中国風のセンスを身につけるべきでしょうか。 - 二胡弦堂

 


毛沢東の置物  これはデリケートな問題です。中国音楽に関わらずどこかの地域の音楽を演奏する場合、その独特の様式を十分に理解した上で演奏しますが、しかし自分自身は当該地域の出身ではない、住んだこともないという場合、中国音楽であれば中国人に率直な意見を求めると「違和感がある」と言われることがあります。どうしてもある程度こういうことはあると思います。

 以前に、中国から有名な二胡演奏家の方が来日した時に、リサイタルで、日本人がよく知っている日本のある曲を演奏しました。それを聴いて、何とも言えない違和感、座り心地の悪さのようなものを感じました。おそらくその場にいた聴衆は皆、同じように感じたと思います。彼女は日本の伝統的な旋律を非常に正確に西洋の平均律で演奏し、東洋の五音階で演奏しなければならなかったことを知らなかったのです。今は日中交流が盛んなので以前のような全然違う感じというのは無くなってきましたが、それでもやはり国籍の違いというのはどこかで感じられることがあります。

 このように中国人が日本の文化を、日本人が中国の文化を真に理解するのは難しいものがあります。北大路魯山人著「河豚は毒魚か」の中にこうあります。「無知な人間は無知のために、なにかで斃れる失態は、たくさんの例がある。無知と半可通に与えられた宿命だ。」彼がここで言いたいのは、どうせ何かで斃れるんだったらフグを食おうぜ、ということですが、昔はフグを食べるのは致命的な段階に至る可能性があったので、周囲から「やめておけ」と言われるところで「自分は無知、生半可でいずれ倒れるから、それだったらフグで」などと言い訳して食べていたという。人から阿呆と言われると確実に怒っていたと思われるが、フグを食べるに及んでは突然弱々しくなっては「私は阿呆ですからどうしようもありません」と自分から言うわけです。昔の文化人という感じがします。いずれにしても、失敗する人間というのは彼の認識では無知か生半可であったらしい。物事をよく知っていて熱心に取り組めば、それなりに成功するものだということですが、しかしプロという立場に置かれるとそれなりでは不安になります。やはり生半可はよろしくないと、失敗すると大変ですから。ここで言うプロというのは二胡をやっていないが、今から自分たちの作品に中国のものを加えるにあたって二胡を始めるというような人たちのことです。ビートルズがシタールを彼らのアルバムに入れるためにインドに行って学んだという話もありますが、そういう意味合いで現代のアーティストが二胡ということもあるということです。そういう人たちにとって「中国古典はわかりにくいからそれっぽい音が出ていればいいんじゃない?」という感覚は有り得ません。そういうところで辺な違和感を持たれてしまうと、作品全体としてよく仕上がっていても魅力が霞んでしまう恐れが多分にあります。だからイメージとかなんとなくで新しい楽器を導入することはできません。そういった人たちはすぐに二胡をやめるそうです。何だか、全体的にポピュラーとかに流れていてきちんと学べないかららしいです。ビートルズとシタール二胡を長年やっておられる方々は「何を言うのか。我々は中国古典もやっている」というかもしれませんが、プロから見たら違うのです。愛好家は自己満足で良いし、もうぜんぜん立場が違うのです。別に愛好家のままでもいいですが「自分は他人から金を払わせてくれと言われるぐらいの内容を提供できるか」という観点でやっていたら、中国の文化に対しても見方が変わるはずです。

 よくわからない、は決して言ってはいけない言葉というわけではありません。よく将棋指しはトッププロでも「わからない」を口癖のように言います。彼らの言う「わからない」は一般のわからないと意味がぜんぜん違います。この人らは東大より頭がいいんだから。わからないに含んでいる意味合いが深いのです。そこに自分の限界とか諦めといった要素は含まれていません。将棋の場合は常に進歩していて常に今の状態を全体で共有しています。その最先端は多くの研究を以て結論を出します。その課題点に当った場合に彼らは「わからない」と言います。自分の指した将棋のある部分についてそう言いますので、これは別の意味では「自分が最先端」ということを言っていることになります。中国音楽の研究でもそういう意味で「わからない」と言うのは良いです。わからない状態で置いておかねばならない部分というのが芸術の場合はあります。全部に結論を出して確定させるのは硬直して自由な表現を失わせるからです。従ってある部分でわからないということは、その人の格とか知性を反映していることがあります。わからないと一つ言うのでも簡単ではありません。

 バイオリンはイタリアの楽器です。それでその他の国民にとって、少なくとも黎明期には"外国の楽器"だったはずです。交通の発達した現代では国ごとの違いはなくなってきましたが、かつては民族によって個性がありました。それでもそれで良しとされていました。イタリアは、ルネサンス時代の小国の支配者たちが、地中海交易で築いた富を芸術の発展のために消費し、多くの作曲資産が後世に残されています。20世紀に至るまで、多くの優れた作曲家が多数の作品を生み出し、これによってイタリアは、今日に至るまで世界最高水準を維持しています。ドイツ・オーストリアは後発ですが、バッハ以降、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスといった優れた作曲家が出てきて、イタリアから完全に独立した文化を築きました。この2つの国は風格が全く違います。

 20世紀に入って、イタリア国営放送の幹部たちは、ドイツがなぜ、ドイツ最高の巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを起用して、ドイツ至上最高の大作・ワーグナー「ニーベルングの指輪」(全部録音したら15時間前後)を録音しないのか不思議に思ったようです。今録音しないと後世に優れた資産が残らないので、ドイツのみならず欧州演奏芸術にとって莫大な損失となると考えたイタリア国営放送は、自社のオーケストラにフルトヴェングラーを招聘し、非常に長大なワーグナーのこの作品の録音に取りかかりました。イタリアは、自国の優れた作品、演奏を積極的に収録していましたが、他国の文化にも深い関心があったのです。しかもこの長大なプロジェクトは、時期を改めて4回行われています。収録されたものだけで60時間というすごい長さです(拙宅には2回分しかありません)。この演奏を聴いた人は、オーケストラがイタリアのものであるという点に驚きます。イタリアの名手たちは、完全にドイツの風格を身につけ、まさに"ドイツの音"を宙に放つことができたからです。15時間にも及ぶ他国の作品を、十分に理解していたというのは凄いことです。

 二胡は、中国、シンガポール、日本などで好まれている楽器です。日本人としては、二胡が中国の楽器なので中国の文化は尊重できるかもしれませんが、仮にロシアあたりで愛好者が増え、そこの演奏者たちが聞き慣れない流儀で、"勝手な事"をやり出した場合、我々がそれに対して、どのように反応するかは、我々の芸術家としての本質が表れます。イタリア人から見たドイツは、まさにそういうものだったのです。しかも、ドイツはイタリア以上に多数の巨匠を輩出する強力な民族だったので、イタリア人がその成功をにがにがしく思ったとしても不思議ではなかった状況です。しかしそれどころか、十分に理解し、愛し、擁護することさえしたのです。民族によってそれぞれ特徴がありますから、それがどのようなものであれ尊重するのは、真に美しいものを目指している人にとって必要な特質だと思います。もし仮に、北朝鮮の優れた芸術家を北朝鮮人だからという理由だけで評価できないなら、その人は芸術愛好者以前に、政治に影響された単なる俗人であることになります。

 北大路魯山人著「味覚の美と芸術の美」の中に日本人から見た中国文化について書かれています。まず前置きですが「天日の下新しきものなしとはその意に外ならぬ。人はただ自然をいかに取り入れるか、天の成せるものを、人の世にいかにして活かすか、ただそれだけだ」とあります。つまり人間の着想するものはすべて自然界にあってそこからいかに学ぶかが重要である、ということを言っています。そしてしばらく論じた後「しかるに、初めはいろいろ外国のものなどに魅惑されるのであるが、やがて眼が肥えるに従い、次第に日本のものがよいということが分って来る。これは書にせよ、絵にせよ、陶器にせよ、料理にせよ、建築、音楽、花にもせよ、庭にもせよ、すべてについて言えるのである。
琴 - 張鋭  例えば書である。書は誰でも初心の頃は、一応中国人の書に惹きつけられるようである。私も初めは、中国人の書をよいと思った。しかるに、少しく書が分って来ると、自然と日本人の書に帰ってくる。中国人の書は、形態はよいが内容において欠けている。言わば、役者の殿様が衣装束帯をつけたようなもので、なるほど、見てくれは殿様らしく立派だが、所詮、役者の殿様であって、本物ではない。すなわち、内容がないのである。風采容貌だけだ。これは陶器についても言える。中国で出来た古染付などというものは、時代の反映となって、中国のものとしては、なかなか秀れたものである。けれども、現在このよい陶器を生かし得るものは、中国人ではなく、日本人である。また、日本に陶器が移ってからは、単なる陶工の造りものであったに過ぎないものが、立派な芸術と化して創作されるに至っているのを見ても分る。」とあります。芸術関係は何でもそうで、音楽も例外ではないとしています。中国のものは何物も表面だけで底が浅いと。特徴としては確かにその通りなので、これは中国芸術を捉える時にポイントになる点です。ここで中国の書が批判されていますので、一つ貼り付けてやらにゃいかんなと思って貼っていますが、これは既に亡くなられましたが、90歳を超えた劉天華の弟子・張鋭が書いたものです。なかなか遊び心があります。良い悪いというより、中国の特徴が有る意味出ていると思います。それでも続いて「私から見て、中国人に学ぶべきなにものもなしと言ってよい。」としています。困りました。そうしたら二胡はどこで学んだらいいのでしょうか。「ここにおいて、私はなぜこう日本人のみが独り世界に冠絶した素質を有するかを考えざるを得なくなった。」そして「私は地球上日本が、優れた自然天啓を享けて成り立っているからだと思う。そして、このような地理的に秀でた環境のもとに、日本人が育てられ、民族としての優秀な素質を培われたにほかならぬと考えざるを得ないのである。」もう結論は出たようですがさらに矛先を西洋に向け「スイトピーの花の美しさなどというものは、実に薄っぺらな造花美に過ぎない。しかるに、日本の豌豆の如きは、花も奥行きのある上品な美を持ち、葉も深々と色艶に潤いを持ち、その上、豆までが優れた香味を有する。」海外に行かれたことのない方はわかりにくいと思いますが、だいたいどこかに行くと思うのは「何でこんなに殺風景なのか」ということです。それぐらい日本は自然界自体が多様性に満ちていて、食べ物にしてもこれだけよいものがたくさんある国は他に見当たりません。日本に来たことのある外国人で、日本だけ別世界という人は多いですが、まさしくその通りなのです。すごく世界で浮いています。この間テレビで来日したハリウッドスターを見ましたが彼はこう言い放ちました「日本の皆さんのために撮影しました」日本人が聞くと変な気持ちになります。別にネバダで日本人のために映画を撮らなくてもいいだろう、気持ちの悪いリップサービスだが批判するのも礼儀に欠けるしということで「はい、そうですか」と聞き流します。続いてワールドカップが終わったので、世界最高の選手たちが日本に来て「日本は最高です」などと言います。気の遣い方が半端じゃありません。当然、これらすべてはプロデュース会社から指示されて言っています。これらは確かに日本人に対しても言っていますが、主にアジア市場に向けて言っています。日本のために作った映画、日本が大好きなスターとなるとアジア全域で人気を獲得できるからです。日本はそれぐらいすごい影響力があるのです。巨額の金が動くので「好きです」ぐらい幾らでも言います。アジア全域をうろうろするとわかりますが、若い人の殺し文句は「これは日本で流行ってる」です。嘘です。嘘ですが個人の所持品を自慢する時にそう言います。現地語が少しわかってくると耳につきます。不自然なので。スターが来日して「日本が好きです」と言うと日本人以外のアジア人はあまねく感動します。そして日本人のプライドを立てます。中韓? 批判はしますが、これは一種のコンプレックスであって、要するに阪神ファンが巨人を敵視するようなもので、巨人ファンは相手にしませんが、これは日本が中韓を相手にしないのと同じことです。巨人の大型補強で「悪の帝国があれもこれも欲しい」と騒ぐ阪神ファンと思えばわかりやすいんです。しかし弦堂は関西だから、あの辺でこういうことを言うと非国民的扱いになりますので発言できません。それぐらいです。日本はいつも注視されている国です。魯山人はうぬぼれているのではなく、普通に本当のことを言っただけです。

天上大風 - 良寛  魯山人による日本文化の優越性、並びに中国文化の中身のなさについての見解は正しいでしょうか。正しいです。正しいですが、理解としては不十分です。中国というのはよく「張り子の虎」に例えられます。表面が立派で中身が空っぽという意味です。では、空っぽなのはよろしくないのか。魯山人は優れた芸術について良寛を引き合いに出し、表面は線が細くて柔らかいが中身は意思の強い力にみなぎっている、優れたものは全てこのような特性を持っており、逆はたいしたものがないと言っています。全くその通り、議論の余地がないので、日本の多くのものは中国よりも高額の値が付いている程です。魯山人は良寛を材料に取り上げたりしていますが、実際のところ、名品を手元に置いて相当勉強しています。その中に良寛だけでなく、あらゆる国宝級の品は入っていない筈です。民間でやりとりできる名品を蒐集しては売ったりしています。百貨店の特売で一気に放出することもあったようでその理由として「長く置いていると学ぶものがなくなるから」と言っています。本当に凄いものは飽きたりはしません。日本の芸術関係のものというのは数がゆるやかなピラミッド型で、確かに国宝は僅かですが、裾野の安物に至るまでの中間も結構豊富です。それと同じ感覚で中国美術を見るのはよくありません。中国は中間がすごく少ない、ピラミッドの頂点が5としたら3,4ぐらいがすごく少ないので、まともに蒐集に手を出してしっかり勉強しようとすれば、それは評価を落とすのは当然です。飛び抜けて良いものがあったら、それより下は急降下します。こういったもので魯山人が評価していたな、と思うのは彼が陶器に関して明代のものは有る程度評価するが、清以降はろくなものがないとしている点です。いやいや、乾隆、康煕あたりが凄いのですが・・。だけどこういった名品は台北の博物館あたりにあったりしますからね。それらも魯山人の評価の対象になっていたかどうかはわからないですね。実際のところ、中国の骨董屋で見つかる清代のものはどうも良くないことが多い、そこそこ良いものはどうしても明代のものになりがちなので魯山人の評価は民間のものに限定すれば正しいのです。どうして中国美術がこうした偏重を来すのか、それは技術重視だからです。精神性はあまり関係ありません。一方日本はというと、良寛のような素人風の文字を評価したりします。秘めたもので評価します。中国にもこういった考え方がないわけではありません。古琴の世界では技術を開帳すること自体が無粋だと考えられています。恥ずかしい振るまいと認識されています。二胡はそうではないですが、これは最近の傾向ではないかと思います。しかしこの現代二胡の概念は本来の中国文化の考えに近いものです。張り子の虎を大量生産するつもりがあるかどうかわかりませんが、結果的にそうなるでしょう。そうであれば、中国の国宝を評価したらどうなるのか、これらは精緻な技術の結晶です。そしてその心はというと、広漠たる無が広がっています。空なのです。いけないのか。

 終戦後6年を経てようやく再開することができたドイツ・バイロイト音楽祭は慣例を置いて、開幕に演奏会を開くことにしました。バイロイトはワーグナーしか演奏してはいけない決まりがあるので、上演ではなく演奏会というのはもとよりなく、この1951年に行われたコンサートは戦後唯一のものとして記憶されています。しかしこの演奏会が歴史に残っているのはその内容のためでした。バイロイト当局はこの記念すべき演奏会にヴィルヘルム・フルトヴェングラーを招聘し、曲目はベートーベンの第九交響曲と決まりました。このライブの模様は今でも簡単に聴くことができます。なぜならこれが、第九演奏の史上最高のものとして認知されているからで、簡単にCDが買えるからです。このCDには2種類あります。1つは普通のもので、もう一つは「足音入り」と書いてある分です。足音とは演奏会が始まる前にフルトヴェングラーが舞台に上がってくる足音から収録されているという意味です。足音が収まったらフルトヴェングラーの話が聞こえ、その後演奏が始まります。この話はドイツ語がわからないと理解できませんのでブックレットに書いてあってその内容は要するに、無になるように、というものだったようです。演奏者に対して無心になるようにという指示でした。そのためか、この演奏の背後には虚無が横たわっています。そして宇宙的な巨大な広がりを感じます。宇宙も虚無です。本物には無の要素が必要不可欠なのか。しかし無を基調に置いた場合、成功する可能性は高くはありません。それで中国の美術は国宝とそれ以外の差が大きいのかもしれません。日本は無を表現するにしても完全に虚無ではない、無にも味があります。中国は真空だが日本はそうではありません。中国の本物の芸術はすべてがバランスが取れており、完美であることによって何もない無を表現します。神を目指します。中国の国宝はそもそも神の子たる皇帝に納めるために作られているので、初めから神を意識していたのかもしれません。日本は人間の泥臭さを愛します。自然界の八百万の現象をそのように表現します。全く違います。だから単純に付和雷同して魯山人の見解を真に受けてはいけません。魯山人は神を目指したものを見たことがないのでしょう。或いは見たことがあっても「自分は人間だから人間の規準で評価させてもらう」などと言ってやはり中国を否定したかもしれません。自身を神の子と考えていた中国の皇帝は既にその時点で普通の精神状態ではないし、そこへ納めるものを作るのですから、それが人間としての喜びを謳歌している魯山人の気に入らなかったとしても不思議はありません。一部のわかりにくい中国曲について、どうしてかといわれると明確な答えはなく、ただそんなに好きではないから、とかそういう感じになることもあると思います。その好きではない感覚は多分にこの中国文化の特性にあると思うのです。結構表面にシフトしていて、中身は重視する傾向にないのです。これがゆえに受け容れられなかったら皆さんも魯山人化していますね。中国独自の美というものがわかっていない、日本の自然は天から賜ったものでそこから学ぶものであるというところで止まると、いやいや、中国の自然も同じではないかと思います。蘇軾の詩は中国のものですが、中身が非常に濃いものです。彼の熱心な支持者は皇室関係者に多かったので彼が政争に破れて死刑宣告を受ける度に救われた程でした。こういうものもあるので、何でも中国というと中身が空と早合点してはいけない、魯山人ぐらい昔の人であれば、例え中国・朝鮮に住んでいたことがあったとしても今ほどには情報が多くはなかったと思うのでやむを得ないにしても、皆さんは同じであってはいけないと思うのです。確かに日本の文化は非常に高度で世界に並ぶものはないのは間違いありませんが、だからといってそれだけで良いという狭い考えは、二胡奏者を名乗る以上、それはおかしくないかと思うわけです。

 先の魯山人の中国論を聞いて腹がたった人は少なくないと思いますのでその向きにもう少し続けます。しかも弦堂がそこへ火に油を注ぎ、意味不明になぜ煽るのか、そこまで裏読みした方もおられると思います。しかしこれを読んで黙ってしまった方もおられると思いますがその方に対しては言うことがもうありません。その方はもうすでに何かを生み出す側に立っているだろうと思うからです。作る側になると何とも言えなくなるんですね。しかしそうではない違和感を感じた方のために以下は続けることにします。まず前提として魯山人は中国人ではなく日本人を怒らせるために日本文化礼賛をぶちあげているということは踏まえていないといけません。そもそもこの中国批判を中国の文化人に言うと大概彼らはすぐさま同意してこう言います「数十年後には日本に追いつけるでしょうか。無理でしょうね」。彼らは自国に強い不満を持っており、そういういろんな積み重ねとか都合があって国家政策として反日という屈折した結論を引っ張っています。一方日本人はというと「中国にも良いところがあるだろう。どうして甲乙はっきりさせる必要があるのか。なぜ他国を批判する暴挙に出るのか。やってることが中韓と変わらないじゃないか」と基本こうなります。従って魯山人はここで日本を礼賛して強烈な反発を呼び込む挑発をしていることになり、事実彼はそういう問題をあちこちで起こしていたことで問題児とされていた件はウィキにさえ書かれている程です。最高の芸術家は常に無理解と隣り合わせです。その魯山人から見たら「中国や欧米もいいんじゃない?」という玉虫色の評価の仕方は鼻持ちならないと映ります。そんな理不尽な、と思われるかもしれませんが、それは置いといて、ここは魯山人の気持ちになって考えてみて下さい。彼は創作活動に生涯をかけています。それに対して「大概どこのでも良いところがあるんじゃね?」というクールな対応をされると、どんなに働いても給料が一緒という共産主義みたいで野蛮で馬鹿にした考え方と映ります。(注:共産主義がこういう問題があるといっている訳ではなく、中国が極端に走る傾向があるから失敗しただけのことだろうと思います。似たような考え方を資本主義で導入した日本はバランスに優れていたので成功しています。)いろんな考え方があるわけだし、いろんなレベルの人もいるから魯山人がこういうことに噛付くのは大人らしからぬ行動です。彼の場合は幼少の育ちに問題があったので、こういう問題に神経質だったと言われていますし、常に無理解を肌で感じていたためだろう、文化庁からの人間国宝指定も拒否しています。これは多くの人が無意識に彼を苦しめていたことを意味しているのかもしれません。イタリア、フランス、中国がどうのと言っても、日本が東の横綱である事実は揺るぎません。でも多くの日本人はそこに自信が持てません。いや、自信があり過ぎるのかもしれませんが、そうであっても他国と比較されるだけで嫌がります。それでランクづけのようなものは嫌うし、お茶を濁します。東を見たら敗戦国、西を見たら中韓の誹謗があるので、精神的に鎖国しています。こういう精神状態が「出た杭は打つ」的文化を支えているではないかといったことは考えないといけません。卑屈な島国人という側面も中国にはないものです。魯山人の傲慢な物言いはそれに対するアンチテーゼだったのかもしれません。魯山人の言っていることに不快感を感じる人は日本人特有の問題が自分にないか考えるべきだということです。それで魯山人を引用させて貰いました。結果を出したものを正当に認めなければアンフェアです。日本ほど結果を出している国は世界広しと言えども他にありません。そういった正当に評価すべきものを評価できるようになってから、そして日本だけが我が世界という考えを改めてから中国を観るべきだろうと思います。

 そうして中国を観ると、中国文化はバランスと調和を重視し、内奥に虚無を生み出すことでさらに高い次元を目指すというものです。これを無視して台北に飛び、故宮に行ってお宝を鑑賞する、どこが良いのかさっぱりわからないとなります。日本では内に秘めたものが何かを観ますが、中国物はそれだと何も見えてこないのです。外面に多くの要素があります。日本は上に良寛の書が貼ってありますが、外面は重視されていないのです。いずれの場合も観賞法がわかってないと意味不明になるのです。中国の創作法は三球三振が延々続いてその内擦ったら一気に場外ホームランが出るという、場外でなくても点数は一緒なんですがそれでもかっ飛ばすという、一方日本は勝っても負けても美しいといったスタイルの違いがあります。どちらも虚心坦懐なんですが、これだけやり方が違います。中国は失敗を増やし、張り子の虎を量産しますが、いいんです、夢があるから。中国人もいたずらに日本礼賛に同調せず、自国の文化をより理解して愛すべきだと思います。弦堂は民国期に作られた中国の急須を持っていますが、これは他のものと違い、使っていて違和感が全くありません。すべてが有るべき位置にあるのです。日本にはこういうものはありません。日本は人間味とか、滲み出た歪感さえ表現に使います。中国は完美であることで恰幅を得ています。これが実に中国の自然とか建築に調和しているのです。日本に持って帰ると違和感がありますが、逆もしかりで、日本のものは中国では違和感があります。

兰亭序 - 王羲之
 肝心な音楽はどう違うのか、随分遠回りしましたが「中国風のセンスを身に付けるべきか」ということに戻るのですが、中国の譜を読む時に、表現とか感情を捉えるような入り方だと分かりにくくなります。まずは表面の工芸品的技法がどう組み立てられているかから入ります。これがいささか高度過ぎた、それで皆さんは二胡をやって長年苦しんでいるのです。いやいや、おもしろいと思うべきですが、この特徴があるので、最近中国で技巧に走る奏者が多くなっているのではないかと思えます。そういった有る意味完璧なもので作品を作っていくわけですから。でも中身は何も見えて来ないんですよ。見えないのは良いが、宇宙的な虚無はなかったら駄目なんです。それがないと張り子の虎になってしまいます。しかしそういうものを延々と無機質に生産し続けていく過程で突然出る天才を夢見ているのです。だから張り子の虎的中身がないどうしようもないものも、一旦は受け容れるのです。化けるかもしれないから。とりあえず表面は何とかなっていないとどうしようもないという感覚だから。皆さん、龍は1000年に一度しか現れないんですよ。だけど中国の音楽でも虚無は虚無でもすごい濃いものもあるわけです。当然です、外面を技巧的にチューニングし、その結果背後の大きなものを見せるわけですから凄いものは何もない筈なのに濃いのです。空の駄作が多いというだけです。こういうアプローチで作品を作るのですごく難しいのです。そういったいろんなものを学んでから日本に立ち返る、魯山人も書と篆刻を学ぶのに中国で修業していたことがありますし、良寛も王羲之その他中国の書に精通していたと言われます。偉大な歩みの最初に中国がある、皆さんは二胡を持っている時点でその可能性を秘めているのです。中国を十分に理解してから日本へ行く、ビッグになりやすいパターンなのです。それで中国を学ぶことから逃げてはいけないのです。中国を十分に理解できていないと思ったら猛省すべきでしょう。

 しかし中国音楽を理解できていないと思っていても全くわかっていない人というのは今どき稀です。テレビでは世界中の音楽が使われる中で中国テイストのものもあるので雰囲気だけはだいたいわかったりはします。そしてこういう何でもないようなことでも重要で、まずこういうところから掴んでいないとどうしようもないものです。だけどこれをしっかり会得するとなると難しくなります。何でもそういう傾向はありますが、中国音楽は尚更そうかもしれません。NHKで「坂本龍一の音楽の学校」というのをやっていて、これは世界中のいろんな音楽を教えるものですが、かなり壮大な計画なのでカリキュラムの内容が変わったりとか、時には先生の入院などで停滞しながらダラダラ続いていて、いつの間にか今後の計画がわからなくなっていますが、当初は世界の音楽で何をやるのかリストで発表されていたのです。その当初の計画にはなぜか中国音楽が入っていませんでした。他はほとんどあったので不思議な感じがしたものです。もう初めから中国は諦めていた感じでした。それを見てやはり難しいのだろうと思っていました。だけど中国音楽の何たるかとか、そういう深いところに突っ込まなければ問題はないのか、素材として使われる例はあります。ジブリで「かぐや姫の物語」というのがありますが、かなり中国色が加味された作品で、初めの方7分ぐらいのあたりでおばあさんが路上で乳が出るようになって道を戻る時に梅の花が咲いているのを見るシーンがありますが、あの旋律は梅花三弄です。五人の公たちが去った後に花見に出かけるシーンで馬車が橋を渡るあたりの音楽も明らかに中国の編成が大きい、大きいと言っても西洋では室内楽程度ですが、中国の伝統的な合奏形式の音楽です。帝が最初に出てくるシーンも彼がいる場所は中国式です。姫が演奏する琴は中国人のこの方です(リンク先を開くと音が鳴りますので注意して下さい)。素材は中国のものだけではなく雅楽やクメール音楽(月からお迎えの音楽はクメールの結婚式で演奏される音楽から取材したと思われます。この旋律は沖縄にも渡って変形したと思われます)も使っていますけれど、どちらかというと中国色の強い作品です。姫が作っていた庭も中国庭園だと思います。こういうわかりやすいものからまず掴みを得ておくのは重要なように思います。

 先日、NHK交響楽団定期演奏会が渋谷のNHKホールでありましたので観て参りましたが、この時に東洋人が西洋音楽を演奏するという、自国の文化のものではないものを演奏する時にどういう姿勢で望むべきなのか示唆が得られたのでこのことについてもお話ししたいと思います。

 N響というと固定観念というほどでもないのですが、あらかじめそれなりのはっきりしたイメージがありました。もちろんそれは教育テレビ、長らく大陸に行っている間に名称が変わったと聞いたのですが、要するに教育方面の方のチャンネルですが、それで聴いているサウンドです。実に渋い箱庭的空間で響き合うサウンドです。お固い感じでプロフェッショナルを感じさせるというイメージです。あんまりポジティブな感じではありませんでした。ところが生で実際に聴くとまるで印象が違います。こんなに人間味があるのか、というのが第一感でした。お固い感がまるでない、全然違う印象でした。絶対に主張しない、前に出ないが仕事は黙って忠実に果たす、直接会うと魅力的な人物像という人がいますが、そういう人だけを集めたという印象です。普通交響楽というと、譜面にも注記があることがありますが、中心になる楽器にはそこのところでソロと書いてあったりします。前に出ても良いところ、出なければならないところというのがあります。皆んなはバックでサポート、そしてまた交代したり、皆んなで一緒に斉奏したりというところが醍醐味の1つです。ところが誰も前に出ないとすれば、此れ如何に? いや、そういう言い方は語弊がある、ソリストは仕事をしている、だがその響きはまるで自然界の響きの様なのです。夢のように響いて溶けて消えます。天界の響きではない、そういう概念では決してない、日本には八百万の神なる概念がありますが、神聖なものがそれだけあれば、人知れず静かに存在するものもあるでしょう。そのような佇まいで全てが静かに存在しているのです。臨在といったような客観的なものではなく、確かに存在が感じられるのです。こんな凄いものは初めて聴いた、これはテレビでは絶対にわからないのです。マイクでは録れないのです。だけど渋く箱庭的感覚で響くのは録音でもそれなりに録れるのです。放送録音は座敷の音がします。しかし生で聴くとそういう印象はありません。深い森の響きです。杜ではない、そんなに矮小化されたものではない、しかし森というのもおかしい、森羅、そういう感じのものから出る響きなのです。どちらも倭の響きなのですが、スケールが違うのです。

 西洋楽器をやる、それも国内最高とされるNHKの交響楽団に入団するぐらいともなれば、欧州留学などを経て、という経緯が多いだろうと想像されます。西洋ナイズされてしまうかもしれない、いやむしろ欧州の音楽を主にやるのだから骨の髄まで身につけたいと考えるのは自然なことです。そこで元のアイディンティティを見つめ直すというのはより複雑な精神的行為です。色々教育を受けた結果、そして厳しい競争を見て、それでも尚自分に正直になるというのはそれほど簡単なことには思われません。アリストテレス曰く「受け入れずして思想をたしなむことができれば、それが教育された精神の証である」。精神が教育されていなければならない、そうでなければ精神世界に飲み込まれてしまい、自分自身が結局は何者なのかもわからなくなります。そこを乗り越えて解脱していなければ、N響の入団試験には通らないのではないか・・アリストテレスまた曰く「人は物事を繰り返す存在である。つまり優秀さとは、行為でなく習慣になっていなければならない」。西洋音楽をやっていて、人から何を言われようとも日本人のままで、ありのままでいるというのは容易なことだとは思われません。習慣に徹底して忠実であることで、行為による作られた偽のものではない、本当のものを提示するから席が満席になるのではないか、表面だけのものはいずれバレるし、しかも相手は音楽をやる感性豊かな聴衆ですからね。特に定期演奏会はテレビやラジオでもやっているのです。月に6回もやっています。それでも大ホールが満席になります。聴衆が結局何を聴きたいのかは本人たちも説明はできないかもしれませんが、潜在的に意識していることはおそらく皆同じなのでしょう。

 中国音楽をやっていて、中国の様式を学んではいるが、どうしても日本的になってしまって困っているという場合があったとします。だけれども、真摯に取り組んでいれば自然とそうなるのかもしれません。N響はドイツの影響を受けているのでドイツのレパートリーはドイツの楽団と変わらない演奏が可能です。しかしあの独特の箱庭的表現は雅楽的で、教会建築の伝統があるドイツの感覚とは全く違うものです。大聖堂的響きではなく、深い森羅からもたらされる響きなのです。それでいてスピリチュアルな現実離れしたものでもなく、濃い人間味も備えてそれが儚く消えるのです。倭人だから倭人のやり方でやる、といった意固地なものではありません。ドイツの音楽はドイツの音楽として演奏しイタリアのものもしかり、フランスも同じなのです。中国音楽に携わる人も中国を学ぶべきで「日本人だから日本のままでしょうがない」と開き直ることを正当化すべきではありません。もう一度重要な点を繰り返すと「受け入れずして思想をたしなむことができれば、それが教育された精神の証である」のです。その結果、それが中国人と全く同じものにならなくてもそこが問題になることはないでしょう。