中国歴代王朝年表 - 二胡弦堂

 


 陶磁器の完成は宋代で、ほとんどこれ以降で語られます。宋以前は物もほとんどないということもあると思います。しかし古い時代のものが質が低いということではなく、すでに復刻(コピー)の製造は宋代あたりから始まっており、非常に高度な技術を持っていた宋代にあっても古代の造形が評価されていました。

 清は初代・ヌルハチ、二代・ホンタイジの代まで万里の長城を超えることができませんでした。そのため年表の中に両名の記載がありません。満州から北京の攻略を目指す場合、おおまかに2つのルートがあります。北京よりすぐ北方の何重にも防御を巡らせた居庸関と、万里の長城が東の海に突き出している最果ての山海関です。どのように北京を陥落させるかは極めて重要で、時間を浪費すると、北方の征服は可能であったとしても南方を攻略するのは大きな負担になります。同じ満州族の金が宋に侵攻した時がまさにそうで、金よりも南宋の方が長命でした(我々は阿炳の听松という曲でこの辺は少し馴染みがあります)。もし居庸関ルートで長城を超えると、その後の満州と長城以南の連絡補給が険しい山中となる上、特に冬は難しくなります。新たに攻略した地域を宣撫する場合、1年は無税とすることが多く(北方は一毛作)、略奪は論外、戦乱で土地が荒廃もしていますので収入を得るのは実質何年も先になる上、むしろ出費の方が多くなります。戦争遂行も相当な経済的負担ですが、それ以上に潤沢な資金がないと支配はできません。円滑に物資が輸送できるルートを得ていないと支配はおろか、さらなる征服も不可能です。このように考えると山海関を攻略するのは必須となります。ところがヌルハチ、ホンタイジが陸から海から10万を超える大軍で攻め寄せても、たった数百の兵で防衛する山海関を攻略できなかったと言われています。しかし第3代・順治帝の元年に李自成による反乱軍が北京を陥落したため、山海関の守将・呉三桂が清に援軍を求め、当時摂政で事実上の皇帝だったドルゴンが手持ちの兵に近衛兵も加え直ちに瀋陽を出兵し、山海関を通過した後は明軍と合流して北京入城を果たしました。以降を「清朝入関後」と表現します。大陸には数多くの関がありますが、単に関と言ったら山海関を指します。満州の関東軍は、山海関より東を支配していたのでこのように呼ばれていました(関の東の意)。清による全国征服は難航を極め、特に江南地方での略奪によって民衆が一斉に蜂起し、鎮圧しての大量殺戮で「万里無人」と言われた人のいない荒涼とした大地が延々と続く有様となり、人口が激減したとされています。明の残軍による反発も大きく、激しい戦乱を経て統一するまでに40年もの歳月を費やしました。現代に残されている古いものは清代のものか、せいぜい明代ですが、この2つの時代には文化的にもかなり隔たりがあります。一方は漢民族の王朝で、他方は異民族、この違いが文化の発展にも大きな影響があったということです。

年表

 清朝は1911年までで、民国元年は1912年ですが、大正元年も1912年です。1949年(昭和24年)10月以降は中華人民共和国です。大躍進政策は1958~60年、文化大革命は1966~1976年で、1958年以前とそれ以後、1976年以降で状況が大きく異なるということは、茶や文物を見る時に参考にする必要があります。二胡も違う楽器に変わったのは文革期ですが、全ての分野で同様の、或いはそれ以上の変化があったということです。

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