茶器の製造に使われる泥は非常に重要です(日本では「土」と呼びます)。泥は様々な種類がありますが、特に朱泥は古来より多くの地域で珍重されてきました。右の写真は奥から日本・常滑、中国・宜興、台湾・鶯歌です。産地は産業を確立する面から大量に朱泥が出るという条件が必要で、朱泥は産出するが量が少ない地域であれば他にも結構あると言われています。日本や台湾の製作家には自分で山に入って泥を探すという人もいます。量を求めなければそういうやり方で結構良い泥は見つかるものらしいです。
特に台湾の制作家は様々な泥を使う傾向です。泥の分類というのも聞きません。少量であっても良い泥があれば都度使うのだと思います。この写真例の台湾鶯歌産茶壺の泥もどういうものかよくわかりません。後ろの2つと比べると色が随分違うのでこれを「朱泥」と呼ぶには抵抗があります。色合いだけで見ると紫泥という感じで、まるでレンガのような泥ですが、湯を注ぐと怒ったような赤になります。朱泥独特の特徴です。宜興の清代の古い茶壺に使われているものと同じ趣があります。宜興では紫泥から精製する「清水泥」というものがあって古風な肌触りが特徴ですが、こちらの台湾の方は同じような制作法の朱泥陳腐料と思われます。文人趣味的な泥です。大陸にはないタイプと思います。購入は20世紀末頃で5000円ぐらい、烏龍茶を淹れる茶器がなかったので1つ購入したものでした。烏龍茶というのは値が張りますし10煎以上は楽に淹るので、小さい茶壺がないと不経済なのです。不経済と言っておいて安い茶壺が多い台湾で5000円も払ったのは何故なのか大きな謎ですが、しかも当時は今のように高騰していなかったので、5000円クラスになってくると店の奥のガラス張りのケースに保護されていたのです。この茶壺は90ccしかなく、かなり小型ということでガラス張りの中では一番安いものでした。茶壺というものは中は洗いませんが、泥に趣があると茶渋も味が感じられます。
現在世界に残っている博物館級の茶壺で最も数多く収蔵されているのはおそらく香港で、半島と香港島にそれぞれ1つずつ博物館があります。台湾は個人所蔵がほとんどで図鑑などの文献制作時に写真を提供するといった感じです。非常に貴重な品が民間にかなりあります。
一般に、茶樹を植えた場所の同じ土壌で茶壺を作るのが親和性が高いと言われます。どちらも同じ産地が良いということです。日本茶であれば日本の土が合い、台湾茶であれば台湾の泥が馴染むということです。良い、というよりも違和感を感じさせない傾向ということなので、産地を変えていくことでさらに茶の特徴を引き出すということもあります。
最近の台湾茶壺はこのお菓子の缶に写っているようなものが主流で釉薬をかけたものが多くなっています。様々な色彩のものがあります。これは元々、鈞窯という河南省の有名な焼物があって現代でも作られていますが、その台湾版ではないかと思います。写真のものは落ち着いていますが、結構原色調のグロテスクなものが多いように思います。
写真の例のものは北京釣魚台迎賓館という国賓や外国の要人を宿泊させる施設があってそこが特注したものです。
この個体は外面にわずかな当たりがあるので検査落ちしそれが市場に流れ、何十年か後に南京の骨董街で出てきたものだろうと思います。中に「釣魚臺迎賓館贈」と手書きで書いてあるし中華人民共和国礼物専用章の印もあるので、こういうものは忌避されますから値段がつかず処分価格に低迷していましたが(これも5000円ぐらい)、当時の最高の職人に作らせた物ですし泥も最高のものを使うわけですから非常に良いものなのです。もし作家の銘があったら価格は青天井、そもそも骨董には流れていなかったでしょう(ところが最近、おそらく潮州で作らせたであろう偽が出てきたという連絡があって見せてもらいましたが、ということは最近になって迎賓館物は評価がついたのかもしれません)。宜興は無錫郊外にありますが、東の蘇州や上海、南の黄山方面よりも西の南京方面の方がこういう出物は多いと思います。宜興は値段をふっかけて自信満々で交渉下手だし、上海は文化人が多いのでかなり漁られている反面、南京の骨董商は煽るとすぐに値段を下げるので他よりやりやすいと思います。気性は荒く「何でこんなに下げさせるんだよ。お前は物の価値がわからんのか。阿呆」と言いながらお宝を梱包します。なぜかそういう主人ばかりです。日本人であることはバレていません。都市によって人間の性格がまるで違うのです。ですから、どの都市に行っても骨董街には寄らねばなりません。骨董街に行くと各都市の人間的特徴がよくわかります。
容量は一人用だと100cc前後、2人であれば150ccぐらいがちょうど良いような気がします。写真例のように茶は灰汁が出ますので溢れさせて流し去りますから中国茶壺で「大は小を兼ねる」的概念はありません(緑茶、紅茶のように溢れさせないものはその限りではありません)。淹れる茶の種類によっては、溢れた湯を承ける受け皿が必要な場合があります。写真の例では溢れた水を貯めることのできる専用の皿、茶盤と言いますが、一般的には竹や木製が多いと思います。陶器以外に鉄、アルミ、高級なものでは錫、銅なども使われます。茶は色素の沈着が意外と強力なので白っぽいもの、明るい色のものは茶渋が染み込んで取れなくなるものもありますので、その辺りは気をつけなければなりませんし、できれば古くなる程、味わいも増すものが良いと思います。写真の白い茶盤は失敗でこの教訓から意外と色素の染み込みに留意することは重要だと感じた次第です。色の濃いものに逃げておけば問題ないようにも思えますが、そう単純な話でもないと思います。黒でも色素は染み込むし汚くなります。黒じゃ漂白ができない分、かえって白より不利なようにも思えてきます。そこで錫や銅のように古風の美を鑑賞する方向になります。
朱泥というのは赤ではなく、紅泥というのはまた別にあります。朱泥は元の泥は黄色の岩で、中の鉄分が酸化したら錆びで赤みを増すことで仕上がりはオレンジ色になります。冴えない色です。しかし使っているといい感じの色合いになってきます。宜興紫砂泥は朱泥以外もありますので分類をリストします。現在ほとんど使われていない白泥、黒泥を省けば、大まかに3種類に分かれます。
宜興は歴史的に段泥を使ってきました。朱泥ではなく、段泥が評価されています。歴史の最初から段泥でした。このあたりは今でも変わっていないので、十分な根拠があって使っていたということになります。そして歴史的に茶というと緑茶を指していました。しかし日本では朱泥で緑茶を淹れます。宜興の朱泥も輸入していました。宜興は朱泥は要らないので外国に売り、自国では段泥でした。日本の朱泥に日本茶は合うと思います。また宜興朱泥で中国、日本どちらの緑茶も良いものです。しかし段泥も使ってみると、なるほどと思います。大陸では朱泥は烏龍茶向けではないかと思います。段泥で日本茶、これも良いのです。しかし民国期には紫泥が使われるようになっていきました。日本の影響かもしれません。大陸で多くなってきた日本人が段泥を好まなかった可能性があります。それは主に外観でしょう。紫泥の古風な感じは日本人好みです。朱泥の特徴にも似ていて、しかし朱泥とは違い、むしろ段泥に近い特徴なので中国茶に合います。民国期の巨匠たちの作品で博物館に入っているものは紫泥が多いです。
中国の陶器に関しては、茶器は四大産地というものがあります。宜興、潮州、建水、欽州の四つです。このうち潮州、建水や欽州のものは骨董屋などで置いてあって「これ何?」「宜興」などというやりとりが行われるわけですが、一方で新品を売っているようなところにはなかなか販売していません。骨董屋でよく見かけられるのは昔、偽の宜興をかなり生産していたからです。茶はそれぞれの地元の泥が合うのではないかという観点からは、普洱茶だったら雲南省の泥、建水が非常に合います。水がどろっとした、角が完全に丸められたようなトロトロに変化します。これに対して普洱茶を合わせると、全てのバランスがあるべきところに収まっている印象があって違和感を感じさせません。特に熟茶は磁器で淹れないとなかなかうまく淹れられないですが、建水だとむしろこちらの方が良いような気さえします。
優秀な泥を産する場所はある程度法則があります。古代の巨大な噴火で地面が広範囲に吹き飛び、そしてそこが湖になり、様々な水中の死骸が堆積して培養されたものが段泥ではないかと言われています。その周囲、湖ではおそらく岸に当たる辺りが焦げた溶岩で固められており、そういうところから金鉱が発見されます。例えばわかりやすい例では、鹿児島に桜島という活火山があります。これは島、実際には半島ですが、海から突き抜けています。周囲の海は湾になっており、これは姶良(あいら)カルデラと呼ばれる古代の火口です。現在はこの大きさで収まっていますが、昔はどれぐらいだったのか、金山が幾つもありますのでそれで推測できます。このようにある一定の方向の縁に金が産出します。紅泥は金と同じ場所に見つかることが多いです。カルデラからは段泥、縁からは紅泥、その中間に朱泥が出る傾向があります。紅泥が見つかったら必ずしも金も見つかるとは限りませんが、金がないと優れた紅泥は得られないようです。金そのものも優秀な材料で水質を変えます。あまりに高価なので銀や錫が使われますが、最良は金です。輝きだけでなく、その浄化力が古代の支配者たちに求められたのではないか、神に近い、或いは神そのものである彼らにとって清らかさの象徴だったのではないか、それがいつしか富の象徴に変わったのではないかと想定されます。金は水を甘くしますが紅泥も同様です。しかし茶に甘さを求めなければ段泥、または中間的な朱泥がちょうど良かったのかもしれません。