張感が終幕まで失われることがありません。

 劇場でのリハーサルで歌手の個々につける場合はピアノを使います。これをコレペティトーアと言います。普通のピアニストとは違い、オペラの伴奏を演奏する専門職です。ここに非常に優秀なピアニストを充てることは困難です。裏方の仕事だからです。しかしゲルギエフは違いました。実の姉が世界的ピアニスト、ラリーサ・ゲルギエワだったからです。監督とコレペティトーアでは地位が全く違いますが、姉なので弟には何でも言えた筈です。姉は頼まれて来た立場でもありますし。おそらくゲルギエフがこれまで成果を挙げてこれたのは、姉が鍵盤上だけの貢献に留まらなかったのが最大の要因だったのは間違いないでしょう。実際、女性に率直にお話いただくのはかなり難しいことです。女性と男性では脳の構造が違いますから、女性の意見が男性に容れられるということはほとんどありません。相当に敬意を払わないと、その度合によって質も変わります。努力しても9割以上は大事なことを話してはもらえません。お世話になった後の扱いも重要で、数日経った後にも感謝を述べないと軽視されていると思われることもあります。1週間も空こうものなら、その時にはすでに怒っている様子だったりもするので「感謝させていただくお時間が欲しかった」と弁明すると「許してあげてもいいかも」などと独り言を言う方もおられるぐらいです。「怒っていたぞ」ということをわかってほしいようです。結構、細かいことまで憶えていて神経質です。突然、謝罪したりもします。「何のこと?」と伺うも言わないので「隠れて意地悪いことをしても黙っていたら大丈夫だから」と話すと「あなた、本当に憶えてないの? 2日前に私あなたに酷いことを言ったでしょ?」ときます。「話の内容は覚えているし把握しているが、酷いことは言われていない。いつも丁寧に対応して下さり感謝している」と言ったら呆れています。反対意見をはっきり言ってゴリ押しの上、受け容れさせたようで、そう言われてみればそういう気もしたから「いつも教えていただいて感謝している」と言ったら絶句しています。男性の対応としては普通ではないかと思いますが。関係にヒビが入るのを恐れてのことだったようです。逆の立場だったら、ヒビどころか全てが崩壊していたのでしょうね。恐ろしいことです。後から「あれはまずかったのではないか」と考えることもあるようで、しかし次に会ったら「あなたはいつもと同じでほっとする」と言われます。普通の男性はこうでしょう。基本、考えていません。ご意見を伺った以上はこれは男女は関係ありませんが、そこは容れないと信用は得られません。それでも聞く方も考えや感情はありますから、あからさまに不快感を示してしまうこともあります。我々は感情表現が出来ないようではいけない立場ですが、それが悪い方向に出ることもあるわけです。しかしもう聞くと決めて聞いていますから不快感をむき出しにしたまま「君の言った通りにしよう」と言うと非常に驚かれます。男の浅い観察より数段優れているのは間違いありませんから、やはり結果は全然違います。次からは膨れっ面でお話をお伺いしても、堂々と話されますね。そのうちこちらの人格面に関する批判も行うようになりますが「君の指導で努力して改善していきたい」と言うと、うっかりまたフライングして「やばい」ということがあっても何故かもう言わなくなりますね。女性が話さないのは男性にも原因があるのは間違いないと思います。これぐらいですから肉親か配偶者でないと意見を得るのは非常に困難です。他所の人には道徳的にも限度がありますし。そこで劇場運営ですから、個人の思惑が交錯していて、どこからほころびが出るのかわからない、そこで姉がいると全然違うのは間違いありません。

 本公演は夏の休暇時期を当ててのザルツブルグでの客演ですが、出演にはウィーンから少年合唱団も連れてきていますので子供もいる大所帯です。ゲルギエフのような苦労人であれば私生活に至るまで配慮が行き届いていた筈です。ゲルギエフさんにはウィーンのプロダクションにおいては人事権もありません。主要歌手を決めているぐらいですが、彼らはいずれも成功した歌手です。もちろん一流の演奏家を集めてのことなので一定水準の仕事はしますが、気持ちはまた別です。単なる仕事に留まらない一致結束しての公演というところが最大の魅力だろうと思います。

 この上演が行われた少し前の5月にたまたまウィーンに行きましたが、なぜか宿はどこも満室でした。これはおかしいということで市中心部のツーリスト・インフォメーションに入り「宿がないんだけど」というと、カウンターの姉サマは「あるわけないでしょう」「何で?」「今はウィーン芸術週間なのよ」「え?」となりました。ウィーン芸術週間の部分だけドイツ語でしたが、これはすぐにわかりました。なぜならテレビ・ラジオでドイツ語と日本語で表示が出るしアナウンスもするから、NHKの放送で慣れていたからです。状況を把握したので姉サマに「なんとかしてくれ」と泣きつき崇拝すると、うれしそうに「しょうがないわね」という感じでしばらくあちこちを当ってもらい、やっと見つかった1軒に滑り込みました。当時はまだネットはなく電話でした。そうして首尾よく宿に入ったのがまだ午前で、早速歌劇場に向かいました。夜のチケットを入手するためです。しかし「無い」「立ち見を並べ」と言われ、「それはどこですか」と聞いたら「裏に回れ」と言われました。それが写真の様子で地元民はずっとここにいるわけにいかないから椅子などを並べています。そこで夕方に出直してしばらく並んで入りました。尚、写真はうっかりブルガリアチーズの液体を染み込ませてしまって、それが現像液にも混ざるなどでおかしくなっているものもあります。その夜の公演は小澤征爾やドミンゴなどによるチャイコフスキー「スペードの女王」で価格は普段の3倍でした。立ち見でしたので300円でしたが。劇場内に当日の案内が貼ってあります(写真)。この公演は大成功となり、秋より始まる新体制で小澤がウィーン国立歌劇場楽長に就任しました。帰国してからまたNHKで同じ公演を見ました。それまで楽長はしばらく空席でした。しかし楽長も人事権はほとんどありません。独特のシステムで中世のギルドのような集団で運営されており、これで水準も保っています。ゲルギエフの公演は夏のバカンスシーズンのザルツブルグ音楽祭でのものでした。

 本稿はある意味、男女の違いのような話になってきているので、少し無駄話も続けましょう。ともかくウィーンは翌日に出ることにし、次にブダペスト(ハンガリー)に向かいました。美しい街でした。そして次の移動先はクルージュ・ナポカ(ルーマニア)でした。ブダペスト東駅に向かい切符を買おうとするも全く売ってくれず、どうしたものか途方に暮れ、1時間以上は努力するもやがて疲れてへたり込みました。そうすると何か呼びかけるような綺麗な声が聞こえたので見上げると紺のベルベットを纏った古風な装いの上品な若い女性が立っていました。すごい美人でした。18歳から20歳ぐらいでした。ともかく突如現れた女神に地球の歩き方の該当ページを示し、逃げたら捕まえられるように至近距離から、しかし小柄な方だったので屈んで下から「ここに行きたいんだ」と切々と訴えました。女神は動じることなく微笑を浮かべ、ついて来るように言ったので緊張して付いていくと、駅構内の側道に入り、少し長い廊下を抜けたところに2つだけ券売所があるのが見えました。国際列車はここで買うようです。そこで同じように本を見せて金を出すと券が目の前に置かれました。それを掴んで振り返ると女神はいませんでした。長い廊下を戻らねばならないので、もういないということはだいぶん前に去ったということです。しかし券を買うのにそんなに時間を使ったわけではありません。全く見えないのでおかしいと思いましたが走って追いました。どうしても見つかりません。失望しました。最後にせめて礼は言いたかったのですが。旅というのはとにかく困難が多いです。皆様も外国人が困惑していると助けますね。これはどこの国でもそんなに変わるものではありません。それでも外国はかなり不親切です。そうすると、その辺のたまたま近くにいる人が助けるということはないということが多いです。現れるのは女性が9割以上で、それ以外が男性や老夫婦などです。ほとんど女性に救われます。不思議なものです。男性も女性だったら助けるということがあると思いますが、それと同じ道理なのでしょうね。かわいそうだと言って憐れみをかけるのは例外なく女性です。本当に困惑した時に現れた女神は全てお顔は今でも鮮明に憶えています。どの場合も服は記憶が薄い、声は忘れています。しかしなぜか顔だけははっきり憶えています。不思議なものです。なぜなら女性の顔をしっかり見るような失礼なことはしないからです。助かったと思った時のインパクトが凄いから脳に残像が強く刻まれるようです。ブダペストの女神はかなり鮮明に、仕草まではっきり記憶しています。これはまだ切符が買えない程度の軽微な問題ですが、他にもいろいろあります。世の中に女神がいなかったら、もうとっくに死んでますね。ブダペスト東駅構内をくまなく探すも結局女神は見つからないので諦めて駅構内の写真を取って乗車しました。

 VIPはルートが違い、戻ったのではなく奥に入ったと思われます。であれば券売所は国際列車用ではなくVIP用ということになります。今はネット時代ですから捜索すると、ハンガリーの女優 エリカ・マロジャーン Erika Marozsánさんでした。しかしそうすると年齢は+10歳ですが映像を確認すると間違いありません。まさか年上の方だとは思いませんでしたが。あのあたりの民族は老けるのが速いので、周りと比較すると驚異的な若さだと思います。ネットの情報によるとおそらくこの頃、ハリウッドの「山猫は眠らない2 狙撃手の掟」の撮影中で、セルビア紛争を題材にしたものでした。この後さらに旅行を続けて、ブルガリアのストゥルマ渓谷に滞在していた時に、当時国境を隔てて西側はマケドニア紛争中だったので、ミサイルで誤爆攻撃を受けました。国境に線を引いているわけではありませんから境界がわかりにくいのです。そこはワインの名産地だったので宿の親父に「どこか美味しいレストランに連れて行ってよ」と言って「よし、行こう」となって二人で通りを歩いていました。その時に轟音と地響きがあって山の天辺から煙が上がりました。その街は深い盆地のような渓谷だったのでミサイルがギリギリ山を超えなかったようです。地元では慣れているようで驚いていませんでした。ちょうどそういう物騒な時期でした。もしハンガリー語がわかる方がおられたらエリカ・マロジャーンさんに「20年程前にあなたに救われた東洋の青年が今尚感謝している。元気にされているか心配していた」とお伝えいただければうれしいです。日本人は若く見えるので向こうの感覚では少年の方がわかりやすいかもしれないですが。白い襟なしシャツに真っ黒でボロボロのライカM3を持っていたと、映画の人なのでそう言えばおそらくわかるでしょう。

 そしてこれは言おうかどうか迷ったのですが、女神はほとんどかなりの美人です。美人でないのは例外的です。人は自分の持っているものしか与えることができないので、普段から丁重に扱われていないと他人に丁寧に接することはできません。インプットしていないとアウトプットはできません。無いものは出せないからです。美人は比較的性格は良くなりやすいです。こういうことを言うと、女性が反発するのはわかっています。それでもここは天変地異があっても変わらないでしょう。ブスは意地悪が多いので怖いです。しかし冷静に見ると生まれ持った土台としては美人だった筈という人もいますね。外見は人によって好みもありますが、それよりも生き方の美しさの方が人を美しくするのではないでしょうか。外見で採用するという企業もあります。これは筋が通っていると思います。羽生善治によると「美しい手を指す、美しさを目指すことが、結果として正しい手を指すことにつながる」。正しい生き方は美を引き出します。汚いやり方は決して美しくはありません。ブダペストの女神は外見が美人というよりも貴族のような佇まいで少し陰がありました。美人だがオーラがもっと凄い、映像より実物の方がかなりインパクトがあります。苦労された過程で優しくなられた印象でした。助けてくれるというので深々と感謝すると、少し遠慮するような仕草で口元を緩める癖がありました。一般の我々には知り得ない独特の過去があるのだろうとは思っていましたが、現代はネットがあるので出ますね。そうだったのかと。あの後どうされているのか、似た雰囲気の女性に会った時に思い返して心配していましたが、まさか有名人とは思いませんでした。近年の映像もネットで出ますが個人的に接した時は内気だったので、こんなにはっきり話されるのかと印象が違いましたが、声は同じでした。トラウマが1つ解消しました。トラウマ? まだありますよ。どうしてるのかなと思っている人は結構いますね。男性でもあります。旅は生き別れの繰り返しだから。「あんたのはトラウマとは言いませんよ」と言われる専門的な方もおられるのでしょうが。

 続けましょう。クルージュ・ナポカに到着して滞在した後、ブカレストに向かいます。これは国内移動です。しかしここでもなぜか切符が買えません。無いと言われて追い払われます。明らかに「お前には売らない」という態度です。田舎町なのに無駄に窓口が多く20はありましたが、暇なのでみんなでこちらを見てはあざ笑っていました。共産国でありがちなことです。まずい、遂にここまでかと思いましたが、まずは座って考えようと、ブースから見えない位置に座って人間観察しました。時に市民が切符を買いにきます。それをしばらく眺めてようやく1つの法則に気が付きました。男と女の切符の買い方が違うのです。そこでファンタ、ここではちょっと違う発音でしたが、を飲んでスッキリしてから立ち上がって、涼しい感じでブースの前をゆっくり歩くとまた笑っています。優しそうな感じのご婦人のブースの前に立ちこう言いました「お嬢さん、お綺麗ですね」。こういうのは日本語で充分世界で通用するということも併せて申し上げておきたい。気持ちの問題だから。フランス語で言われてもわかりますね。それと同じことです。彼女は終始仏頂面で表情を一切変えませんでした。金を出してみました。彼女はこちらの行き先を聞きませんでした。もう知っていたから。釣りをまず投げてよこされ、切符は見事な技術でまっすぐに飛んで胸に当って目の前に落ちました。それを10秒は眺めていたような気がします。なるほど、これがラテン国か、それも共産でラテン、こうなるのかと思いましたね。関西ではおもしろいことを言わないと無礼なのと同じ感覚なんでしょうね。ここまできたら、どっちが無礼なのかよくわかりませんが。この経験は中国に行ってからもかなり役に立ちました。これで困難を回避したことが何度もあります。だけどこういう発言は今でも平時には特別な関係の方でないと言えません。ブカレストでも切符を買えたかって? もちろん。一発合格であったことをここにご報告したい。この先はイスタンブールまで抜けて帰国しましたが、男女の話はおもしろいのはもうないのでこれでやめます。なんでだろう? イスラム圏に近づくからでしょう。ブカレストではジプシーの女性らとなぜか親しくなり、街をうろうろしてご飯したりしました(写真)。2時間ぐらいですが。カルメンのような連中が実在することに驚きましたね。話を戻しましょう。

 2つの動画のリューはどちらもチリ人のクリスティーナ・ガヤルド-ドマス(Cristina Gallardo-Domâs)さんです。古風なリューのイメージは、影がある暗い感じ、弱々しい感じですが、こちらは南米系の情熱的なリューということで、これもまた理想形の1つなのでしょう。第3幕では「わたしは全てを失います。無上の捧げものとして」のあたりまでは弦が付き「氷に包まれた姫君も」から木管が引き継ぎます。ウィーンの演奏では終始エスコートしています。1歩前に出て導くようです。かといって主役を奪うわけでもなく、声に絡んで溶け合うことで美しさをより高めています。対してバレンシアの演奏では、1歩下がってのサポートに徹しています。

 リューは重要なアリアが第1,3幕に1つずつあります。これを聞くだけのために最初から通しで見るというぐらい重要、作品全体がリューのために作られていると言い切っても良い、リューは原作の千一日物語(千一夜物語とは違うがどちらもアラビア・ペルシャ発祥)には存在しない登場人物で作曲者理想の女性を嵌め込んだものでした。リューはモナリザ、リューのために全てが捧げられている独特の作品です。しかし理想の女性というのは一般概念と異なります。確かにジャコモ・プッチーニが似たような女性、ミミやアンジェリカ、蝶々さんのようなタイプが好きなのは確かでしょうが、リューはもっと哲学的な存在です。キリスト教圏の民族であればそれはすぐにわかる筈です。ここでは関係ないのでその話はやめます。

 バレンシア人の演奏は驚くほど情熱的ですが、南米出身のドマスとはこの点、ウィーンよりも相性が良さそうです。ところがバレンシアの演奏は重要なアリアに入った途端、おとなしくなるので違和感があります。主役を引き立てようという配慮、聴衆も声が聞きたいということで脇に下がろうと、いい人達なんでしょうが、そんな変な配慮をするのではなく、もっと熱くサポートしてあげた方が良かったのではないかと思います。世界的な歌手と言えども女の子であるし、舞台の上では孤独です。その点、ハプスブルグ帝国宮廷歌劇場以来、偉大な伝統を有しているウィーン人の方がわかっているということなのでしょう。これまで多くの歌姫が歴史に残る名演を残していて、その全てと比較されます。想像を超えたプレッシャーがあります。結果がどうあってもプライドを掛けて絶対に支える、心中するぐらいの強い覚悟を感じさせます。全力で守って支えています。だからあれだけ優しい伴奏になるのでしょう。

 しかしウィーンの響きと南米系ではミスマッチです。そこは100も承知で自分たちを通すのがウィーンで、これは昔から変わっていません。そもそも異質なのは問題ないという考え方です。そして異なったものとも融合できる自信があります。結果、良い時と悪い時がありますが、それもやむなしで全く気にしません。自分たちが真に美しいと信じる音にすべてを賭けます。多くの歌手がウィーンのサウンドに身を委ねたいと熱望してきたのはそのためです。バレンシア芸術センターはラテンなので、こういうところで引いてしまう傾向はあるのかもしれません。ラテンは歌に対する比重が高いからです。しかし2つのアリア以外では4つに組んで刺激的な演奏を展開していたので魅力は十分にあるのです。ウィーンより良いところもたくさんあります。伝統が人の心理に与える影響は大きいということなのでしょう。

 こうして改めてみると、伴奏というのも難しいものです。ドマスさんはおそらく今でもスペイン領カナリア諸島に住んで、子供さんも2人おられます。こういう仕事ができるのもある程度夫の理解も必要な筈で、理解だけでなく支えられている感があります。女性の場合は見たら夫がどんな人なのかわかる傾向がありますね。

 イタリアというと職人の国なので、伴奏1つとっても、やはりそこは至芸というものを感じさせます。まず第一に思い出されるのはトゥリオ・セラフィン(Tullio Serafin, 1878-1968)です。楽器をやっていたらこれは絶対に体感しておかねばなりません。そこで録音を上げることにします。

 セラフィンというとマリア・カラスを鍛えたことで有名ですが、その愛弟子を王女に立ててのトゥーランドットを1957年に録音しています。いや、しかしおかしい。なぜカラスはリューじゃなかったのでしょうか。ドラマティコだから? 王女は合わないように思うのですが。ウォルター・レッグの妻エリーザベト・シュワルツコップがリューに收まっているのはレコード会社からの圧力が疑われます。なぜイタリア人ではない? ドイツ人を入れてはいけないわけではないが、そこはよく考えるべきだった筈で、その結果どうなったのか、こんな風になってしまいました。

 これではまるで抒情詩です。どうしても頭を使ってしまうのでしょうか。知性や客観性はここで必要でしょうか。興ざめして萎えます。全く入り込めません。がっかりです。しかし技術的には見事という他ありません。ドイツ歌曲ならこれでいいのでしょうけれども、イタリア物をやるには固すぎる、育ちがお嬢、今更ぶっちゃけるわけにはいかないのでしょうか。とにかく固すぎる、これは罪なのでしょうか。はい、イタリアでは。いや、悲劇と言っても良い、物語より大いなる悲劇、リューの死より衝撃的、伴奏があまりに素晴らしいだけに尚の事悲劇性を増しているのではないでしょうか。なぜ自分から申し出て辞退しなかったのでしょうか。もう少し違うところでも頭を使うべきだったのではないでしょうか。王女でも要らないような、かといってカラスがリューというのもどうかと思うが、同じセラフィンの伴奏でカラスのリューもあります。


 こっちの方がまだ良かったでしょうね。男声の方は良いだけに、女声のキャステングは非常に残念です。お二人は本作とは合わないのではないでしょうか。しかしおそらく伴奏だけで見ると史上最高なのはこのセラフィンで、これ以上はないと思います。すべての音をこれだけ意味ある仕方で響かせる演奏は他にありません。行間に潜む綾までも味わい深く辿ってゆく、これだけの至芸はそう聞けるものではありません。最高の職人芸としか言いようがない、そう考えると彼が最高のリューを手に入れられなかったのは本当に残念、録音遺産にとって悲劇としか言いようがありません。セラフィンの伴奏は、他の演奏だと埋もれて聞こえない音がたくさん聞こえます。そしてなぜその音がそこにあるのかまでわかります。ろうそくように消え入りそうなリューの心の淡いゆらめきに木管群が寄り添っています。そこに感情はない、無があります。弦は絶望を代弁しています。弱々しい弦のピチカートは消え入りそうな生命に僅かに残された喜びを表現しています。それが大きくなって果てます。哲学のような演奏ですね。聞いてやっと「そういう意味だったのか」と感じさせる演奏です。

 おそらく最高のリューの一人は、レナータ・スコットさんです。まだ存命です。90手前です。モリナーリ=プラデッリの伴奏ですが、これも素晴らしいですね。無駄なものは何も感じさせません。そこにある物語しかありません。

 1999年 北京・紫禁城ライブのバルバラ・フリットリさんも理想的です。これ以上のリューがあるとは思えない程の素晴らしい出来です。とにかくイタリア人によるリューは違和感がありません。

 それに対してドイツ人もそうですが、東洋人がやってもどこか違和感があります。これはこれで良いとも思いますが。では、イタリア以外の地中海沿岸国だとどうでしょうか。リューはリリコですが、マリア・カラスはギリシャ人でドラマティコ、ドマスは南米人ですがスペイン語圏、やっぱり少し違う感じがあります。少し違うのもまた違った魅力はあるのですが。王女はドラマティコですが、バレンシアライブのリーゼ・リンドストロームさんは氷のように硬い声質でルックスと共にイメージに完全に適合していました。来るオファーがほとんど王女だとのことで。

 男声の場合はこういう適合の話はあまり出ません。カラフと皇帝はどちらもテノールなので交代したとしても衣装を交換すればいけるでしょうし、適合性が問われることはなさそうです。ポンとパンでもいけるのではないですか。皇帝は弱ったおじいちゃんのような演出もありますがあれは演技ですからカーテンコールでは快活に歩く皇帝を見ることになります。

 女性は生まれ持ったものだけでなく、文化的背景の影響がかなり重要になる傾向がありそうです。日本の文化を十分に身に着けて何をするにもそれを土台にした女性になると外国のものには適合しにくくなりますが、かといってそうしないのもすべてにおいて中途半端になるという難しさがあります。二重国籍とかコスモポリタンの女性においても自身の原点を探ることが必要になる傾向があります。男性は本質的に客観的ですが、女性は主観中心だからでしょう。もちろん男性においても自身のアイデンティティが確立されているべきですが、女性の場合はまた異なる重要性があるということです。

芸術表現の多くは男性心理に投影されていますが、女性は自身のルーツに投影してそれを通してでないと説得力のあるものは作れない傾向がありそうです。

 女性の関係することは、はっきり申し上げると「あなた嫌い」とすぐ言われますからね、気を悪くされた方がおられたら申し訳ありません。プロは真剣なのでこういう情報を求めているということにもご理解下さい。女性の場合、無条件で支持してくれる人を求める傾向があります。男性もそうかもしれません。しかし男性は支持しない人の意見も聞く、むしろその方をよく聞くという人もいます。仮に批判が言いがかりであっても、何もないのにそういうものは出てきません。そこから何かの緒を探ろうとします。女性でそういう人は少ないです。主観主義だから。こういうことを言ってはいけないのでしたね。やっぱり脳の構造が違う、気を悪くさせるつもりはありません。いつも支持してくれる夫がいたら大事にしてください。それは簡単には手に入らないとご留意下さい。それと出身地の文化に深い造詣をもって下さい。この2つが極めて重要なのではないでしょうか。

 本稿は女性についてのみに限定する必要もないので男性についても少しお話しましょう。演奏芸術を創造するためには男女に関する心理の投影というものは避けられないので頻出します。現れる空想上の美女は脚が長くないといけないわけではない筈ですが、ここで言っているのは音を細く、しかし艶かしさと健全性も必要であるということを示すためですから、やはり脚は長くないといけないのでしょう。難しいことなので例えを使っています。そしてその美女は見下ろしてこちらを見ています。それがより美しく見えるらしい・・。恋愛をしていないと思いつかない表現です。この方はもう亡くなっているのですが、この映像よりもっと歳をとった時にウィーンの舞踏会に招かれたのを見たことがあります。舞踏会ですから奥様と参加します。ところが腕を組んで出てきた時にはなぜか顔が真っ赤でおそらくワインを飲んで入ってきたものと思われます。奥様に惚れていて、くっついて離れないという感じであったが、奥様は慣れているようで平然としていました。奥様が亡くなられたら後を追うように彼も亡くなり、奥様の故郷スロベニアのリュブリャナに葬られました。ご本人は故郷というものがない、お母様がユダヤ人だったのでナチスを避けてアルゼンチンのブエノスアイレスに移り、彼もそこで育ちました。戦後はドイツに戻りました。戦争がなければ故郷はベルリンの筈ですが、生涯のほとんどを他所者として過ごしました。奥様は若い時、バレリーナだったので脚は細かったでしょう。歳をとっても細かったですが。あの感じだと奥様が面倒を見ているという雰囲気なので見降ろされていたのではないですか。話を聞いているお父さん方はニヤニヤしていたので同じことを考えていた筈です。タンゴの総本山から帰ってきておかしくなっとるとも思ったかもしれません。そしてバイオリンにつける伴奏はそこに入るなと指示しています。客観性を求めています。そうするとバイオリンは浮きます。旋律は美女そのものだと、唯一無二の存在として表現するために他を混ぜない、こんなことは恋愛をしていないと思いつきません。涙を示す旋律に対しては「嘘の涙」だと。だけど彼女にとっては真実だと。涙が流れているのだから。女性特有の面倒くささを表現するよう求めています。こういうのは男性は好きです。だから演奏する人たちもこの例えでよくわかります。男性の心理に投影されて表現されています。上述の小澤征爾がウィーンの楽長に就任した時ですが、その時に最初に祝福の電話をしたのがこの人だったと小澤が証言しています。その際、客演のオファーを出すもすぐに断られたということです。金がなくならないと仕事をしないから。そしてその3年後に亡くなりました。

 不倫は芸の肥やしである、などと言う人もいます。本当でしょうか。身近な人すら大事にできないのに歴史に残るものを創造できるのでしょうか。しかしいろんなものがあるのでしょうね。いずれにしても幸福を描写するものではありません。歪んだ結婚観で失敗した人生の逃避先を見つけて傷を労っていることが共感されているに過ぎません。テレサ・テンは中国で党が推奨する生き方ではないとして禁止されていましたが、まとまな考え方ではないでしょうか。そんなことを言っていたらお固い人間になるのでしょうか。であれば、右の写真の方はどうですか。こちらの方が健全ではないでしょうか。奥様はよくわかりませんが魅力的な方だったのでしょうね。恋愛と結婚は別、なる考え方もあります。しかし本稿の流れを見ると、それはない、少なくともそういうことでは説得力のある演奏家になるのは難しいでしょう。割り切ったらその分、質が低下するのは避けられません。これは男性、女性に関わりなく重要なことだと思いますが如何でしょうか。