中国音楽と西洋音楽の関わりについて - 二胡弦堂


 音楽は小学から科目が設置されていて教科書もあります。やることと言えば楽典の基本と歌やピアニカ、リコーダー、他にはバロックからロマン派までの歴史ぐらいです。バッハやモーツァルトを始めとする楽聖たちのポートレートが壁に貼ってあるのは全国の音楽室に見られる特徴です。勉強らしい勉強はやってないので、大人になってから二胡をやるとか、いろいろ始めた段階になって時々「自分たちは音楽の教育をきちんと受けていないのではないか」というわだかまりを感じることがあります。しかし日本の音楽教育は諸外国に比べれば充実している方なので、これではしょうがないと思って諦めることが多いと思います。それに、社会で生きていく上で音楽教育は必須のものではないので重要性が下るのはやむを得ないとも思います。しかしこれは正しい考え方でしょうか。

 塩野七生著「ローマ人の物語 8 ユリウス・カエサル(ルビコン以前 上)第二章 少年期」を参照するとイタリアで雇われる家庭教師についての記述で始まっています。ここに基本的な7科目(ギリシャ・ラテン語、修辞学、弁証学、数学、幾何学、歴史、地理)以外に天文学、建築、音楽も教える場合があるとあり、当時の文化的先進国だったギリシャがなぜ音楽教育を重視していたか、その理由が書かれています。「音楽を奏する技能の習得というよりも、調和の感覚を磨くためだった」。音楽だけこのような説明があります。天文や建築にしてもほとんどの人が専門家にはならないのですから、これらを学ぶにも何らかの理由が要る筈です。だけど教養として学ぶということであれば否定されることはほとんどありません。一方で音楽は不要なものとされることがあるので、その存在理由を注記する必要があったのだと思われます。音楽家になるつもりが全くない人に調和の感覚を教えるために音楽を学ばせる、この調和とは何なのでしょうか。世の中のすべてのものは調和やバランスで成り立っています。身の回りにあるほとんどのものは、ある個人か企業が生産したものですが、それらには当然備えているべきバランスがあります。形状だけでなく色彩、素材の使い方など他項目に亘ります。何かが書いている文章を読む時にも調和の感覚に乏しければ的外れな理解になってしまいます。この問題は特に新聞などを読む時に表れます。新聞は基本的に事実だけを書いているものです。だから社会であるとか過去の知識との関連でいろんな捉え方や考え方ができます。書いていることと別の事柄を連結して考えます。これはかなり教養が求められる作業なので、人々はテレビの有名コメンテーターの発言を聞くことを好みます。多くの事実を選別して特定の結論に至るのは調和の感覚が必要不可欠です。この方面での音楽教育の重要性はおそらく世界のあらゆる国家の教育策定者が理解していないことの1つだと思います。或いはわかっていてわかっていないふりをしているだけかもしれません。国家は国民が一定以上に賢くなるのを嫌うからです。優秀な人材は国家を支えますが、民が賢過ぎると衆愚政治に陥り破滅に向うことがあるからです。国家や企業の指導者はどうでしょうか。下さなければならない多くの決定は未知の領域です。世の中は変化しているので過去の成功体験に基づいて決定する責任者を据えるとその国家や企業は崩壊します。過去ではなく今を知らねばならないので情報収集が生命線です。そして現状分析ができるだけでは不十分で、それに基づいて何を行うべきなのか、何から手を着けるのか、すばやく決定行動して実現する力も求められます。未知の領域に対してマッピングする能力が求められます。遠い先を見つめることのできる人材はどんな国家や企業からも渇望されており、そしてそれは永遠の課題です。特定の事柄を重視し過ぎてはならず、関わってくる多くの事柄を踏まえた上で調和の取れた決定を下す必要があります。すべてのパラメーターは人間という生き物が関わっているゆえ常に変化し流動している、それぞれが自分に有利な方向性を目指して思惑が交錯している、それらをリアルタイムに把握しながら全体が納得する、或いは有効な牽制が利いた決定を下す、これらは修辞学や弁証学、数学などの学問で測られる、いわゆる頭の良さでは対処できません。より高級な人材を育成するために使われていたのが音楽という学科で、音楽の調和を解するならその他のすべての調和も解する、流動性も把握できる、それにも関わらずアテネが征服されたのは教育だけでは不十分だったことを示していますが、征服された後も古代世界で最も賢い民族として名声が揺るぎなかったのは高度な教育制度とシステムを持っていたからでした。そしてギリシャ人は世界のどこに出かけていっても自活する能力がありました(注:現在のギリシャ人と古代ギリシャ人は民族からすべて全く違うので混同してはいけません)。音の調和を通して様々な事象に内在するグレーゾーンに対する洞察を身に付けていたからこそ可能だったことで、これによってすぐに異質な文化に対しても即応することができました。音楽を学問としてやっていないと考え方が白と黒だけになってしまいがちであり、曖昧なものは捉えられない、深い洞察力を得るためにアテネでは音楽は必修だったということなのです。こんな観点から音楽がカリキュラムに組まれている教育プログラムは他に聞いたことがありません。

 音楽は学問としてなるべく子供の時からやっておかなければなりません。しかし一般に音楽教育というと音楽家になるための教育しかありません。例えば先生がある和音をピアノで弾いたら学校に上がる前の子供でもその和音の構成音がわかるとか、そういう子供が才能があるとか、そういう教育が専門的と言われていて、他には楽器を学ぶとかそれぐらいしかありません。それで優秀だった子供らが成長して音大に入ったら、和声学は難しくて最も人気のない学科であるという、ある楽曲の1つの箇所で成立しうる2種の和音があって、どちらも間違いではないが文脈上どちらが適切かといったことはわからなかったりします。数学みたいにはっきり答えが出ているものしかわかりません。そうなってくるとアテネ的観点からは「音楽を学んでいない」状態になります。選択肢がABとあって、教養ある人々が例外なくAを選ぶのがどうしてなのか、理由を聞くと「美しいから」だったら、もうそこでお手上げになります。本当は和声学や対位法は専門大学でやるのではなくて、小学でみんなやっていなければならないと思います。音痴かどうかはどうでもいいのでソルフェージュもやらなければなりません。アーティキュレーションにしても、もう小学からやっていないといけないと思います。本当の意味で教養が身に付く教育を探すのは難しいことです。

 しかしこれは西洋式の教育であって、東洋ではどうなのでしょうか。世界中、西洋式の音楽教育を受けても何ら問題ないと思いますが、だったら例えば中国音楽だったら駄目なのか、ということなのです。中国には西洋に欠けたものもありますし、これも最良の選択の1つだと思いますが、しかし適切な教育を見いだすのが難しい点は西洋と変わりありません。あんまり言うと体制批判と取られたりするのでやめますが、西洋でも中国でも巨匠が出なくなっている一事を見れば明らかなので、この点で多くを語る必要はないでしょう。

 ここで言いたかったのは主題の「西洋と中国音楽の関わり」なので、何で教育の話に始めから逸れたのか、自らの調和のなさを露呈した悲しむべき現実が誠に嘆かわしいのですが、ここらへんでしっかり本題に入っていきたいと思います。つまり中国では、二胡の演奏とか楽器もそうですが、以前にも増して西洋に傾倒するようになっているということです。西洋化された民楽の演奏、もう"民楽"という言葉自体がそういうものを指すようにさえなってきているぐらいです。バイオリンのような音が出る二胡も出てきて、演奏も西洋的なものに変わってきています。これは1つの方向性としておもしろいと思います。しかしそれは"1つの方向性"に留まっていればの話です。これが唯一絶対ということになると様子が違ってきます。

 民主主義というものはおそらく古代ギリシャの都市国家(ポリス)が起源です。この頃からすでに選挙を行って指導者を決めていました。これが地中海世界に広がって、その内の1つ、ローマが大国になると、選挙で選出した人々で政策を決定するのは難しくなってきたため、混乱期にはスッラが最初の終身独裁官になり、次にカエサルが帝政への道筋をつけました。それ以降、王と貴族という政治体制が2000年ほど続きました。やがてナポレオンによる、民衆の力を動員して理想を成し遂げる方法が欧州を席巻するようになり、王や貴族の農奴を狩り出してむりやり戦わせる諸国に対して、フランスは進んで戦場に向う若者たちの力で一致団結した組織を作り出し、短期間で欧州全域を支配下に収めました。この混乱はやがて収束しましたが、それでも侮り難い民主主義の力を無視できる国はなく、かといって王位を退きたくない支配層によって立憲君主制という折衷案が導入されたりしました。やがて19世紀末のニューヨークの資本家たち(これは何物なのでしょうか。ドルを発行する権限は米政府にはありません。特定の銀行家の私有権限です。通貨の鋳造権は国家の最大の権力の1つですが、アメリカという国にはそれがありません。米国は建国以来、銀行家による事実上の独裁国家です。選挙なんてものは金で幾らでも操作できるし「誰が大統領になってもこうなる」ということが言われたりもします。現代の本当の大国は支配者が見えません。日本も同様です) この銀行家たちが、支配しやすい民主主義を世界に根付かせるために考えたのが3種の民主主義体制でした。単一民族にはギリシャの都市国家式に近い民主主義、他民族国家には不可能なので共産主義(共産は民主主義ではないと勘違いしてはいけません。北朝鮮は民主主義人民共和国です。民主主義で人民によるマンセー(万歳)大合唱と大円団、恍惚とした雰囲気の中で天からの恵みのように現れた金日成と後継者を支持する国家です。毛沢東は人民の支持によって政権を得ている人民の代表者なので人民服を身につけ、人民の力によって文化大革命も起したのです)、かなり遅れた国にはファシストでブーストするという3種です。ファシストは昇級した民主主義です。何か大きなことを成し遂げる必要がある緊急事態に、国家はこの伝家の宝刀を振るいます。しかしこの宝刀は抜いたことが悟られないように振るわれます。戦前戦中の日本はファシスト国家でした。

 中国は19世紀末の西太后から、軍閥による群雄割拠の時代に入り、外国の侵攻も許して長い混乱期を経験しました。1949年にようやく全土を統一しましたが経済は苦しく、1954年の大躍進政策の失敗で数百万とも言われる大量の餓死者を出し、ソ連とも西側諸国とも関係が悪い閉塞感の中で1964年に文化大革命を起し、数千万人の死者を出しました。毛沢東の死去によってようやく復興に向うことができましたが、過去の傷があまりにも深く、現代でも軍事パレードを行って国威発揚が必要な状態です。常に政治上のブーストが求められる状態で、もはやこれが普通にさえなっているということは文化の側面にも大きな影響を及ぼしています。五四運動で伝統文化が否定され、文革でまた否定され、現代では西洋化が来ています。西洋化自体に何か問題があるわけではないですが、その精神が過去を引きずっているのであれば、そこは何らかの問題を孕んでいる、それは西洋化一色にしていこうというところに表れます。確かに過去は伝統文化を否定してきましたが、だからといって何か新しいものを産み出せたわけではありません。愛国などの衣をあてがわれた伝統文化が生き残ってきた、そうでないものが排斥されてきたに過ぎないので、正直なところ中国人にとって過去を振り返ることになる伝統文化は精神的にきつい、これでもかという程、叩かれてきたものにまた戻るのはもう無理になってきています。中国はまだ文革は終わってはいないんですね。だから中国人、華僑も含みますが、西洋化の追求で専門化してもらって、その方向は任せた方がいいのかぐらいに思ってくるわけです。伝統の再構築は外国人でやるしかないところまで来ていると思います。古い曲を持ち込むと中国人老師から「それは文革の曲である」と言ってたしなめられるということもあると思います。だからといって今のところ日本人老師が教えられるかといったらそれも無理なので曖昧になっているわけです。そこらへんをもう一度更地に戻して再確認することで元に戻そうという整理作業は中華民族の不得意な分野なので、中国人だけで取り組むのであれば以降もこのまま、そのうち若い世代に変わった時にはかなりが失われていることになるのだと思います。中国まで行って学ぼうという人は結構いると思いますので、こういう背景は意識して出かけて欲しいと思います。中国へは戯劇関係を学びに行く人も少ないながらいますけれど、この業界?は極めて閉鎖的です。中国は仕事がいい加減ですから警備員は突っ立てるだけで、公演が終わったらどんどん進んで楽屋に侵入するのは楽勝です。楽屋で出演者や世話人などに話しかけても誰もあなたを相手にしないでしょう。異常な雰囲気なのでこれは一見の価値があります。そういうところに行ってきたからなのか、日本の中国戯劇関係者もかなり閉鎖的で、ネット上でも今はほとんど活動していないと思います。二胡のサイトが増えてきてから静かに立ち去ったようですね。中国に行って学ぶのは良いですが、何でも学ばないようにお気をつけいただきたいと思います。西洋ナイズされたやり方を学ぶのは良いですが、それに染められてしまわないようにもお気をつけいただきたいと思います。そもそも文化的なことをやるのに政治的歴史の側面を理解しないといけないのはたいへんですが、それは世界中のすべての伝統音楽についても同じですからね。何がしかの黒い背景というのは有りがちなので、そういうことを理解するというのも必要ではないかと思います。




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