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段泥と紫泥について - 二胡弦堂

 

 明代の専門書には当代の名人が湖滏の泥を使っていたという記載があります。紫砂茶壺製作は湖滏の金沙寺発祥ですから自然なことですが、これは紫砂の発祥なのであって、陶器の製作自体は周辺の多くの場所ですでに行われていたようです。この周辺は今でも茶の生産で有名ですので(宜興紅茶)、泥の質は決して悪くありません。本山にて現代すでに枯渇している質の良い底槽清がここで大量に見つかっており、さらに明代の壺に見られる砂の塊のような壺が作れる段泥まで見つかっています(現代では人工的に砂を混ぜたものは結構ありますがここまでのものは天然では稀のようです)。その泥は写真のような状態で、青泥の周りにもろい層が纏わり付いていて、朱泥(これだけ選別して取り出すのは難しいようです)、紅泥もモザイクのように重なり合っています。これを精製して焼きますと左の写真のようになります。大きな白い粒が目立ちますがこの粒は青泥が焼けたものです。全体の色合いは黄色のような鉄の赤のようなそんな微妙な色合いです。光の具合で白、青、黄、赤の4種のどれかに見えますが、写真ではそういう捉え方はできないので撮影不可能なかなり特殊な泥です。青っぽい黄色か赤です。乾いた状態で湯を注ぎますと染み込む音がはっきり聞こえます。普通は耳を近づけてやっと聞こえるのですが、これはバチバチ鳴りますのでびっくりします。専門家は"怪泥"と言ったようですが、このような泥などが古くから使われてきたようです。壺の写真の例で以下に掲載してあるものは7つありますが全て明・時大彬によると言われているもので、この人は生前から巨匠とされていたということやその壺が宝刀(命を守るもの)に値するとも言われていたので、茶(即ち漢方)に対する効果も優れていた筈です。現代では全て博物館などにありますので実際に手に取るとか茶を淹れるなどそういう風に確かめることはできません。7つの壺を鑑賞する時に気をつけて頂きたいのは、長年の使用で色が黒くなっていて元の色合いがわかりにくくなっているということです。基本的に黄色でそこから赤の方に強いものもあります。このような砂粒感の強いものです。明代の壺に憧憬を抱くのであれば湖滏料は見逃せないのかもしれません。

明・時大彬茶壺
 時大彬の茶壺にはかなり黄色が強い泥もありますが、これは洑東白泥です。白泥は普通焼いても白で、洑東だけでなく湖滏のもっと西の方まで延々と、宜興市の北にも出ていますし、黄龍山のすぐ南や趙庄方面にも見つかっています。これらは雑器に使われてきて、時大彬よりも古い壺は白泥のものも出土しています。しかし黄色に変色するものは魅力があります。緑泥や段泥も白っぽい黄色になりますが、白泥で黄色になるものというのは洑東に出るものぐらいとされています。焼成後に黄色に変わるのであればこれも段泥の一種だと思います。紫泥は明確に時大彬のものと確実に言える壺には使っていない、底槽清さえも使っていない、しかし段泥は使っているという、このことは重視する価値があります。中国では伝統的に段泥こそが紫砂だった、これを以って茶器の最良の泥と見做していたということになります。しかし当時は使わなかった洑東の紫泥は優秀で、すでに鉱物の状態から見た目も非常に美しいとされます。採集地域は本山からほぼ真南に4kmぐらいしか離れていません。古壺は黒い粒になっている鉄分が焼成時に爆発するなどの特徴が見られますが、湖滏料とか青龍山付近の泥は結構爆発が出るとされます。泥にこだわる作家の作品であれば現代でも鉄粒の爆発は結構見られる現象です。時大彬の7つ目は派手に爆発していますが、ここまでのものはなかなかありません。爆発は割れを誘発するので製作の観点から嫌われるからです。割れても天然系の割れなので、尤も割れ方にもよりますが、継げば結構味があるものができそうです。ということで、湖滏と洑東、この2箇所は歴史的に見れば原鉱なのです。本山という言葉は明代からあったので黄龍山の泥も価値が見出され、その上で湖滏洑東料も使われていた、勝るとも劣らない、表現のバリエーションとして色々使われていたということがわかります。最近になって「湖滏原鉱」「洑東原鉱」という言葉も見られるようになってきましたのでわかりやすいですし、正式に評価されるようになって良いと思います。こういう言葉が出てきたということは古壺に関心がある人がある程度いるということだと思います。時大彬の時代にはすでに茶壺は小さくなっていますが、それまではヤカンのように大きなものでした。ということは小さな茶壺が求められる烏龍茶や普洱茶がこれぐらいの時期に入ってきたということが想定されます。それまでは白泥が主だったらしいということを考えれば、緑茶には白泥を使っていたということも想定され、日本の琵琶湖南方で白泥が多いということとも一致します。文献によると朱泥もあった筈ですがこれについては別稿に改めます。

 明代の壺でもう一つ重要なものがあります。供春樹痩紫砂壺です。傑作として有名ですので現代に至るまでコピーがかなり作られています。写真左上から時計回りに、1つ目は大陸の著名な収蔵家・茶語軒の李建泉老師が製作した現代コピーです。比較的安価なコピーということで実際に掴んで写真を撮らせて貰いました。2つ目は顧景舟によるコピーで博物館にあるとされます。しかしこれは顧景舟のさらにコピーだと思われます。3番目は黄玉麟によるコピーでこれも博物館にあります。4番目が供春による真品(中国歴史博物館)です。こういう植物などの造形を加えたものを「花貨」と言いますが、これは歴史上おそらく花貨の第一番目の作品でもあります。早くも明代の著作で周高起による[陽羨茗壺系]に記載されています。曰く「栗色暗暗,如古金鉄,敦厖周正,允称神明」。供春は元は奴隷で、後に主人吴颐山によって自由の身分を回復し、その時に“供”姓を賜りました。当時すでにこのように言われていたとされます「供春之壺,勝于金玉」。吴颐山の姪孫(兄弟の孫)吴梅鼎は[陽羨茗壺賦](陽羨は宜興の古代名)の中で供春を賛美しこのように著しました「彼新奇兮万変,师造化兮元功,信陶壺之鼻祖,亦天下之良工」。

供春樹痩紫砂壺
 段泥は多数の種類があり、ある程度分類されています。

段泥 本山緑泥 黄金段 芝麻段 老段 青灰泥 降坡泥
紫泥 底槽清 清水泥
朱泥

 黄龍山は現在入れないということですが管理局はあります。そこで状況を李建泉老師に聞きます。「去年行ってきたよ。来週も行くよ」ということでした。そして内部はどのような状態なのか2016年時点での様子ですが写真を戴きました。右上は黄龍山の様子で、左は貴重天然出土物を指し示す李老師です。老師の説明によると、岩があってその間に脆い地層がありますが、これが泥だということです。岩状のものを砕いて使うこともありますが、ここにある黒い岩は使えないということです。上の方に黄色の砂が見えますがこれが朱泥で、下の方は灰色の層があります。これが本山緑泥です。この泥が基本となって黄龍山のさまざまな泥が構成されています。黄龍山、青龍山、宝山の3つを団山、団と段は発音が同じ、この山の泥を段泥と言い、それは第一義的には本山緑泥のことです。そういうことで李老師がアップで写してきた泥の写真は全部本山緑泥でした。上の層が朱泥、下層が紫泥という一般的な地層を示しています。緑泥が含まれる共生鉱も段泥と言いますが、緑泥は朱泥、紫泥にも含まれます。

 拡大した地層の方を見ると上層で朱泥と緑泥が混じり、だんだん下の方に行くと純粋な緑泥になっています。写真には写っていませんが、もっと下に行くと紫泥が少し混じるようになっています。緑泥と朱泥が混じっている泥、これを黄金段泥と言います。焼き上がりの色がまさに黄金色になるからですが、価値も黄金並みなのでしょうか。そう思います。非常に濃厚な味があります。色が明るめなので、重発酵茶は使いにくく、せっかくの黄金色が濃く染まってしまいます。それでも構わずに使用する人もいるほどです。

 朱泥に代えて紫泥が混っても焼き上がりはやはり黄色になりますが、黒か赤褐色の粒が多くなり重厚な雰囲気になります。育ってくると少し赤っぽくなります。砂っぽい泥です。これを芝麻段泥と言います。紫泥の比率が高いものはだいぶん赤に近くなります。黄龍山のある箇所で狭い範囲に3つ掘られていた民国期の坑道が見つかり調べると、当時内部で崩落があったためか何らかの理由により採掘の途中で放置されていることがわかりました。そのため泥が空気に露出した状態で100年ほど放置されかなり風化した状態で取り出されました。これを老段と呼んでいます。焼成後はくすんだ金色になります。いぶし銀はあって、いぶし金という言葉はないですが、もしあったらこんなではないかという感じの様子です。おそらく陳腐黄金段とも言えるもので、多くの人が黄金段より良いと言います。

 かなり青が強い泥もあり、そういうもの、他の泥も混じっている共生鉱もありますが、焼き上がりが灰色になるものがあります。明末から清初までにかなり使われていたと言われますが、青系は昔から現代まで一貫して人気のある色ですので、その発色ゆえに「青灰色」として親しまれています。珍しい泥です。青泥が必ずしも青灰色になるとは限らず、幻の泥とされている天青泥はべたっとした気持ち悪い茶色でやたらテカらせた肝の燻製のような色です。明代・周高起による<陽羨茗壺系>にも記載があり「天青泥は蠡墅(地名)にあり、焼成後の色は暗肝色である」と書かれています。清代の文献には最高の泥とされていると同時に、当時すでに枯渇していたともあります。名称が魅力的なので、美しい青の壺が天青と偽って大量に販売されており、名家による写真入りの収蔵証付きの高価なものが大陸で結構売っています。博物館に収蔵されている本物の写真資料をここに貼っておきます。蠡墅にあると文献に書いてあり、そこはかつての蘇州城外南一帯で現代ではすでに建物で埋め尽くされています。そこで蘇州に用件があった時に蠡墅に投宿して周辺を少し歩き回ったことがあります。ここは地下鉄が通っています。掘削時に見つからなかったのでしょうか?

 朱泥紅泥は割と浅い地層に出るので初期の頃にだいぶん採掘されたと言われています。一方、紫泥は深い位置にあって、その最深部に底槽清があるとされ、これを以て紫泥では最高としています。紫泥は単独では価値が低く、他の泥と混ざることで持ち味が出ますが、しかし天然で混ざっているものでないと製造上難しい問題があります。それでもそういう泥はますます入手難になっているので最近は人工的に混ぜているとされています。底槽清は本山緑泥との共生鉱ですから、厳密には段泥になります。緑泥の含有量がより多いものを段泥と分類しています。底槽清を約3年天日で風化させ、黄色の顆粒を除いた後、2年陳腐化させたものを清水泥と言っています。こうすることで見た目は色あせた鉄のような無骨な外観になり、古くなればもっと味わいが増すということでこれまで文人に愛されてきました。それに清水泥は茶を淹れた時の水色が美しいという特徴があります。水色なんてものは大して変わらないし味や香りの方が重要、色は茶がどれぐらいの濃度で出ているかぐらいしか見ないという向きでも、清水泥の際立った水色の美しさには惹かれると言われます。単に色ではあるが重要なのではないかと思わせるぐらいのインパクトがあります。

 青龍山は石灰しか産出しませんが、それも採掘されて今は湖になっています。青龍山の南側は若干の泥が採れ、4号井もあります。顧景舟(民国紫砂七老の一人)は4号井の最下層から出た底槽青を好んで使ったことで有名です。しかし概してこの付近の泥は少し質は劣るとされます。東一帯(本山)の泥が非常に優れているのでそれと比較してということなので決して劣ったものではないのですが、おそらくですが陶都路(地図ではもっと狭い区分で白宕路)の東西で泥のタイプが違うように思います。降坡は西に含めて先は小煤窑、湖滏あたりですが、鉱脈が繋がっているとは言われますが泥のタイプは違ってどちらが勝るというような問題ではないように思います。東は緑茶にも合いますが、西はそれほどでもない印象です。一方、西は発酵茶に非常に強い傾向です。西の泥が全て発酵茶向けというわけではないですが湖滏は紅茶の産地ですし相性は良いのかもしれません。そこからその対極の緑茶にまで合うものがなかなかなく、本山はそれに対応できる泥が出るので優秀とされているのだと思います。西側は普洱、紅茶、岩茶ぐらいにしか合わない傾向です。小煤窑朱泥は台湾烏龍茶専用だという人が多いですが、紅茶はかなり良いと思います。特にインド系は合うと思います。

 中国では「一茶一壺」という考え方があって、1つの決まった茶に1つの壺をあてがうことによって香りが混ざるのを防ぐという、そのためにたくさんの茶壺を持っている人がいます。しかし実際に試してみると、仮に香りが多少混ざったところで何の問題も感じない筈です。茶葉の鑑定家が紫砂を使うことはありません。ガラスか白磁を使います。基本的には優秀な茶壺を1つ持っていればそれで十分ではないかと思います。左の写真は古市場で見出した清代黄金段ですが、大きさを比較するために他のものも置いていますが400~500mlはあるであろうかなり大きい茶壺です。これぐらいに巨大になり、しかも砂の塊のような佇まいのところへ湯を投入すると爆音がバチバチはっきり聞こえます。それぐらいすごい勢いで湯が浸透します。つまり胎の内部に空隙がかなり多いのです。ヒビも結構ありますがそれでもほぼ漏れてはこないので、染み込んだ空間にも茶の成分はしっかり残留することになります。これぐらいインパクトがあると前に淹れた茶の香りとかいろんなものが結構残りますので、次回数日後であっても別の茶を淹れた時に多少の影響があることがあります。物体としてデカすぎる、しかも泥の厚みも相当なので、蓄積も大きいゆえかなり影響がはっきり分かる時があります。こういうものがあるから一茶一壺という概念が出てきたのだと思いますが、今時幾ら砂感が強いと言ってもこんなものはほとんどないので、全く気にする必要はないと思います。たとえこういうものに当たったとしても使い終わりに湯でしっかり注げばすぐに乾燥していくのでこのように処理しておけば問題はないと思います。

 段泥は使い込んで、かなり育ってくると湯を投入しただけで濃厚な香りが立ちます。まさに茶器という雰囲気があります。こういうものを見ると昔の人がなぜ段泥を重宝したのか理由がわかる気がします。1つの茶壺で数種の茶葉を使い回すとしても普洱熟茶や紅茶に関してはこれだけは別にした方が良いと思います。茶壺が茶渋で結構コテコテになりますからね。なるべく小さい茶壺で翌日に飲み越さないようにその日のうちに消化するなど気をつけないといけません。それに熟茶は白磁が無難です。これぐらい気をつければ十分なのですが、現実的には好みの茶は偏ってくるので選択する茶壺もある程度決まってくると思います。それから武夷山の紅茶で煙の香りがするというものがあります。不良品扱いだったものを英国人が珍重し(商人が安く買って理由をつけて高く売っただけだと思うのですが)これは最悪ですね。この匂いを染み込ませたくはないですね。本来は燻して作った時に、ほんの僅かによくわからない程度に燻製の香りがする、或いは匂う気がするというデリケートなものなのです。高級な正山小种はこうなのですが、これだと問題ないと思います。かなり煙いタイプはこれは白磁かガラスにした方がいいでしょうね。その後ある時、サンプルの小袋で1つ煙いのを貰いました。それは1斤(500g)2000元ほどするというとんでもない高級品なのですが、これは素晴らしかったです。高級燻製という感じがします。煙を飲まされている感じがするのですが、これが実に気持ちが良いのです(冷めると気持ち悪いですが)。悪いと思うものでも腕の良い職人の手にかかると認識を覆しますね。

 段泥、或いは段泥風の泥は信楽、伊賀、常滑などでも採れ、鍋に使われたりしますが、これでお茶の専門店HOJOさんが茶壺を作ったので、入手したのが宜興の黄金段と比較で並べていますが左の小さい方です。琵琶湖は古代には違う場所にあってもっと小さかったのですが、それが伊賀郊外の月ヶ瀬というところで、その土として紹介されている古琵琶湖泥です。日本の茶器は緑茶に特化しているので緑茶は確実に合うのですが他のものでも問題なく淹ります。日本の泥は備前や常滑が有名ですが、琵琶湖南方一帯にも良い泥があります。これは写真よりもう少し赤みがかかっており、この泥を日本では正式には「紅泥」と呼びます。茶道ではヤカンに使うことがあります。今時ヤカンは面倒なので茶壺にしたわけですが、これが驚くほど湯が丸くなります。ですからやはり本質的に紅泥なのでしょう。段泥という感じではありません。宜興の方は相当な年月使われてきていますが、古琵琶湖泥も使用すれば似たような外観になると思いますので、どちらも見た目は似ているのにも関わらず特徴は随分違います。思うに、日本には宜興的「段泥」に相当するものがないのかもしれません。特徴が紅泥か朱泥、それしかないから、緑茶、紅茶になっていくのではないかと思います。宜興の紅泥は泥の段階から焼き上がりまで赤いので、日本の紅泥とは外観は違いますが、注ぎ出される湯はというと非常に似ています。いずれも丸く甘くなります。清代には宜興は紅泥を日本に輸出していて、自国では段泥を使っています。段泥はソリッドです。一方日本の方はスイートです。どちらがいいかというのはそれはそれぞれでしょう。段泥的なものが、その土地の茶に対する概念を決定するものであるとすれば、日本の紅泥は宜興の段泥に相当するものなのでしょう。

 400万年前、古琵琶湖が既に存在していた頃に東海湖という大きな湖がありました。それは四日市あたりから瀬戸の方までありました。それが徐々に西に移って大阪全域から京都まで覆う湖に変わっていったので、おそらくこの理由からこの近辺で良質の泥が採れるものと思われます。宇治や伊賀など茶を栽培している地域もあります。日本は抹茶がありますが、元は中国伝来で、大陸では既に失われています。かなり古代から茶関係のものは伝来していたらしいので、当時は唐物などと呼んでいたので遣唐使とか、それぐらいから色々入ってきていたようです。より貿易が活発になってくるのは、江戸時代半ば、清中期頃で、それぞれ鎖国、大陸は海禁と言いますが、西洋人に対する窓口を制限していた時代でした。大陸は寧波を日本に対し解放していました。江戸時代は豊かな時代でしたので、この頃に茶産業が大きく成長したと思われます。

 翡翠は白や緑があります。かつての皇帝が食器にも使っていた材料です。翡翠は高価なので代わりに墨緑石も販売されています。縄文ぐらいから刃物には緑石しか使っていなかったということで、さらに明代紫砂壺黎明期には段泥、つまり主要成分は緑石とかなり徹底しています。緑鉱というものを特別視するべき十分の理由があるように思えます。原始時代では朱泥は食物保管用、緑石は調理食器用と分けられていたということを考えると、この2種は別格扱いで見る必要があるように思います。本山では朱泥層に纏わり付くように緑泥が付着しており、さらに本山の緑泥にはコバルト成分が特に多いという特徴があります。写真の黄色の杯は文革かそれより少し前ぐらいのもので中は白釉がべったりと塗ってあります。この釉薬がすごく価値があるのですが、本山緑泥を外側に塗るのはどういうことでしょうか。昔は外観が美しいということで装飾に使っていたようなのです。勿体無い話です。その上にくっつけて比較しているのは最近焼かれた本山緑泥で、このように新しいうちは緑色なのです。しかし距離を置いて見ると黄色です。不思議な現象です。使って行くと近くから見ても黄色になるようで、しかし紅茶とか普洱だとせっかくの爽やかな色が失われるので発酵度の低い茶専用になってしまいます。そうすると香りが大切ですが緑泥はこれが弱くなってしまい、一方口の中に残る甘みが強烈に感じられ、甘い菓子を舐めたような強烈なスイート感が残留し、それが鼻にも抜けてきます。つまり飲んだ時は香らないのに、飲んで少し落ち着くと香りがいつまでも残っているのです。これはこれでいいのでしょうけれども、この理由で昔は共生鉱を使ってバランスをとっていたのかもしれません。

 北京の西郊外に紅葉で有名な山があります。北京在住者であれば知らない人はいない有名な山です。香山と言います。トレッキングコースになっており、山頂まで登ることもできます。標高は500mぐらいなので歩いても十分に登れますがリフトもあります。山頂を見に行きますと、岩泥が露出していました。段泥の宝庫なのです。そこで丹念に観察し、特徴的な岩を拾って持ち帰りました。下山の時に敷石を見ながら降りると、使っているのは現地調達と思われる緑石が非常に多いのです。この山はもしかするともっと何か出るのではないかという予感さえします。持ち帰った岩ですが、うちに来た人が見ると大体の人が「すごく重い」と言います。これは禿山を破壊したものではなく、すでに落ちていたものなので、かなり風化しておりすでに脆い状態です。水がかなり染み込みます。一部黄色になっている面が気になりますが、これは鉄分が酸化したもので朱泥ではありません。このように段泥はかなり埋蔵量が多いはずですが、黄龍山で採れるような質のものはなかなかないようです。

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