プロの演奏家になることについて。 - 二胡弦堂


焼く味に尽くす  二胡奏者の方はボランティアの方が多いと思います。それは良いと思いますが、ただ継続はとても難しくなります。対価というのは重要で、これがなければ互いに不幸になります。「気持ちを受け取るのが対価」と言われる方もおられますが、凄く現実的な話をすると、その対価とは金銭に置き換えられていなければ継続は困難でやがて消えることが多いということです。ボランティアでもスポンサーを募集しているとか、国家の支援を受けている場合はまた話が違ってきます。自分で全く別業種の事業を展開して自分で自分をスポンサードしている場合もあります。金銭がらみを嫌ってボランティアをやるかもしれませんが、嫌うと余計に金銭問題を突きつけられますので、そうならないように別の方向から経済補給を受けた上でやるという方法です。経済とは一種の呪いで、この呪縛からは逃れられません。

 そこで本当に継続したい場合は「プロの演奏家になる」のが好ましいこともあります。プロというのは何かと責任が伴いますのでやりたくないという風に嫌われやすいですが、ずっと継続していこうと思えば、ある程度のプロ化はやむを得ません。かといって、そんなに簡単な話ではなく、世界の芸術家で自立している人はほんの一握りで、国家の支援を受けている団体は幾らでもあります。非常に有名な楽団や劇団でも支援無しでは困難です。独立採算はそれぐらい難しいので、二胡奏者の場合は自分で教室を開いて、演奏家としての自分をバックアップしている場合が多いかもしれません。昔の上海・豫園の伝説的な江南絲竹の演奏家たちは皆本業を別に持っていて、楽器の演奏は趣味に過ぎなかったと言われています。しかし彼らの演奏譜は現在では聖典的価値があります。それぐらい良い仕事をしても、独立採算は困難です。

 こうした現実問題を踏まえた上でそれでも「演奏家だけでやっていく」という場合はどうしても「評価=収益」という概念は重要になってきます。この点をどれだけ重視するかは、各人どんな内容の活動をするかも関係ありますし一概に決められるものではないかもしれませんが、これを重要な原則という前提条件とした上で活動した場合、どうなるかということを検討してみます。

 この場合、特に重要なのは「演奏の新鮮味」であるといったようなことはよく言われます。路上演奏した場合、同じ曲を演奏しても自分のコンディションによって楽器ケースに入ってくる金額がぜんぜん違うということは普通のようです。通行人の反応がダイレクトに金額に表れるようです。マンネリ化してくると、その頃にはすでに反復演奏を繰り返していて上手になっている筈ですが、良い反応は得られなくなっていくということです。クラシックの場合は同じレパートリーを何百年も演奏していますが、人気はなくなっています。オリコンランキングにバッハやベートーベンはもはや出てくることは考えられません。新作の発表は重要でしょうか。そうだと思います。しかしそれはどこかで聞いたことのあるような音楽でないと人気は得られないとも言われています。完全に新作であれば大衆が拒絶するとされています。現代の音楽プロデューサーの認識では、95%は過去のパクリで5%は新しい要素を入れて作曲するのが成功の王道とされているようです。新作ですが、音楽的各パーツは全部前からあるものです。組み合わせて新しいものを作っています。従って、人気がないから優れていないということはないですが「評価=収益」の大原則の前には、人気がなかったらあまねく駄作なのです。

 "偽ベートーベン問題"で有名な佐村河内氏は、作曲家の新垣隆氏に作曲の際に青写真とすべきプラン書を提出していたとされています。ある部分が過去のどの作品のどの部分にイメージが近いかということまで書かれていたようです。こういった過去のパーツをいかに使っていくかということが重要になってきます。プロデュースの能力と作曲の能力が必要です。佐村河内、新垣両氏は互いに足りない能力を補って作品を完成させていたことになります。この能力があったら「売れる作品」が作れるということになります。一見、夢のない話に見えますが、優れた傑作はほとんど過去を土台に作られています。全く新しいものは現実的にあり得ませんが、割合としては新しい要素が多いということはあります。そういう作品は人気を得るまで相当な時間がかかり、人気を獲得した頃にはたいてい作曲者はすでに亡くなっています。従って才能がある方がだいたいは苦しくなります。優秀なアレンジャーの方が前途は明るいです。

 こうした作品にカバー曲とか、既成の曲を織り交ぜて、演奏の鮮度を保つ努力をしながら廻していきますが、新作がなければ真に成功はありません。多くの演奏家は「代表曲」というものを必要としており、それは新作であるべきというものがあります。中国の有名な二胡演奏家たちも多くは代表曲を持っていますが、これらを"新垣的"作曲家に依頼して発表します。それで成功するとだいたいは単発で終わるのはそのためです。何だか汚いやり方に思える向きもあるかもしれませんが(それで依頼者と作曲者が連名でクレジットされている場合もあります)共同作業で優れた作品が世に出るならいいんじゃないかと思います。この方法であなたもあなたの「新垣さん」を探すのは1つの方法です。音大の作曲科卒業の方はだいたい別の仕事についているし、能力がもったいないですからね。

 この共同作業の在り方について、おもしろい本があります。北大路魯山人著「素人製陶本窯を築くべからず - 製陶上についてかつて前山久吉さんを激怒せしめた私のあやまち」というやたら長い題名の著作ですが、短編ですぐに読めるのでアマゾンからダウンロードして読んでみて下さい。国内からのみフリーでダウンロードできます。この本はまともに読んではいけません。前山翁は無能呼ばわりされていますが、魯山人からこれだけ激しく非難されるということは彼が最も成功に近かったからだと考えるのが自然です。魯山人の時代には前山翁だけでなく、多くの文人、富豪、評論家らが自分で窯を開いて制作活動を行っては失敗するというのが多かったようで、どうして失敗するのかを魯山人が説明しています。窯を開く人は工人を雇って作品をプロデュースするのですが、そういうやり方で成功した例はないと論じています。しかし魯山人自身も他人に焼かせていたとされ、本の記述と矛盾します。魯山人が競争意識の強い、難しい奴という前提で本著を読めば、共同作業の在り方について示唆を感じる部分は多々あります。魯山人は佐村河内と同様、共同作業を隠していますが、プロデューサーとしての能力もどちらもずば抜けていたことがわかります。

 そしてこの「プロになる」という時に、中国音楽をどの程度重視するかという問題が出てきがちです。一般に言われているのは「中国音楽は人気がない」というもので、こういう場合は日本のよく知られた曲やポピュラーなどを扱います。だけど、聴衆になる一般の人というのは中国音楽を聴きたくないと思っているのでしょうか。それだったら、そもそも二胡を聞こうとはしないだろうと思いますし、そこまで考えていないと思います。二胡だったら中国風の何かだろうと単純に予想する程度だろうと思います。二胡奏者の中でよく言われるのは、中国音楽はつまらないし受けないから人前では演奏しないというものですが、一般の人はつまらないかどうかすら知らないものです。何も知らなくても良い演奏かどうかはわかります。だから魅力的な演奏であれば、中国音楽でも受け容れられる筈です。事実、Shibatenさんによると路上演奏で二泉映月は儲かるということで、弦堂が「乞食の音楽だから路上では良い」と言い「今度もし作曲できたら提供しますよ」Shibatenさんが「とりあえず見せて貰う」というようなことになって、弦堂が「儲かる曲という方針で頑張りますよ」と言ったのですが、その時に「ジブリは儲からない」と余計なことを言ってしまいました。それに対してShibatenさんは何も言わなかったのですが、すぐにジブリを練習しピアノの伴奏も用意して路上でパフォーマンスしたようです。閑古鳥が鳴いてぜんぜん駄目だったようです。それで「まったく受け入れられませんでした!どうしてわかったんですか!?」と言ってきました。二泉映月で高収益を出すぐらいの奏者なので、無能ではないどころかかなり優秀ということははっきりしているのです。それでもジブリだと厳しいのです。いや、ジブリでも儲かるようにしようと思えばできるんですよ。ただ材料として厳しいかなとは思いますね。これで路上で1ヶ月も高収益上げたとかそれぐらいの天才が出てきたらすごいことですよ。すぐにYouTubeにアップして貰わないといけない、それぐらいでしょうね。それはどうしてかということを言いたくてこの話をしたのではないのですが、言わないとおかしいので次の段落に廻します。ともかく、中国音楽が駄目ということでなくて、演奏する方がよろしくないようであれば、何でも受け容れられないのではないかということです。

 聴衆というのにも能力というものがあって、レベルがまちまちです。普通の聴衆はそんなに深いところまでわからないけれど、底の浅いのはすぐわかるという、結構ややこしい存在なのです。深くても評価しないけど、浅かったら批判するんです。儲かる音楽を作る人というのは、このあたりに精通しています。そこにきて、路上演奏ともなると、積極的に聴きにきているわけではない人ばかり、聴いてやっていると思っている群衆に囲まれていることになるのです。それどころか勝手にそこらで演奏でもされてようものなら、うっとおしいのです。アービンが二泉映月の録音のために発見された時には、すでにならず者から暴行を受け、楽器はすべて失って物ごいをしていました。そういう立場で、そこで人に金を払わせるのはとてもじゃないけれど簡単ではありません。しかも聴衆は全部は聴いていません。なぜならちょうど通りかかった時に演奏のどの部分が演奏されているかわからないからです。だいたいは途中です。そして通り過ぎるわけですから断片的に聴いてジャッジします。人間というのは、もしその演奏家が有名、チケットが高額とか、そういう要素があれば聴く前から評価しますが、無料のものは上から見ます。評価しない前提で聴きます。しかも聴くのは断片だけ。アービンとか孫文明などの盲人音楽はそういう環境で儲かるように作ってあります。ジブリはどうか。違うんですね。そういう風には作っていない、ただそれだけで優劣とは関係ないんですね。それにジブリは難し過ぎますね。簡単? アービンの方が難しい? 逆でしょう。物事は誰でもできる簡単なものほど本質は難しいものです。伸ばす音一つは初心者でも演奏できます。しかしそれで通行人の足を止められるか、そこに至るまでには相当な過程があるでしょうね。そう考えたらジブリは難曲ぞろいということになりますね。伴奏を外しても聞かせられるなら本物でしょう。

 演奏家になる場合、どれぐらいの人数を揃えるべきかという問題もあります。ギターとかピアノの伴奏者が必要だと2名になり、打楽器も必要とか様々な要件で人数はさらに増えることになります。しかし基本はソロで考えるべきだと思います。二胡は単音の楽器なので、伴奏を伴っていなければ1つの音だけで聴かせることになります。これは結構大変なことです。歌も伴奏なしであれば相当な実力が求められますがそれと同じです。それで伴奏者を得れば容易にはなるので、もちろん個人の決定ですからそれは自由ですが、基本概念としてはソロで聴かせられるようになるべきという考えは持っているべきです。もし録音した場合、CDなどで販売し、それが購入されてショップなどで流されたとします。しかし環境は人の出入りが多かったりとか、必ずしも視聴環境が良いわけではありません。その場合、メロディライン以外は聴こえなくなっていることもあります。もし主旋律に求心力がなければ、それは明確に明らかになります。ソロで十分に聴かせられなければならない主な理由はそういうことではありませんが、人数を増やしたところで結局は単独で力がないと作品も影響力を持ち得ないのではないかと思います。

演奏家になってチケット収入を得る場合、著作権の問題も考えねばなりません。この問題を回避するためにJASRACに楽曲使用料を支払うか、或いは自分で作品を作ることになります。作曲は必ずやらねばならないものではありませんが、法的な周辺の環境を考えれば必要性は高いと言えると思います。この時もメロディライン重視で作品を作るのが理想でしょう。つまり二胡1把で演奏可能な作品で常に考え、演奏会も時にソロで行い、場合によっては他の奏者も加えていく、最初からそれなりの編成の作品を考えるのではなく、ソロからビルドアップする、参加する楽器が変わればフレキシブルに対応するという方法であれば、単に様々な編成に対応できる利便性の面だけでなく、質の面でも水準を保てるでしょう。これは何も特別な概念ではなく、ジャズはこのやり方が基本で、短いメロディだけを収録したリアルブックというものが出版され、その主題に基づいて各奏者が演奏します。何を演奏するかはリーダーが決めますが、リーダーはそういうメロディを幾つも持ってくる作曲家でなければならず、それが後代にリアルブックに残されているのですが、固定のユニットであればリーダーがいつも決まっていることが普通だし、臨時の寄せ集めであればその都度リーダーを変えることもあります。中国の伝統音楽もかつてはそうで、古い楽譜などは基本旋律だけしか書いてありません。だから譜面を見ても実際のところ、どういう演奏がなされていたのかほとんどわかりません。この基本旋律を牌子と言いますが、弦堂が所有しております極めて水準の低い製本のボロボロになった広辞苑みたいな分厚い江蘇省牌子集には400の曲が収録されているらしい、数えていないのでわかりませんがそれぐらいあると、正規の出版社が販売したものでない、かなり昔のものですが、少なくとも文革以前は楽譜というとそういう感じでした。単純な旋律が書いてあるだけで、それも短いものばかりです。それだけ見て楽団が演奏します。互いに様子を伺い、誰かが前に出ると自分は引っ込み、また逆もあるという感じで牽制しながら演奏を進めていきます。こういうやり方はおそらく中東インド由来で、東には中国、西にはアラブ圏に達したものがロマ人などによってスペインまで齎されましたが、さらに南の黄金の国マリ王国の首都トンブクトゥまでは地中海から立派な街道が整備されていましたので、そこを経由して奴隷海岸へ、そしてアメリカへと伝わったものと思われます。インドアラブでは音階が無数にあり、音階を決めるのは作曲の一部です。普通、音階というとドレミと綺麗に並んでいますが、インドアラブのそれは異なり、どのようなパターン、極端な偏りも有りです。選択された楽曲においてはその音階上の音だけを使います。音程は1/4,1/8などもあるので複雑です。メロディというよりも音階というもので使う音を限定するんですね。視点が違うだけで根本は変わらないのでしょう。

 それで、白紙から作曲をするのではなく、牌子集を利用することで作品を作っていくことはできます。旋律はあまりに単純なだけに、はっきり中華とは異なる作品に仕上げることも可能です。牌子集は極めて入手が難しいので、わざわざそういうものを探さなくても中国曲であればネット上にいっぱいあるので、そのまま使っても良いし、自分で編曲して別の作品にしてしまうことも可能でしょう。結局ネットにも見つかるようなものは牌子の中でも特に優れているから広がっているわけで、そこを敢えて無名の作品まで捜索の手を広げるのは相当にやり尽くした感じになってからで良いでしょう。中国曲である必要もなく、少し変えるだけで全く原曲がわからなくなってしまったりすることもあるので、どんな素材でもやりようで如何様にでもなるでしょう。そのように自前で作品を持っておかないと古典曲プラスJASRACだけではスタイルの確立も難しいし、創造的な演奏会、録音は相当ハードルが高くなってしまうでしょう。そう考えると演奏家になるというのは難しいものです。こういう方向だけでなく、古典曲だけでも問題ない、そういう分野にも時に注力したりすることは現在の立ち位置を明確にする意味で重要であろうと思います。古典がベースでそこからビルドアップされた作品作りが理想的でしょう。




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創業2008年 二胡弦堂