現代の宜興の泥は政府より採掘が禁止されています。しかし泥自体は丁山市内、住宅街の下も含め、かなり埋蔵されているとされます。ですが、高く評価されているのは黄龍山のものですから、そこからどれぐらいの範囲の泥が評価に値するのかというのはわかりません。採掘禁止とはいえ、以前は普通に黄龍山(現在は湖周辺)に入れたし、製作家は泥が必要なので採っていたということです。その後、塀で囲まれて今は入れなくなっています。21世紀初頭の塀建設前の時期に個人の製作家が坑道に入ってちょっと持って帰ったとか(だいたい100Lぐらいらしいですが)していて、そのうちデジカメも普及してきたので、まるで考古学者みたいな証拠写真を撮影するなどやっていた人たちもいます。
しかしなかなか地元のものというのは評価するのが難しいもので、かつては他省から大挙してやってきた人たちがいきなり採掘を始めるなど、そういうグループが1つ2つではなく、地元の人たちが放っていた価値あるものをどんどん売っていたようです。そういうグループの特徴としては必ず全員親戚であることがほとんど、しかもグループ内部(外部ではなく)の縄張り争いで殺人など凄惨な抗争まで起こすなどかなり問題を起こしてきたようです。おそらくそういう歴史的な問題もあって現在ではかなり規制されています。
近年でも道路工事の時にかなり鉱脈が出て、作業員らが確保してだいぶん儲けたという話が出たりもしたのですが、坂をなくすというかなり地面を掘削する工事なので作業員らは来る前から絶対何か出ると思って狙っていたようです。市政府の方は何も考えていなかったようで、よその人の方が価値がわかるという傾向はどこでも同じのようですね。下の地図で「降坡」と書いてある位置がまさにそこですが、黄龍山(中央の湖)と青龍山(左端の湖,4号井の北側)という立地ですので、まあ何かあるのは当然でしょうね。この写真は紅衛村(上の地図では起点・黄龍山から西に3.6kmの小煤窑)の方で見つかったほぼ同じ泥の様子ですが、泥の上部に朱泥(小煤窑朱泥)があって、その下に青と紫の混じった段泥(降坡泥)があります。焼成後に独特の黄色になって(青い方を焼いたら左の写真のように黄色になる)この泥独特の特徴があります。泥の効果は極めて秀逸で、もしやこれが伝説の「五色土」かもしれないという人もいるぐらいですがまだ何もはっきりわかっていません。
それでも宜興の泥、具体的には黄龍山を指しこれを明代から「本山」と言いますが、現代では需要に比べて非常に供給が細くなっています。それで最近の泥は隣町、主に西と南の2方面ですが、その方角から泥を持ってきています。洑東(上の地図では起点の黄龍山から約9km地点の蘭山。Googleの衛星写真で確認しますと大規模に掘削しているのがわかります。幅750mぐらいというところです)、湖滏(黄龍山から5.5km地点)です。これらの地域の泥は雲母が若干少なく、焼成温度が少し低くなる傾向はあるものの質は決して悪くないと言われています。この2箇所では朱泥は産出しないとされています。紫泥や段泥、白泥に限られます。これらは現在では「原鉱」として多く使われています。原鉱とは宜興本来の坑道から採られた泥という意味です。「本山」は主に黄龍山を指します。それに対して本山以外の泥は基本的に全て「外山」になります。しかしこれらの範囲は時代によって変わります。
青龍山では狭い範囲でしか採掘できません。降坡は以前は峠だったのでその谷間を挟んでということになります。本山で朱泥が枯渇して以降は趙庄(中心地点の距離は本山北西500mだが実際には道路を挟んで向かい)に進出します。この計3箇所はその位置関係から鼎山とも言われこの山脈群を総称して団山と言いました(地元の言葉で団と段は同じ発音です)。趙庄は本山と言わないことが多く、すでに「趙庄」という言葉自体が茶界において独自の眩いオーラを放っておりますので、事実上本山と認識されています。趙庄=最高の朱泥という認識が定着しています。趙庄で朱泥が枯渇して以降は紅衛村にある小煤窑(レンガ工場)周辺で採掘されるようになり、近年まではこれらの範囲全体を「原鉱」と呼んでいました。これに対して湖滏、洑東を外山と言っていました。しかし外山はもっと拡大されて他の省からも泥が持ち込まれるようになってからは、湖滏、洑東も原鉱と言われるようになってきています。
文化の興隆とは不思議なもので交通が発達していない昔であっても割と世界共通です。特に1400年代は実り豊かな時代で、西洋ではルネサンス、中国でも最高の文物はこの時代に作られていますが、茶壺が中国で発明されたのもこの時期です。明・周高起著「陽羨茗壺系・創始」という古文書によると(陽羨とは宜興の旧名)、紫砂茶壺の開祖は金沙寺の僧侶とあって名は明らかではありません。明代成化、弘治年間(1465-1505)であろうと考えられています。金沙寺は唐末の混乱期・昭宗の時代(888-904)に宰相を務めた陸希声が戦乱を避けるために建設したもので後に禅院に改められた建物です。蘇軾(1037-1101)がここに寄って茶を飲み(宜興赴任中に提梁壶を発明)、岳飛(1103-1142)が進軍中に滞在するなど歴史的な場所ですが、明代嘉靖年間後(1566年後)に破壊されましたので、茶壺製作の歴史も曖昧になっています。作品も全く残されておらず最も古い分類のものは時大彬(1573-1662)あたりになります。解放初期(1949-)にはまだ小さな僧坊があったと言われていますが、現在は農家になっています。GoogleMap上では赤いマークになります。ここには金沙寺の石碑などゆかりの品がまだ残されていると言われています(写真は農家在住の石碑保有者)。赤いマークあたりをさらに拡大して、西側の湖の南岸をよく見ますと、岩肌が露出しているところがありますが、このように周辺から泥が得られたのだろうと思います。ここから5.5km離れた黄色のマークが黄龍山です。金沙寺は最盛期には1000もの部屋があったと言われますが、現在は1軒の農家、文化財にもなっていない(有識者による提言などはなされていますが、破壊以前の痕跡に乏しく材料がない)栄枯盛衰を感じる場所です。
紫砂の発祥は、明代弘治、正德年間とされていますので実に500年程の歴史があります。
民国期の名工たちは無名時代に上海の骨董商から本物を用意され、それをコピーすることで腕を磨きました。それらは本物として海外の博物館にも収められていますが、これら巨匠たちが大成して以降は骨董よりも彼らの作品の方が価格がつくようになりました。それ以降、本人たちの証言で博物館収蔵品の目録が訂正されたと言われています。これら民国期最高の巨匠たちは「七老」と言われ、彼らやその他の名工たちは民国後期の戦乱から建国後を経て衰退した紫砂制作を立て直すため「蜀山陶业生产合作社」を設立して後進の指導に当たりました。彼ら自身も制作し、その様子が写真に残っています。前から蒋蓉、裴石民、吴云根、王寅春です。
清代から伝わるこのような諺があります:“一無名、二思亭、三逸公、四孟臣”。紫砂壺のランクを示す言葉です。2位:陸思亭、3位:惠逸公、4位:惠孟臣とありますが、1位は無名です。名前を出さない、ブランド化する商魂が全くない、必要ない、余裕がある、純粋に向き合っているだけのそういうものが最高だと、当時の文化人たちの様子が偲ばれる言葉です。
さて、工作の方面から年代を分析するのは容易ではありません。紫砂の最高の時期は明代と民国期の2期です。すでに黎明期より技術や芸術性、泥の質は最高であった一方、近代・民国期にも優れたものがあります。ということはある茶壺の出来が悪い、歪なので、昔のものだろうと断定することはできません。工作精度は全く参考になりません。型を使って整形する半手工の技術は民国期に開発されましたので、近代のものであまりにひどいものはありません。また型を使ったもので清代以前のものはないと言えます。型があるので近代の作品は新人の製作でもかなりの水準です。意図的に敢えて工作水準を落とすというものもありますが、これは日本の影響で清末ぐらいからあります。参考にできる要素の追求は中国でも熱心に議論されていますが、決定的なものに欠けているので、工作よりも泥を見る方がだいぶん正確です。泥は何万年前からか知りませんが地中に埋まっているものであって、その悠久の時間を考えるとそれをここ500年の間に掘り出しているものを新旧で判断するのは意味がないように思えます。しかし使われている泥は時代によってかなり特徴があります。泥も多種多様で複雑です。精製の仕方、陳腐に掛けた時間の長さ、焼き方でだいぶん変わってくるものです。難しいですね。それで専門家でもはっきりわからず、そのため沈没船とか墓からの出土品を標準壺としています。
これは中国の方の事情なのですが、泥の産地を販売面から明確にしにくいということで様々な問題があります。原鉱とか本山、趙庄や小煤窑と書くだけで売れるので、このうち1つではなくいっぱい書いてあるものとか色々あります。それで一気に信用を失って宜興市政府が対策に乗り出すなど様々な右往左往があって抜本的に解決せずに現在に至っています。嘘でなければいいのだろうということで原鉱の泥をわずかに含めてある泥は現在でも普遍的に見られるとされます。もし純度に問題があるなら「あなたに嫁ぎます」という女性の写真を掲載した販売もあります。表面に本物の紫砂を塗布して本胎は偽などの例もあるので「割っても大丈夫」だと主張する販売もあります。本当に割った写真を掲載しているところもあります。万策尽きてここまで来ています(写真の例は素焼きの壺の筈が割ったら白地が出て来て偽である事がバレたものです)。
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