楽曲の歴史的背景について - 二胡弦堂


 現代とは時代の違う古い楽曲の場合、その背景を探ることでどのように演奏するべきかヒントを得ようとすることはよくあります。二胡については特に劉天華について時代背景などがどのように作品に反映されているかを説明されたりします。他の多くの中国の作品に関しても同様です。このことについてどのような見方をするべきかについて考えたいと思います。

 まず最初に理解しておかなければならないのは、作曲作品に対して背景からアプローチするやり方を重んじるのは中国独特だということです。モーツァルトがたいへんな困難にあった時に書いた諸作品は底抜けに明るいですが、これらの作品を作曲者の状況を鑑みて暗く演奏すべき、影を伴うべきだと考える演奏家はほとんどいません。ましてや作曲者の境遇が反映されている箇所がないかを作品の中から探し出すような努力もしません。彼は苦しい時に明るい曲を書く癖があったのでしょうか。死の間際に書き進めて未完成になった作品はレクイエムでした。作品解釈とは普通そういう背景から探っていくものではないので、いろいろやった後に中国音楽に入ると違和感があります。そして共産思想が中心になっていることがわかります。苦難とか労働、将来の希望といったような言葉が中心です。劉天華による「病中吟」は劉が失意のうちに故郷に戻り病床の中で書かれた作品とされています。本当でしょうか。劉はこの作品を通して世の不条理や困難と戦っていたらしいんですね。だけどわからないです。こういったテーマは共産党が好きなパターンだから余計にわからないです。ご本人は故郷に戻って普通に喜んでいたかもしれません。こういった不確実なこと以外にはっきりわかっていることがあります。病中吟は劉の師・周少梅による「喜只喜今宵夜」から旋律が取られたことが知られています。これは戯劇が元ですが、題名から推察できるのはおそらく祭りに関係したものです。劉が故郷でしばらく病気になって寝ていたのは確かなようですが、その時に師の作品をネガティブな観点から書き換えています。それにしても失意にあったとされる病人にしては活発な活動です。そもそも人間は失意にある時に暗い作品を書くのでしょうか。ブラームスはブレスラウ大学から名誉哲学博士号を授与されることになり、感謝状を一通送って済ませました。ところが推薦人の一人だったシュルツが「もっと盛大に感謝を示すべき」だとブラームスを説得したので、ブラームスは当時大学生の間で流行していた学生歌をメドレーで繋げた「大学祝典序曲」作品80を作曲しました。この作品はたいへん壮麗なもので、現代でも人気が衰えていません。とてもむりやり作らされた作品とは思われません。ブラームス自身も非常に満足したとされていて、これと対称となる暗い作品も作ってみたくなり「悲劇的序曲」作品81もついでに作曲しました。これも傑作で現代でも演奏されています。いずれにしても周囲の環境と作曲作品はぜんぜん関係ない、明るいのも暗いのもどっちも作ってしまったりします。だから劉天華が師の作品と対になる暗い作風のものを作ったとしても彼が絶望にあったかどうかとは関係ありません。病気だったから気持ちが沈んでいたのでしょうか。これもわかりません。世の中には入院中に結婚する人までいますからね。仮に本人が落ち込んでいたと言ったとしても作品との関連はわからないし、本当に重症だったとしても作品とは関係ないです。ただあるのは紙に書かれた譜だけです。それだけが真実です。作品解釈はここから始めます。背景のうんちくは参考にしかなりません。

 中国は文化大革命で伝統文化が否定されていったので、その時代に作品と自分自身を防衛するためにいろんな思想的衣を着せることはあったから、否定されたものと肯定されたものの2つがあったことになります。もちろん文革期には新作もありましたが多くは本来滅ぼす対象だった筈の伝統曲の衣換えでした。劉明源によって作曲された「喜洋洋」は党と国家の前途に広がる繁栄を讃えたものですが、実際には山西民謡から2つ取ってきて繋げたパクリに過ぎません。形式はABAでAは「卖膏药」という名の民謡で、Bは「碾糕面」という作品の改編だということがわかっています。こうして古い伝統作品も新しい衣を被せられていきました。作品の背景は都合で幾らでも変わります。わかってはいるのですが、これらの作品を耳にする中国のご老人は過去を思い出してしまう、もう聞けないというぐらい傷を負っている人は少なくありません。楽しい故郷の民謡がこんなことになってしまってかわいそうです。もちろん政治的な側面から諸作品に光をあてる解釈の是非についてははっきり言えないし、どう見做すかは個人の自由なので、何かの作品を文革の作品として扱っても問題はないでしょうが、それが唯一の、或いは正しい解釈だと言うのは誤りです。そもそもそういったアプローチ自体が政治的都合に基づいています。普通はそういったところから作品に入っていったりしません。日本に来ている中国人老師がある作品の解説で「文革の作品である」と言ったら、それがいかにどうでも良いことであっても、もうその作品はその教室ではやらない方がいいです。老師はその作品を正直、聞きたくないのでそう言った可能性が高いからです。みんながやると言えばもうしょうがないですが、老師もそう思っているのでしょう。こういった感情的しこりは日本人が考える以上に強烈であるということは理解しておく必要があるし、これが原因で皆さんはなかなか中国の伝統音楽を学べないという背景があることも踏まえておく必要があります。

 そうすると中国の諸作品はどのように理解していったらいいのかということで困る場合も出てくると思います。しかしよく考えると、もうすでに困っているから歴史的背景とか思想関係のうんちくを持ってきて、いかにも高尚な作品解釈を進めているような感覚でごまかしているんじゃないですか。それは解決になっていないし、むしろ真実から遠ざかることに繋がりはしないかと思います。マッチョな精神論で芸術家になった気分になってはいけない、譜面そのものをよく見て考察する方が有益だと思います。気分とか雰囲気でやるのを許されるのは女の子であって、実際気分とかそういうものは要らないし、評価するのも他人なので雰囲気等を駆使することで煙幕を張って評価を操作するような不誠実なことはやるべきではありません(これもエンターテイメント的観点からは良かったりしますが、ここでは演出とかそういうことは考えていない、本質に迫ることについて検討しているのでその観点から悪としておきます。やることをやった上で煙幕も使うのはなかなかおもしろいと思います)。演奏家がやるべきなのは作品に対して奉仕することで、丁寧な仕事が求められています。雰囲気でどんぶり勘定的解釈は良くないということです。歴史的背景について論じて作品解釈に迫るのもその一種だということです。




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